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昇龍観の傘松で天橋立を股のぞき〜冬至丹後元伊勢行(12)

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海部家始祖の火明命を祀る籠神社〜冬至丹後元伊勢行(11)←(承前)

 

 

 


天橋立を望む「股のぞき」で有名な絶景スポットの傘松公園へ、麓の府中駅からケーブルカーで出発。

丹後海陸交通/天橋立へ行こう!/ケーブルカー・リフト

 


天橋立の主な絶景スポットは、この「昇龍観」の傘松公園、他に「横一文字」の大内峠一字観公園、「飛龍観」の天橋立ビューランド、「雪舟観」の雪舟観展望所の4ヵ所が有名とのこと。

丹後海陸交通/天橋立へ行こう!/天橋立展望スポット

 

 

 

 

次第に、右の阿蘇湾と左の宮津湾を隔てる天橋立が見えてきます。

 

 

 


ここは路線のちょうど真ん中、行き違うための複線部分。

見えている天橋立の向こう岸が、智恩寺文殊堂の建つ文殊地区、その後ろに聳えるのは妙見山と思われます。

 

 

 

 

高度が上がって行くにつれ、景観がどんどん広がります。

 

 

 

 

そして、海抜130mの傘松公園に到着。

 

これを股のぞきして天地を逆転させれば「昇龍観」です。
ただ、もっと晴れて海が明るくならないと、海を空に見立てるにはチョットむりですね(苦笑)

 

 

ということで、試しに上の写真を180度↓回転させてみました。

 


眩しいほどの青空ですが、太陽がまだ低く水面が光を反射するばかりなため、海も本来の明るさに至っていません。

 

この海が、青空と渾然一体となって天橋立が宙に浮かんでいるように見える姿が、「昇龍観」ということなのかと思います。

 

 

 

 

しばし眩しさに耐え、その暖かさに寛ぐサチエ。
太陽光エネルギーをチャージ中。

 

 

 

 


「思うようには見えへんよ〜」という私の言葉をよそに、少し元気を回復させたサチエが、ともあれ股のぞきをやってみます。


案の定、疲れ気味の所へ頭に血が上り、ふらふらと立ちくらみしていました(笑)

 

 

 

 

冠島(かんむりじま)沓島(くつじま)遥拝所。

 

 

 


左手前に、石製の由緒板があります。

 

由緒板

 

両島は籠神社の海の奥宮です。主祭神彦火明命と后神市杵嶋姫命が降臨しました。
彦火明命は豊受大神を祀り丹後丹波から開拓し、后神は航海安全を祈り、両神とも国の発展に貢献しました。

 

この日、これから徐々に天候は不安定になってくるのですが、この時たまたま、有り難いことに冠島と沓島がハッキリ見えていました。

 

 

 

 

上の写真をアップ。

右が冠島、左が沓島。


島の名前は、冠(かんむり)と沓(くつ)で一対一体、という意味の命名かも知れません。

そう考えると、冠を被って沓を履いたままの巨大な神さまが、海面でノンキに仰向けで寝そべっておられるような姿にも見えますね〜(笑)

 

 

 

 

神が宿る冠島(かんむりじま) 沓島(くつじま)について

 

遥拝所の鳥居の先のかなたに浮かぶ二つの島が冠島沓島です。室町時代の画僧雪舟は「天橋立図(国宝)」に本来ならばこの構図に入らない島を絵の右下に描き込んでいます。
それは、この島が天橋立を含む若狭湾沿岸の住民から篤く崇敬され、神宿る特別な島であることを雪舟が知っていたと考えられています。
冠島沓島は籠神社ご祭神の彦火明命(ひこほあかりのみこと)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が天降(あまくだ)り夫婦となった神聖な島として古代から特別視されて来ました。この島に宿る神様は海を行き交う船をお守りし、人々の暮らしが豊かになるよう見守っておられます。
ご神徳は、縁結び・夫婦円満・家内安全・事業繁栄・技術学問向上・航海安全・貿易交渉・財運など広大で、今も人々の祈りが捧げられています。

 

 

天橋立図(あまのはしだてず)雪舟等楊(室町時代・16世紀・京都国立博物館)

e国宝/天橋立図
Wikimedia Commons/File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg


 

冠島と沓島には行ってみたいですけれど、特別な日に限られた方々しか上陸できないようです…

島の詳しい様子については、↓こちらをご参照ください。
丹後の地名/丹後の神宝/冠島と沓島(舞鶴市)
丹後の地名/丹後の神宝/雄島参り(老人嶋神社祭礼)'12(舞鶴市冠島)
丹後の地名/丹後の神宝/雄島参り'11(舞鶴市冠島)

 

 

 


傘松公園イメージキャラクターの「かさぼう」石像。

天橋立の創造とともに生まれてきた妖精。
天に架かっていた橋が倒れて天橋立ができた時、その一部が落ちる途中で妖精となり、人里離れた山の上(現在の傘松)へ舞い降りた。以来、ずっと傘松に住み、天橋立を見守っている。

丹後海陸交通/天橋立へ行こう!/キャラクター紹介

 

とのことです(笑)

 


この時、時刻は09:40を過ぎた頃。
成相寺行き登山バスの冬期始発は09:00で運転間隔20分毎ということですが、この日は積雪によって運転を見合わせており、そのためバス運行開始の報を待ちながら、このように公園でまったりとしていました。

 

 

 


私が案内所へバスについて問い合わせに行っていた間、股のぞき台でひとやすみしていたサチエ。
かなり元気が戻った様子です。

 

そこで10:00からの運行開始を伝えました。

丹後海陸交通/天橋立へ行こう!/成相登山バス

 

 

 

 

成相登山バスのりば近くに掲示された「西国28番札所 成相寺観光案内図」。

 


ちなみに、左下で股のぞきしているお姉さんのイラストですけれど、コレって、どうなんでしょうか…(苦笑)

 

 

 

(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

三十三所最北の成相寺で雪が降る〜冬至丹後元伊勢行(13)

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昇龍観の傘松で天橋立を股のぞき〜冬至丹後元伊勢行(12)←(承前)

 

 

 

 

傘松駅のバス乗り場から、山肌を縫って急勾配を登ること6分ほどで、成相寺山門前の停留所に着きました。

 

西国三十三所の最北端に位置する第二十八番成相山成相寺の山門です。
阿吽の仁王像一対が、守護法神として境内を守ります。

 

なお、バスを終点の成相寺まで乗ってしまうと、この山門脇を迂回してしまいますので、その差わずか徒歩6分ほどですから、是非こちらで下車されることをお奨めします。

 

 

 


阿像。
左手で握った金剛杵をグイっと引き、指を開いた右手を大地に向けて構えています。

 

 

 


吽像。
右の手の平を外に向けて開き、金剛杵を握った左手は下へと伸ばして低く構えています。

 

 

 

 

山門内の参道に掲げられた仁王像の解説。

 

・・・・・・・・

 

成相寺山門に守護法神として安置されている仁王像は、法量二米八十センチ(九尺三寸)の隆々たる筋肉、骨格の堂々たる偉丈夫の姿には誰しも感嘆せざるを得ないであろう。正面南向の立姿でありながら顔面を斜めに捻って、山門中央の通路に厳しい視線をなげつけている。参拝者の視線と仁王像の視線が合致する一瞬、何らかの緊張感を与える。誠に守護法神にふさわしい出來である。
昭和五十九年七月解体修理に依って体内より発見された修理銘文を紹介する。

 


(仁王像の木組)

四本の角材を組合わせカスガイをホゾで接合している。両足の一部は別木ではぎ合わせている。内彫は大胆に肉薄く削られて中心には三寸角の柱を立て頭部を支えている。頭部は差込みである。両腕迄内彫りされている手法は巨大像に使われる手法で、奈良東大寺の仁王像と同じ手法で寄木造りである。

 

(容姿)

阿型

左足を軸に爪先を正面よりやヽ東に向けて軽く腰を捻り右足を半歩斜めに踏み出して力強く立ちはだかる筋骨隆々たる上半身裸体像である。顔面は右足につれて斜めに捻っている。大きく開いた目の視線を開口一喝、憤怒の形相で山門中央の参道をにらみつけている。総体に造りが古式(文様に渦紋)であるために動きは少ない。

ウン型

ア型に比べて太目に作られている。ポーズも左肩を自然に落としてア型より堅さがない。ア型より面相の保存も良く造りが丸顔(平安期に多い)のために目鼻立ちが優しく併せて大きな筋肉の隆起によって十分に憤怒の形相を表現している。特に参道より見るとき、口をへの字に結んだ威厳あふれる口元、厳しく光る眼光に畏怖するより凄みすら覚える当初の面影がウン型の左足と裳と共に最も良く残されている。

両像とも鎌倉時代以降の仁王像に見られる様な動きは全くない。風にたなびく裳すその流れもない。藤原期の天部同様裳が優雅に併り力強くまとめられている。後方側面より見る全体の線は半円ように中へ巻き込まれている。その曲線の感じは藤原期独得のもので腹の出と共にこの仁王像を藤原期のものと決め込む最も重要な要素である。腰から膝にかけて裳の紋様も中広く剛快に彫り込まれ側面も数少ないひだで美しくまとめらている。ア型の右ひだ先に渦巻紋のある点も見逃せない。まことに古式像であることを物語っている。

脚足

ウン型の左足は制作当時のものと思われるものが其のまヽ残っている。藤原様式足である。足のホゾまで一本で彫り出している。足のホゾの後補されたものに貞享五年再興の修理銘文がある。

 

Wikipedia/金剛力士
 

 

 


山門内の参道から見上げた阿像。
その厳しく誰何されている迫力は、身震いするくらいです。

 

 

 

 

こちらは、吽像。
じっと見据えられ、何でもお見通しの眼力に圧倒されます。

 

 

 

 

山門を抜けました。


辺りは一面の雪化粧で山の上は海辺よりぐんと冷えていましたが、バスで暖まったばかり、山門回りに積雪がありませんから、サチエもまだ元気です(笑)

 

そのポーズは、山門の彫刻や木組みを紹介しているとのこと。

 

 

 

 

アップ。

 

波間を走るのは、麒麟でしょうか?
両脇に手前へ飛び出しているのは獅子のようですが。

 

 

 


五重塔です。
鎌倉時代の型式をそのままに復元した、1998年建立の木造塔とのこと。

 

 

 

 

登山バスはここが終点、転回すると乗り場があり、下山へと向かいます。
この石段を昇った正面に成相寺の本堂が聳えます。

 

 

 


石段途中の右手に、撞かずの鐘。


この立派な鐘楼には立派な鐘が据えられているとのことですが、撞かれることがありません。

その悲しい由来が、正面に掲げられた看板に説明されています。

 

 

 

 

(つ)かずの鐘(かね)由来

 

慶長十四年(一六〇九)、山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募った時、裕福そうな女房が「子供は沢山おるがお寺へ寄附するお金はない」と険しい目の色で断った。
やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑み児を抱いて見物していた。そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑み児を落としてしまった。
此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。しかし耳をすますと子供の泣き声、母親を呼ぶ声、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、一切この鐘を撞く事をやめ、

撞かずの鐘となった。

 

けれども2005年6月11日、成相寺の開山1300年記念行事の一環で「撞かずの鐘供養」として約400年ぶりに1日だけ、鐘を撞いて鳴らされたそうです。

 

宮津・成相寺「撞かずの鐘」400年ぶり響く 1日だけの復活

 

日本三景・天橋立近くにある宮津市成相寺の西国第二十八番札所・成相寺で十一日、「撞(つ)かずの鐘供養」が行われた。鋳造時以来約四百年間、突かれることがなかった伝説の鐘が一日だけ復活、境内一帯に時を超えた音を響かせた。

 

寺伝によると、江戸時代の初めに新鐘を鋳造。乳飲み子が銅湯のるつぼに落ちた悲劇があり、完成した鐘を鳴らすと、子どもの泣き声が聞こえたため、その成仏を願って突かれなくなった、とされる。

 

今回、開山千三百年の記念行事の一環として、供養と鐘本来の時を告げる役目を再現しようと鐘突きが実現した。

 

この日午後、石坪昭真住職ら十一人が参道脇の鐘堂前で読経。この後、板張り、密封された堂内の鐘を僧侶らが中に入って交代で打ち鳴らした。午後二時半に三回、三時に三回、四時に四回、五時に五回。「ゴーン」という鐘の音が周囲の山間にこだまし、詰めかけた多くの参拝者や観光客らも静かに手を合わせていた。

 

この鐘は十二日から再び百年間封印され、「撞かずの鐘」に戻る。

京都新聞 2005.06.12 朝刊17版 28頁 対向面

 

 

 


怪しい雲行きの中、その雲の切れ間からひととき太陽の光が降り注ぎました。

 

 

成相寺(なりあいじ)

 

山号:成相山
宗派:橋立真言宗(単立)
本尊:聖観世音菩薩
創建:704年(慶雲元年)伝
開基:真応上人
札所:西国三十三所28番

 

Wikipedia/観音菩薩
Wikipedia/聖観音

 


成相寺ホームページ

由 来
一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに気付きました。僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散っていました。 それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。

 

西国三十三所巡礼の旅/第二十八番 成相山 成相寺

Wikipedia/成相寺

丹後の地名/屋山成相寺(なりあいじ):西国33箇所28番札所:宮津市成相寺

 

成相寺は、2007年に高野山真言宗から独立し、橋立真言宗の単立寺院となっています。

 

 

 


ピントが外れてて少し分かりにくいのですが、長い胴体をくねらした龍の口から、手水が流れ出ています。
その水を受けているのは大きな鉄甕で、鉄湯船という重要文化財。

 

 

 

 

鉄 湯 船(てつゆぶね)

 

重要文化財(工芸品)
鎌倉時代 正応三年(一二九〇)
鋳物師 山河貞清

 

当山の湯屋にて湯船として使用していたもので、直接は入るのではなく湯釜で沸かした湯を入れ、かヽり湯をするために用いられたと思われる。後に薬湯を沸かして怪我や病気の人を治療したとも伝えられています。

成 相 寺

 

 

 

 

本堂内。

 

正面の外陣へは、自由に入らせて頂くことが出来ます。
ただし、そのため本尊前は人の往き来がありじっと居座っていられませんので、ゆっくりと読経できるスペースがありません(泣)

 

賽銭箱の周辺も長く立っていると他の参拝客に邪魔ですし、西国三十三所巡礼の皆さんは、どこで観音経や御詠歌を唱えられるのか謎です。
もしかしたら、堂外でお参りされるのかも知れません。

 

そこで、この写真を撮っているのが堂内最後部の壁際に置かれた長椅子なんですが、ここしかご本尊の方が見えて長居できる場所がありませんでしたので、この椅子に腰掛けながらお参りさせて頂くことにしました。

 

正座というのはもちろんよくある事ですが、椅子に座ってというのが私たちにとっては珍しい状況で、ちょっと不思議な気分でした。

 


賽銭箱の前に、ご本尊のご真言が掲げられています。

本尊 聖観世音菩薩真言
オン、アロリキャ、ソワカ


その左にある蝋燭台の下には、このような説明がありました。

・・三 種 の 供 養

 

一、燈明を供える

「ローソクの光が四方をまんべんなく照らすが如く、私も人間社会の中で公平、平等にすべてを判断することを誓います」と云う意味をこめています。

 

一、花を供える

「花は一年に一度風雪に堪えて美しい花が咲く様に、私も一生の人生、人間社会の中で色々の苦難に堪えて、人間としての自分なりの花を咲かせることを誓います」と云う意味をこめています。

 

一、線香を供える

「線香に点火すれば一瞬、一秒の絶えまなく燃え尽きるまで芳香を出しつづけるが如く、私の一生も燃え尽きるまで不断に精進努力をして人間社会に貢献することを誓います」と云う意味をこめています。

 

以上三つの誓いを先祖に供養する為に、燈明、花、線香を供えるのです。

 

 

 


堂内の向かって右上、数々の額と共に、左甚五郎作「真向の龍」です。
上下左右どこから見ても、龍が真向かいから睨んでいるように見える、ということかと思われます。

 

 

 

 

「真向の龍」アップ。

 

どうでしょう?
もう逃れられない眼力、って感じでしょうか…

 

 

 


本堂の外へ出ると、空を雲が覆って雪が降り始めていました。

 

その様子を見て、他にも熊野権現社、十王堂、一願一言地蔵、観音堂、五重塔、底なし池、展望台など参拝や見所ポイントはあるのですが、今回は残念ながら割愛することにします。

 

この後、天橋立を歩いて渡る予定のため、体力気力と時間には余裕が必要でした。

 

 

 


サチエが凍りかかっています。

 

 

 


撞かずの鐘の鐘楼にも、新しい雪が積もり始めていました。

 

 

 

 

今一度、撞かずの鐘と記念撮影。
寒さで今にもエネルギー切れ寸前のサチエ(苦笑)

 

 

 


あっという間に薄暗くなってしまいました。
再訪を期して一揖し、バス乗り場へと急ぎます。

 

 

 

(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

”お盆の気に変わってきました。”

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さて、冬至丹後元伊勢行を連載中ですけれど、そもそも季節外れというか、夏が真っ盛りのなか雪のちらつく冬至の紀行ばかりもどうかなと思われますので、今回は時節柄の話題を。

 

先だって明けたばかりのお盆(8月15日)について、はるかのそらさんが書かれたブログ記事を拝見し、少し考えたことがございますので、お伝えしたいと思います。

 

ただ、それは記事へのコメントとして入れようと下書きしていたもので、けれどチョット長文になってしまい、コメント欄へ入れるにはご迷惑かもと考え直して、文章はそのままですから誠に申し訳ございませんけれど、ここに記事としてアップさせて頂くことにしました。

 

ということで、はるかのそらさん、勝手にリブログおよびリンクをさせて頂きますので、何卒ご容赦くださいませ。
読者の皆さまも、今回は下記はるかのそらさんの記事を2つお読みになってから本記事をお読み頂ければ幸いでございます。

 


 

 

はるかのそら スピリチュアル&神様のお話​/​お盆の気に変わってきましたの 過去記事

 

 

 

 

お盆と立秋

──────────────────────────────────────

 

こんにちは〜


この回と前回の「お盆の気に変わってきました」記事を拝見してチョット思ったことがあり、それについて考えたり調べたりしているうちに遅くなってしまったのですが、コメントさせて頂きます。

「8月10日前後、お盆の気に変わる」とのことについて、そう言われれば何となくそんな気がしました。

 

記事を拝見した8月9日の夕方、「8月10日前後」かあ〜、などと思って町を歩いていると、毎日とても暑いんですが、日陰でスッ…と涼しい風を感じたので、あ〜もうそろそろ夏もそんな頃合いだなとあらためて思っていたら、蝉のヒグラシが鳴く声をこの夏はじめて聞きました。

 

そして蝉の声ですが、7月はクマゼミとアブラゼミでうるさいだけなのですが、8月に入るとツクツクボウシの声も聞こえ始めていましたし、夜にはもう虫の鳴き声も響き始めています。

 

 

 

 

これらはほんの僅かな兆候ですけれど、8月に入ると夏はそのピークを迎えると同時に、小さな秋が始まるんですね。
それが二十四節気の立秋ということかと思いました。

 

立秋は毎年およそ8月7日ごろ、一年で最も暑い頃ですが、そこから後は少しずつ涼しくなって行くという節気です。
つまり、二十四節気で立秋の対極にある立春が一年で最も寒い頃となり、そこから少しずつ気候が暖かくなって立秋へと至り、今度は立秋から少しずつ涼しくなって立春に還るという、一年に渡って変化していく季節の大きな2つの折り返し地点が、立秋と立春ということになります。

 

ですから、もちろん立秋と立春の間には他の二十四節気が22ありますけれど、太陽が折り返す夏至と冬至を除いて残り20節気はあくまでも同じ方向性での通過点でしかありませんから、立秋と立春という節気は夏至冬至と併せ、全く逆の方向へと折り返す特別な節目なんですね。

 

これを陰陽で表せば、立秋→立春が陰、立春→立秋が陽となります。
そうして立春が陰の極、立秋が陽の極となりますから、立春と立秋は「陰が極まれば陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず」という万物生成消滅の瞬間でもあるということになります。

 

特に、陽の気が陰の気へと反転した瞬間というのは、人間の感性において、ことさら生死を身近に感じる切ない感情が湧き起こる瞬間ではないかと思われます。


秋から冬へと至る明らかな陰の方向性におけるより、むしろ盛夏の中に秋へと向かう陰の方向性を仄かに感じ取る方が、何だかフッと寂しいような懐かしいような、今際の際に立った気分になるように思えますけれど、いかがでしょう?


例えば、聞き慣れた歌でその気分をお伝えするとすれば、夜になって遠くから聞こえて来る盆踊りの『○○音頭』とか、童謡の『ちいさい秋みつけた』とか、井上陽水の『少年時代』とか…

あるいは、はるかのそらさんのように8月の空を見上げて、夏になり見慣れてきた入道雲がモリモリした様子とは違う、秋のように澄んだ青空を見た時とか…

他には上であげたように、朝夕のちょっとした涼しさとか、蝉の鳴き声の変化とか、夜の虫の鳴き声とか、海のクラゲの増加とか…

 

このように、夏の真っ盛りがすなわち衰えの始まりと捉える季節感覚の儚さが、日本人の感性にとって最も故人を偲ぶにふさわしい時期なのかと思えます。

 

ですから、そのような日本的感性と、農作業における実りの進捗と穫り入れ時期の都合や満月の条件などがあり、仏教の盂蘭盆会と道教の中元節とも習合して、故人を偲ぶためのお盆は、かつて旧暦の7月15日と全国的に決まっていたのではないでしょうか。

 

調べたところ、旧暦7月15日はおおよそ新暦8月15日とそれほど大きく離れてはいませんし、立秋は旧暦で七月節(旧暦6月後半から7月前半)ですから、必ずお盆より少し早めに訪れることに変わりはありません。

 

ということで、はるかのそらさんが「8月10日前後、お盆の気に変わる」と感じられる理由のひとつには、もしかして立秋ということが影響しているのかな、と思った次第です。
どうでしょうか?(笑)

 


あと、あの世の人がお盆に帰って来るということについて、関連して思ったことがあります。

 

お盆には、本当に上で書いたような理由がもしあったとしたらなんですが、そのような陽→陰という気の反転を盛夏の中で敏感に感じ取れる感性をお持ちになった方々なら、あの世の人々の気配も感じ取ることはあるのかなあと思います。

 

特に立秋は、そのように陰陽反転の特別な節気ですから、普段あまりあの世を感じることがないような人でも、この時ばかりは感度が上がり、何かを感じることがあるのではなかろうかと思えます。
ましてや、もともと敏感なはるかのそらさんのような方でしたら、アレコレたくさん感じてしまわれるのも無理ないのかと思われます。

 

ちなみに、私の考えるあの世についてですが、あの世というのはココと違う何処か遠くのことではなくて、あの世がもしあるとすれば、それはココにあるのであろうと思っています。
ただ、ココにあるあの世を感じ取れるかどうかの違いがあるだけで、あの世とこの世は重なっているとしか思えません。

 

なぜなら、というか、そう思うからこそ、神社仏閣へ足を運んでいるわけなので。
もとよりどこか遠くの浄土で成仏したいわけではなく、いまココで楽しく有り難いからこそ、神さま仏さまご先祖さまに感謝しているのですから。

 

なので私の考えですと、あの世の人がお盆に帰って来るのではなく、実のところいつもそばにいるのですが中々気付かれないだけで、立秋からお盆の頃になると幾らか普段より敏感に感じ取られることが多くなるのではないか、ということになります。

 

ですから「8月12日にはお盆の気が元に戻る」と感じられたということは、立秋から始まった陽から陰への大きな気の反転がその頃に完了した、ということかも知れません。

 

まあ、こればかりは検証のしようもありませんし、あまり何とも言えませんけれど…

 


以上、勝手な思いつきばかりでスミマセン。
でわでわ〜

 

──────────────────────────────────────

 

 

 

 

~いつも応援ありがとうございます~

龍となり吹雪に舞い昇った天橋立〜冬至丹後元伊勢行(14)

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三十三所最北の成相寺で雪が降る〜冬至丹後元伊勢行(13)←(承前)

 

 

 


傘松公園に戻ると、掻き集められた雪でかさぼうの雪ダルマが作られていました(笑)

 

 

 


股のぞき台から望む昇龍観の風景は、何やら不穏な雲行きとなっています。

 

そこで時刻はお昼前となっていましたから、公園内の展望レストランで昼食をとることにしました。
AmaTerrace(アマテラス)

 

まあ、お味の方はさておき、景観は壁一面のガラス張りで素晴らしく開放的です。
そこでゆっくり、天候の激しい移り変わりを堪能できました(笑)

 

 

 

 

みるみるうちに、太陽が黒い雲に覆われていきます。

 

 

 


と、急に視界の全面がホワイトアウトして、吹雪です。
大きなボタン雪の塊が、強風に舞って飛び交います。

 

 

 


かと思えば、いきなり光が広がって、天空には青空が見え出しますが、下界は吹雪のまま白く煙っています。

 

 

 

 

みるみるうちに、晴れ渡って来ました。

 

 

 

 

そうして一気に吹雪が掻き消され、強い太陽光が海面に反射します。

 

 

 


かと思う間もなく、暗い雲が空を再び覆い始め…

 

 

 

 

またまたドップリと黒雲に空が埋め尽くされますが、海面の吹雪はおさまったようです。

 

 

まあ、こんな感じで、天候は二転三転しながらスペクタクルな光景を展開し続けました。

これら写真は、時間にすれば僅か20分ほどの間に撮ったものです。

 

 


その様子を、簡単なGIFアニメにしてみたら↓こんな感じ。

 

 

 


そして、そのアニメを天地逆転させ、股のぞきしてみたら↓こんな感じです。

 

 

 


天橋立が、天空に舞い昇る龍のように見えましたら、お慰み〜(笑)

 

 

 

 

 

ともあれようやく、ケーブルカーで麓の府中駅へ降りて来ました。
雪が舞っているような天候ですから、リフトは運休になっています。

 

 

実はこの駅のホームに、かつて使用されていたケーブルカーの運転台が展示されています。
それもご丁寧に帽子まで用意され、記念写真を撮れるようになっています。

 

Wikipedia/天橋立鋼索鉄道

 

 

 

そうなればもちろん、サチエが黙っているわけはありません。
そこで、運転台にご機嫌だった様子↓を、こちらもGIFアニメでご覧ください(笑)

 

 

 

次は、ここ府中駅から海辺へと下り、籠神社前から府道607号天の橋立線を海沿いに歩いて行きます。

 

 

 


こちらは昨日、天橋立観光船に乗って上陸した観光船のりばの一の宮駅。

建物の写真を撮っていなかったので、記念撮影。


空は全面の曇りで、降雪量が増えてきました。

 

ここから歩いて行く天の橋立線とは、智恩寺の門前町から天橋立を通って籠神社へと至る自転車歩行者専用の一般府道なんですが、天橋立では舗装のない砂利道ですし、知らなければとても府道とは思えません。

 

路線延長は約3.2kmなので、寄り道せずまっすぐ歩けば、およそ50分の道のりです。

Wikipedia/京都府道607号天の橋立線

 

 

 


一の宮桟橋から海岸線を歩きつつ天橋立を見やると、刻々と天候が荒れて来ています。

無事に向こう岸まで歩いて辿り着けるのか、心配がつのりました。

 

けれど、まあ、行くしかありません。
雨が降るより雪の方が、格段にマシですし…

 

 

 

(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

天橋立を歩く[1]江尻から大天橋の松並木へ〜冬至丹後元伊勢行(15)

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龍となり吹雪に舞い昇った天橋立〜冬至丹後元伊勢行(14)←(承前)

 

 

 

 

天橋立の東北端、旧府中村(現宮津市)江尻からの入り口に到着しました。
雪は止みましたが、風が少し強めに吹いていましたから、サチエの顔が寒そうです。

 

ここから先は、歩行者と自転車および原付バイクのみ通行可。
向こう端の文殊地区にはレンタサイクルが数店ありますから、自転車でこちらの府中地区まで来られる方も時折おられるそうです。

 

 

 

 

「特別名勝 天橋立」

 

日本海の宮津湾にある『天橋立』は、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに、日本三景とされている特別名勝のひとつです。
幅は約20~170m・全長約3.6kmの砂嘴(さし)でできた砂浜で、大小約8000本もの松が茂っている珍しい地形で、その形が、天に架かる橋のように見えることから『天橋立』の名が付きました。

 

天橋立観光ガイド/観る/天橋立

 

 

天橋立公園は、砂嘴である大天橋、小天橋、第二小天橋と、これらの地域が展望できる傘松の4つの地区からなります。

大天橋は江尻から南西に潮流に沿ってできた長さ2,400メートルの砂嘴で、約3,700本のマツが成育しています。

 

京都府/公園・自然歩道の案内/天橋立公園(風致公園)

 

 

 


空はまだ厚い雲に覆われて太陽の光を遮っていますが、次第に山の向こうから青空が見えてきました。


天橋立の宮津湾に面した東側は、このようにずっと砂浜が続いています。

 

天橋立は、沿岸流や波浪によって運ばれる砂礫(されき)が細長く突堤状に堆積してできた砂嘴(さし)によって形成されています。
その砂礫は、主に丹後半島東岸の河川から流出したもので、それが海流により宮津湾の奥へと東から運ばれると、今度は宮津湾西端奥に河口を持つ野田川の水流と湾内でぶつかって、砂礫は海中で細長い線状に堆積します。
そうして砂嘴が育ち続け、約4000年前に天橋立が海面に現れたと推定されているそうです。

京都府/丹後広域振興局/天橋立の概要

 

ですから、今でも東側から砂礫が流れ来るため、このような砂浜になっているようですね。

 

ところが、

砂州の侵食
近年、天橋立は侵食により縮小・消滅の危機にある。
(中略)
 侵食を防ぐため、行政では写真の南側よりの眺めである飛龍観の右側のノコギリ状になっている砂浜部分に養浜を行うために砂州上に小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂を食い止めている。

Wikipedia/天橋立/景観をめぐる問題

 

ということで、実のところこ、これは今ほとんど人工砂浜ということのようです(泣)

 

 

国土交通省/平成24年度近畿地方整備局研究発表会 論文集/新技術・新工法部門
No.15「宮津港海岸『天橋立』における侵食対策事業について
森 宣和・山口睦雅(京都府 建設交通部 港湾課)

 

(2) 空中写真による汀線の変化傾向
図-3は天橋立付近の海岸地形を各年代毎に撮影した空中写真を示している.1963年および1975年の空中写真では,砂嘴の幅が狭く砂浜が侵食されている状況が確認できる.また,江尻港防波堤の上手側(北側)には砂が堆積している状況も確認できる.この時期には侵食対策として大小の突堤群を設置しているが,汀線はほとんど変化しておらず,上手側の構造物により漂砂移動が遮断され抜本的な侵食防止に至っていないことが分かる.次に,1989年の空中写真では,1963年および1975年に比べ,突堤の上手側で砂が堆積しており,全体的に砂嘴の幅は広くなり,汀線は前進している状況が確認できる.先に述べたとおり,1979年には研究会を設立しその後サンドバイパス事業を開始しており,開始10年後の1989年には天橋立全体で砂浜が回復したことが分かる.また,2006年の空中写真では,1989年と比較して,全体に汀線の大きな変化はなく,比較的安定した砂浜が形成されていることが分かる.


あと、松食い虫、流木、カキ殻島など、問題は山積のようですから、どうにか今の景観を自然のままに長く守り続けられますよう祈っています。

 

 

 


松の威容。
おもむろに青空となって来ました。

 

 

 


松並木に陽光が降り注ぎ始めます。

 

ちなみに天橋立が選ばれている5つの「日本百選」。

「日本の松百選」(1983年)
「日本の名水百選」(1985年) ※磯清水
「日本の白砂青松百選」(1987年)
「日本の道百選」(1987年) ※府道天の橋立線
「日本の渚百選」(1996年)

 

 

 

 

天橋立には数多くの命名松があるのですが、これも予習が足らず、松名サインもひとつひとつにありながら、何が何やら分からないまま行き過ぎてしまいました。

 

京都府/丹後広域振興局/天橋立の命名松一覧

 

 

 

 

天候は晴れへと向かっていましたが、まだ風が冷たくサチエは寒そうです。

 

 

 


名前があるのかなかったのか、もう覚えていませんけれど、下に延びた枝がグイッ〜と上に向けてカーブした松。
すごい生命力です。

 

 

 

 

歩いて来た北の方向を橋立の西海岸から望みます。

 

画面右、松のかかった下に見えるタテ縞は、傘松公園へのケーブルカー。
連なる山の一番奥に見える頂上は鼓ケ岳(成相山)、その右手前で雪の積もったピークの下辺りに成相寺があると思います。

 

 

 

 

いつまでも寒そうに、強張った表情で松並木の道を歩くサチエ。
北方向の空は、まだまだ厚い雲に覆われたままですが…

 

 

 


東側の浜辺に出てみると、青空になっていました。
見る見るうちに明るくなって…

 

 

 


あっという間に、海が夏のように冴え渡った鮮やかなコーラルグリーンへと変化します。
コートのフードを被った姿は、一転して違和感を放ちました(笑)

 

 

 

 

とするうちに、またまた厚い雲が太陽を覆います。

 

 

 


これは、千貫松。
特徴のある銘松ですから、この名前だけは後で分かりました〜

 


ということで、大天橋を2/3くらい進みました。

 

天橋立を守る会/松の記憶(史跡など)

 


ここの少し先から砂嘴の幅が広がって、濃松(あつまつ)という地域になります。

 

 

 

(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

天橋立を歩く[2]濃松の磯清水と天橋立神社〜冬至丹後元伊勢行(16)

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天橋立を歩く[1]江尻から大天橋の松並木へ〜冬至丹後元伊勢行(15)←(承前)

 

 

 

 

大天橋で砂嘴の広くなった濃松(あつまつ)と呼ばれるこの辺りには、松だけでなく常緑広葉樹もありますので、ちょっとした森のようになっています。

 

 

 


ここの地盤が砂礫だけとは思えない木々と地面の様子。
下草がないのは、コマメにお手入れをされているのだと思います。

 

 

 

 

限られた地表面積しかないこの平坦で長細い砂嘴にこれほどの樹木が育成し、次に見る磯清水も枯れることなく湧き出ているということは、この地面下に海水と隔絶された状態で豊富な水脈が存在するということになりますが、その仕組みはどうなっているのでしょう、不思議です…

 

 

 

 

「名水百選 磯清水」

二本柱を袖柱で支える立派な造りの屋根に、太目の注連縄が張られています。


伝承では、吉佐宮の故地ともされるとのこと。

ということは、この濃松こそが、真名井神社や皇大神社、豊受大神社を差し置いて、本当の元伊勢である可能性もあるわけです。

 

丹後の地名/橋立明神 磯清水 吉佐宮:日本三景・天橋立の名所:宮津市文珠天橋立

 

 

 


これは井戸なんですけれど、ずっと竹筒から水が流れ出ていました。


本来は釣瓶で汲み上げる方式だったそうですが、今は湧水が涸れない程度の少量をポンプで流しているそうです。

 

 

 

 

磯清水の案内板。

 

磯 清 水 (いそしみず)

 

この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として喧伝されている。
そのむかし、和泉式部も
・・「橋立の松の下なる磯清水
・・・・都なりせば君も汲ままし」
と詠ったことが伝えられているし、俳句にも「一口はげに千金の磯清水」などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重きれてきたことが明らかである。
延宝六年(一六七八)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水記」を刻んで建碑した。この刻文には

丹後国天橋立之磯辺有井池清水涌出、蓋有海中而別有一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、云々

とある。

湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪ずれる多くの人々に親しまれ、昭和六十年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。

 

宮津市教育委員会・・

 

 

 

 

■磯清水の不思議

 

「磯清水」は地下60cmから120cmの地下水で、砂州全般にわたって存在しクロマツを育てているとされる。海に囲まれているのに淡水で飲むこともできる。環境省認定名水百選。
もともと湧出していたのではなく井戸で汲み上げていた。現在はポンプを設置して、細い水を出している。渇水期で量は減っても涸れることはないという。

 

なぜ淡水があるのか、これまで十分な説明はなされていない。以下に勝手な推論を書いてみる。

 

・地表の砂層の下には、水を通しにくい粘土層があるものと推定できる。その上に水が滞留しているのであろう。
・陸地になる前は、宮津湾側と阿蘇海側からの両方の砂が混合して堆積していた。
・3000年ほど前、最初に半島状の陸地となった部分から、宮津湾側と阿蘇海側とでは別個に堆積するようになった。内湾である阿蘇海の側は水流が弱くなって粒子のごく細かい泥が堆積するようになり、粘土として不透水層となった。
・粘土層ができたあとで海面の上昇によって透水性の砂の層が表面を覆った。
・再び海面が下降し、砂層が陸地となり粘土層は表面から見えなくなった。

 

天橋立の想像断面図。
阿蘇海側と宮津湾側では異なる堆積層になっているはずである。水を蓄えるためには粘土層が必ず存在する

 

帯水層ができるためにはこの図のように粘土層が凹地になっている必要がある。何度か海面が上昇下降する間に粘土層の一部が浸食される、あるいは陸化した時に水が流れて表面を浸食する、その後宮津湾側で砂層が新たに形成されるなど、複雑な経緯をたどっているように思われる。
正確な構造は数ヶ所でボーリング調査を行わないと判明しないだろう。

日本に好奇心!ついでに登山/天橋立(京都):天下の名勝はなぜ変わったのか

 

 

 

 

上の磯清水案内板で紹介されていた「磯清水記」石碑。

 

・・・磯 清 水 記

 

丹後國天橋立磯邊有井池清水涌出蓋在海中而別有一派之源乎・古来以爲勝區呼曰磯清水郷談有言和泉式部和歌曰橋立農松農下奈留磯清水都奈利勢波君毛汲末志云々式部従藤原保昌来當國則其所傳稱非無縁也今應清水混海鹹而尋其水路新構幹欄以成界限永使勝區之名垂於不朽而考古之人無瓣尋之疑
・・・延寶六戌午年

當國宮津城主大江姓尚長
弘文院林學士

 

 

 


磯清水のすぐそばに、天橋立神社。

 

先の磯清水が、今ではこの神社の手水的な扱いになっているようですけれど、本来の主祭神はまさにその磯清水であって、当社はそれを祀るための拝所ではなかったかと思われますが、いかがでしょう。

 

 

 

 

天橋立神社(天橋立大明神)

 

天橋立神社の所在する場所は天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たる。近くに真水がわくことから磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社とも言われて来た。
当社の祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では伊弉諾冊(いざなぎ)*命とされ、江戸時代の地誌類では、かつては本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向かって左は大川大明神**、右は八大龍王(海神)とする。
当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに智恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。
一方、南北朝期の「慕帰絵詞(ぼさえことば)」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」[享保九年(一七二四)]や「丹後国天橋立之図」[享保十一年(一七二六)]には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられる。
いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に属する神社であった。現在の社殿は明治四十五年(一九〇七)の再建になる。
当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造の鳥居が立つ。鳥居の石材は花崗岩(かこうがん)で形態は明神型、『吉津村誌』によると慶安四年(一六五一)の造立、願主は智恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを読む事はできない。

宮津市教育委員会・・

* 案内看板には、伊弉諾冊に(いざなぎ)とルビをふっていますが、これは伊弉諾(いざなぎ)と伊奘冊(いざなみ)の二柱、「諾冊二尊」という意味かと思います

**大川大明神とは、舞鶴にある名神大社大川神社の主祭神保食神のことと思われます
**Wikipedia/大川神社

 


主祭神は明治時代に伊弉諾冊命、江戸時代には豊受大神だということで、社地は智恩寺の寺領だったとのことですけれど、それらは、まあ、いずれ歴史の中で付加された後付けですから、やはり古代以前における本来のご祭神は、磯清水ではなかったでしょうか。

 

海上に浮かんだ細長い砂嘴に枯れることなく湧き出る真水、これこそ古の人々に限らず今もって奇跡としか言いようのない大自然の摩訶不思議な惠みですから、まさに神、そのものかと思えます。

 

 

 


文殊方面から来る方々に向け立てられた案内看板。

 

名水井戸
磯清水

 

遠く平安の昔より、周囲海に囲まれた砂州の中にてふしぎにも真清水が湧き、古くから歌や詞に讃えられてきた有名な名水井戸。

 

・・・橋立の松の下なる磯清水
・・・・・都なりせば君も汲ままし
・・・・・・・・・・・・・和泉式部

 

 

 


こちらにも、江尻にあったのより少し小振りな石標がありました。
「名勝 天橋立」

 

そこでサチエがいかにも嬉しそうに、手で持っているものは…

 

 

 


「かっぱえびせん」!

 

封がすでに開いているのは、ここへ来るまで海辺でカモメを見かける度に、少しずつ播いていたからです。
けれどもカモメは普段エサを貰う場所ではないので、全て気がつかず飛び去ってしまいました。

 

にもかかわらずサチエは諦めないまま、じっと機を伺っていたのです〜(苦笑)

 

 

 


大天橋東側の、天橋立海水浴場へと出てみました。
これは来た方向を振り返った北東方面を見ています。

 

天気は完全に快復し、空と海がすっかり青く染まっています。

 

 

 


こちらは、これから進む南西方面。

 

太陽はまだ何となく薄い雲に覆われていますが、それも風の具合で出たり入ったり、明るさはこの日で最高の状態です。
時刻は、14:10ごろ。

 


ここでこれから、「かっぱえびせん」の大活躍が始まります。

 

 

 

(つづく)



 

 

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天橋立を歩く[3] 飛び交う野鳥と浜辺で遊ぶ〜冬至丹後元伊勢行(17)

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天橋立を歩く[2] 濃松の磯清水と天橋立神社〜冬至丹後元伊勢行(16)←(承前)

 

 

 

 

夏か!? と思うほどの冬至とは思えない陽光で、空も海も真っ青になりました。
つい先ほどまで吹雪いていたことが嘘のようです(苦笑)

 

 

 

 

そしてついにサチエが、カモメへの「かっぺびせん」アピールに成功しました。
一羽にエサをあげることができれば、後は沸いてくるようにカモメが集まって来ます。

 

もちろん、「かっぺびせん」を狙うのはカモメだけではありません。
カラスも抜け目なくやって来ます。

 

 

 


夢中になって、カモメへ「かっぺびせん」を放り投げ続けます。

 

私は、真名井神社の御神水と天橋立の磯清水を頂いたペットボトルで満杯になった容量30リットルのリュックを背負っていましたから、砂浜へ出て行くのが億劫なため見学です。

 

 

 

 

多くのカモメはもとより、カラスからトンビまで集合しました。
まばらだった観光客も、群れ集う鳥たちに何ごとかと気を引かれ集まります。

 

サチエは一人、海を向いて「かっぺびせん」を少しずつ播き続けていますから、周囲の賑わいには全く気付いていません。

 

 

 


人が増えてきた上、トンビがかなり攻撃的な急降下を仕掛けてきますから、もうそろそろ潮時かと判断します。
サチエはとにかく夢中のまま(泣)

 

私は重いリュックを取りあえずその場においてサチエの方へ歩いて行き、持っていたカメラとサチエの「かっぺびせん」を取り替えました。

 

私の掛けた声に振り向いたサチエは、いつの間にやら多くの人に取り囲まれていたことへ気付き、ビックリしていました。

 

 

 

 

サチエの小さな手で少しずつ撒いていたのでは「かっぺびせん」が中々無くならず、いつまで経っても終わりませんので、私が一気に撒きました。

そうすれば鳥たちも一斉に寄り集まり、このような大騒ぎとなってしまいました。

 

普段は温和しいイメージのトンビも猛禽類ですから、ここぞという捕食の際にはとても危険です。
どうか良い子の皆さんはマネをしないよう、ご注意くださいね。

 

 

そもそも野生の動物へ、こんな風にエサをあげてイイものなんでしょうか?
やっといて言うのも何ですけれど。

 

一応、エサやり禁止の看板などなく、何より観光船で許されていることですからイイんだろうとは思えましたけれど、もし何か問題やご存知のことなどございましたら、お知らせ下さいませ。

 

 

 

 

何だ、もう終わりか〜、もっと寄こせ〜〜、と言わんばかりの鳥たち。
あ〜、終わった終わった、と涼しい顔で去る私。

 

ここにあらためまして、天橋立の鳥さんたちに御礼を申し上げます。
「遊んでくれてありがとうございました〜 (^。^)

 

 

 

 

置いていたリュックのもとへと私が戻ると、サチエは私のカメラでトンビたちを撮っていました。

トンビたちは、青い空へと戻って行きます。

 

 

 

 

どんどんと高度を上げていき…

 

 

 

 

もう、雲に紛れてしまいそうな勢いです。

 

 

 


イカロスのように…

 

 

 

 

自由自在に青空を謳歌します。

 

 

 

 

どこかへ消えてしまいそうな…

 

 

 


と思ったら返って来ました。

 

 

 

 

アップ。

 

 

 

 

またどこかで、「かっぱえびせん」撒いてるバカな人間いないかな〜、って感じでしょうか(笑)

 

 

 

こうして楽しく天橋立の野鳥たちに遊んで貰った後は、この大天橋から小天橋、文殊地区へと進みます。

 

 

 

(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

天橋立を歩く[4] 廻旋橋から智恩寺文殊堂へ〜冬至丹後元伊勢行(18・最終回)

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天橋立を歩く[3] 飛び交う野鳥と浜辺で遊ぶ〜冬至丹後元伊勢行(17)←(承前)




大天橋から小天橋へと渡る大天橋…
分かりにくいですね〜(苦笑)

天橋立は砂嘴の切れ目によって、大天橋、小天橋、第二小天橋という3つの砂嘴に分けられます。
そして、
砂嘴の大天橋と砂嘴の小天橋を繋ぐ橋が大天橋、砂嘴の小天橋と文殊地区とを繋ぐ橋が廻船橋(小天橋)、ということです。

大天橋や小天橋という砂嘴名と、海をまたぐ本当の橋の名が同じになっているため、混乱してしまいます。


さて、もうかなり、太陽が西へと傾いてきました。
時刻は14:30ごろで、まだまだお昼間なんですけれど、さすが冬至翌日です。




砂嘴の小天橋を横切って廻船橋(小天橋)を渡るとスグに通行止めとなり、橋が回り始めました。
動いているのは手前ではなく向こう側で、赤い帽子にジャンパーを着たおじさんは係員の方です。

右手が外海側の
宮津湾方面、左手が内海側の阿蘇海方面となります。




ここは当初から砂嘴が切れていたところで、九世戸(くせど)あるいは切戸(きれど)と呼ばれています。
昔は水面がもっと広く橋もなかったため、船による「九世戸の渡し」で天橋立に渡っていたそうです。

今では整備された文珠水道(天橋立運河)となり、内海の阿蘇海と宮津湾を結んでいます。
ニューカレドニアのニッケル鉱石を積んだ大型タンカーが宮津湾に停泊し、その鉱石は小型の運搬船に積み替えられ、阿蘇海奥にある須津の冶金工場へと運ばれます。

旋回橋の稼働概念

Wikipedia/可動橋/旋回橋

文珠水道の対岸は、ここから南島に延びる小天橋の松並木。
その右向こうには、早くもこちらへ向かって来る運搬船が見えています。




ニッケル鉱石を積んだ運搬船が通過するところ。
回った廻船橋が、向こう岸にピッタリと寄り添って水路を開けています。




まるで飛び乗れそうな近さで、目の前を通り過ぎる運搬船。
甲板には山積みのニッケル鉱石が見えます。

Wikipedia/ニッケル
光沢があり耐食性が高いため装飾用のめっきに用いられるほか、導電性も高い(鉄、クロムより優れるが銅には及ばない)ため電気接点のめっきにも好んで使われる。ステンレス鋼や硬貨の原料などにも使用される。日本で2010年現在発行されている50円硬貨や100円硬貨は銅とニッケルの合金(白銅)である。




また来ました。
何艘かが、タンカーから同時に出発しているようです。

日本三景のひとつ、この天橋立で、鉱工業の流通現場へ目の当たりに遭遇するとは思いませんでした(笑)


しかし、もともとニッケル精錬所は、阿蘇海の一番奥に軍需工場としてあったため、天橋立そのものを切断し大型船舶を通そうという計画が日中戦争時にあったそうです。
それ以前にも、江戸時代の享俣、元文、寛延、慶応に、漁業と海運のため橋立切断の企てがあったとのこと。
さらには第二次大戦後にも、江尻での切断案が京大舞鶴海洋研究所から発表されました。

このように天橋立には、なかなか際どい生き残りを賭けた危機が続いたようですけれど、その都度、切断へ反対する人々の尽力によって今があるようです。

丹後の地名/日本三景・天橋立(主に自然編)宮津市文珠~江尻
天橋立の切断計画小史
一方では破壊も企てられた。天橋立は湾口を塞いで往来の邪魔になるので、途中で切断して、舟や魚を自由に通そうというもくろみも実は何度かあった。

ですから廻船橋での光景も、日本三景としてあり続けたサバイバルの結果として、とても感慨深いものがあります。




90度回って水道を開けていた廻船橋が戻ってきました。
係員のおじさんは慣れたもので、まだ動いている橋から歩速を変えず、ヒョイとこちらへ乗り移ります。




廻船橋を渡ると、文殊港の灯明台がありました。
かつて港として賑わった時代の灯台がそのまま残っています。




・・・文珠港の灯明台

この橋のあたり、昔は船着場で、文珠の港であった。ことにかつての岩滝港や須津港へ出入する船は、すべてここ文珠の水道を通ったから、いま私たちが想像する以上に、当時の港「文珠」は賑わった。
さてここに建てられた「石灯篭」は、天保十五年(一八四四)、大阪の商人・大和屋藤兵衛という人が、当時宮津の有力商人・宝来屋儀八と酒見屋弥兵衛の二人を世話人にたのみ、ここ文珠・船着場の灯明台とすべく寄附したもので、この台石に「照海夜白」とあることからも、当時の港を照す「灯台」であったことが知られる。
その後、ここ文珠が天橋立とともに発展し、むかしの港風景は知るよしもないが、この「灯篭」だけは土地の人々に愛され、いまもその場所を変えることなく、幕末の姿をそのまま、かくも立派に名勝「天橋立」を見守りつづけている。

宮津市教育委員会・・・
宮津市文化財保護審議会




「天橋山 智恩寺」

廻船橋から歩いてスグです。




山門。

足掛け7年の工期によって、1767年(明和4年)に上棟されたとのこと。
上層には釈迦如来や十六羅漢を安置しているそうです。

扁額にある「海上禅叢」とは、海の上で座禅を組むための叢(草むら)、という意味かと思われます。
智恩寺は臨済宗妙心寺派ということで禅宗ですから、海に向かって座禅したりするのかも知れません。
あるいは、海を観想するのでしょうか。




鉄湯船。

手水鉢として使用されていますけれど、これは元々、寺院の大湯屋で寺僧の施浴に用いる湯船として制作されたものだそうです。

その名前と形、由来や素材、現在の使用方法まで成相寺の鉄湯船とそっくりですが、こちらも同じく重要文化財ですから、完全にガップリ四つですね(笑)




本堂の文殊堂。


智恩寺

山号:天橋山(てんきょうざん)
宗派:臨済宗妙心寺派
本尊:文殊菩薩創建:808年(大同3年)伝
開基:平城天皇(勅願)伝
札所:日本三文殊

Wikipedia/文殊菩薩

智恩寺ホームページ
Wikipedia/智恩寺_宮津市

丹後の地名/天橋山智恩寺(ちおんじ)宮津市文珠
丹後の地名/文珠(もんじゅ)日本三景天橋立の名所 宮津市


実は今まで、文殊さまがご本尊のお寺へお参りしたことがありませんでした。
記憶を辿っても、比叡山延暦寺の文殊楼くらいしか思い出せません。

日本三文殊で、この智恩寺文殊堂と並び有名なのが奈良桜井の安倍文殊院ですが、そちらは三輪の至近にもかかわらず行ったことがありませんので、これが文殊さまご本尊参拝の初経験だと思います。

しかしながら、この文殊堂にはじめてお伺いしたのにもかかわらず、はじめての気がしませんでした。
それは、この文殊堂の大きな写真を、ある時期には何年も毎日のように見ていたことがあったからです。
思い起こせば30年くらいに渡り、この文殊堂を写真で見て来たことに現地で気がつきました。

その写真とは、大阪市営地下鉄の東梅田駅ホームに掲示された電飾看板です。
どのような機縁でそのような広告掲示が継続されているのか分かりませんけれど、とにかく数十年前からずっと文殊堂の巨大な写真が、同じホームの同じ位置に今もあり続けているのです。

ですから何となくこのお姿を拝見し、懐かしいような気持ちになりました(苦笑)




多宝塔。

丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立さ れたこの多宝塔は、室町時代のものとして丹後地方唯一の遺構、とのこと。
下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって中央に大日如来が安置されているそうです。
智恩寺ホームページ/智恩寺めぐり/多宝塔

当初、智恩寺は真言密教の寺院で、南北朝時代以降に禅宗へと改宗されたとのことですから、その由緒によって、真言密教で最高仏とされる大日如来がここで祀られているのでしょうか…




天橋立 三所詣(さんしょもうで)

西国巡礼第28番札所  成相寺(なりあいじ)
丹後一宮元伊勢・・籠神社(このじんじゃ)
日本三文殊・・・・・智恩寺(ちおんじ)

「天橋立三所詣」というものを、この境内に掲げられた幟ではじめて知りました。
このような幟は、籠神社や成相寺にはなかったと思いますし、ネットで検索してもあまりこれといった情報はヒットしませんから、もしかしたら智恩寺が独自に提唱しているのかも知れません。

何しろ文殊地区は天橋立の玄関口で、観光客のほとんどが先ずここに到着し、その大半が対岸の府中まで行くことなく去ってしまうようですから、この地でこのように籠神社や成相寺までの参詣を奨励することは、地域全体の振興にとって重要なことかと思われます。



この後、文珠水道にある智恵の輪石灯籠を見ようと境内の外に出て観光船のりばの方へ行ってみましたが、少しウロウロするも見つからないまま諦めました(泣)

Google Map/智恩寺

上に引用した写真の真ん中あたりにあるんですが、見えますでしょうか?
後で調べると、こんな感じでボート乗り場にまぎれてしまい、知らないとどこにあるか分かりにくい状況です。orz


そうして最後に、天橋立ビューランドの「飛龍観」を見て帰りたいと思っていましたが、すでに時刻が15:30ごろとなっており、天橋立駅前16:45発の高速バスまであまり余裕がありませんでしたので、それも残念ながら諦めました。
天橋立ビューランド/飛龍観・股のぞき



そこでバスを待つ間、どこかで軽く直会でもしようということになりました。
ところが、これもやはり予習が足らないばかりに、手頃なお店の見当がつきません。

すると駅前に唐揚げを売っている小さなお店があり、どうやら店内で食べられるようになっているみたいで様子を伺うと、他におでんやら牛スジの煮込みやら居酒屋料理も豊富なようで、もちろん酒類も揃っていましたから突入します。


Google Map/府道2号線

この田舎の小さな民家みたいな一戸建てですが、私たちの入った時は新規開店したばかりとのこと。
以前ここはタコ焼き屋だったそうで、未だ居抜きそのままの状態で、もっと派手でした。

店主に店の写真を撮っていいか尋ねると、今は外装が
タコ焼き屋のままなので撮らないで〜と頼まれます(笑)
そのため、お店の名前が不明のまま。




看板メニューの若鶏唐揚げと、寒さを癒やす焼酎お湯割り。

お店は若いご夫婦で切り盛りされており、他愛ない世間話しにお付き合いを頂けて、小一時間ほど気楽にくつろげました。




そしてバスは定刻通りに出発し、ようやく大阪への帰路につきました。
丹後海陸交通/高速乗合バス/大阪線(丹後〜大阪)



(おわり) 
 
 
 
 

 

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神の島へ〜初冬厳島行(1)

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昨年の12月4日(金)、広島の厳島(安芸の宮島)へ日帰りで行って来ました。

 

実はその半年前の出雲行を計画している際、当初は出雲→厳島とセットで行けば移動が効率的なので、どうにか併せて行けないものか考えましたけれど、どうしても日程が4泊5日以上となってしまうため、さすがに休日が取れそうになく諦めます。

 

そこでちょうどその半年後、日帰り弾丸ツアーとなってしまいましたが、どうにかリベンジを果たすことができました。

 

厳島には、かつて私が一人で一回それも日帰りにて行ったことがあるだけで、今回同行するサチエとMさんには初見参となります。

 

そしてこの厳島行では、2つの目的がありました。


ひとつは、前回に私が果たせなかった弥山(みせん)への登拝。ロープウェーでは登ったのですけれど、麓から歩いて登る時間の余裕がありませんでした。
もうひとつは、ちょっとした事情があって、自宅の神棚に二枚重なってある厳島神社のお札を一枚に統合したく思っていましたので、新たにご祈祷を受け直すことです。

 

そのため、特に弥山の登拝には時間がかかりますので、厳島参拝でも重要な大聖院を始め、厳島神社の境外摂末社やその他寺院の多くを、今回は残念ながら割愛することになりました。

 

このような事情により、この度の記事は厳島全体のご案内となりませんこと、何とぞご了承くださいませ。

 

なお、島の名前について、

正式な名称は「厳島」(国土地理院管轄)だが、「宮島」という呼称も広く使われる。

 Wikipedia/厳島

とのことで、この記事では厳島で統一させて頂きます。

 

 

 

 

朝の06:05ごろ、JR宮島行のりば。
まだ真っ暗で寒いため、サチエがホット缶コーヒーで気合いを入れます。

 

駐車場事情をよく知らなかったため、少し早い目の05:30ごろに到着し、駅周辺をウロウロすると、JR宮島口駅の反対側に、平日1日400円という格安の駐車場を発見しましたので、車はそちらに駐めました。

 

 

 

 

宮島口の始発はJR宮島フェリーの06:25で、宮島着までおよそ10分。
厳島神社の開門が、正月以外は年中06:30ですから、惜しくもそれには間に合いません。

 

宮島観光協会/各施設料金・時刻表

 

 

 


薄明に浮かぶ厳島。

 

山波の形が、仰向けで横たわり上を見ているお釈迦さまの横顔に見えるそうですが、分かりますでしょうか?

 

 

 


お釈迦さまの目線の先に、明けの明星と残月。

 

 

 

 

デッキには、他に誰もいません。
乗客はわずかで、皆さんお仕事で厳島へ向かわれている様子でした。

 

Mさんは船室内で、しばしの爆睡中(笑)

 

 

 

 

そして、雲がなくなった空の明星と残月。
空の裾が少しずつ、厳島の向こう、北東方面から明るくなって来ました。

 

 

 

 

朝焼けが出始めます。

 

 

 

 

またまた、残月。
明星が見えにくくなって来ました。

 

 

 

 

振り返って見た宮島口の港は、まだ桎梏の闇に包まれたまま。

 

 

 

 

それでも、空はどんどん明けていきます。

 

 

 


これは進路の右側、南西方面の風景。
右手が本州、左が厳島で、この海域は大野瀬戸と呼ばれるそうです。

 

 

 


ようやく朝らしくなって来ました。
天を見ているお釈迦さまの横顔も、ひときわ分かりやすくなっています。

 

 

 


そうして厳島へと到着。
船に乗っていたほんの10分ほどの間に、夜が明けました。

 

 

 


それでもまだ薄暗い参道を、厳島神社へと脇目も振らず歩きましたけれど、大鳥居を目の前にしたら、ともあれ立ち止まって見入らざるをえません。

 

そしてここから、厳島神社への参拝が始まりますが、できるだけ人出の少ない内にご祈祷をお願いしたいと思っていましたので、先を急ぎました。

 

 

 

(つづく)→ 神の宮殿に参入する・厳島神社〜初冬厳島行(2)​



 

 

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神の宮殿に参入する・厳島神社〜初冬厳島行(2)

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神の島へ〜初冬厳島行(1)←(承前)

 

 

 


参拝入口前で受付を済ますと、大きな一枚岩をくり抜いた手水鉢へ。
さすが平日の早朝、まだ07:00前ですから、人影もあまりありません…

 

というのは事実と違って、本当のところ、この写真を撮ったのはその1時間くらい後です(苦笑)

 

先に申し上げましたように、私たちはできるだけ人出の少ない内にご祈祷をお願いしたいと思っていましたので、厳島神社に入って先ず祓殿→客神社→本殿へと急ぎ参拝し進んだため、それまで何も撮影する余裕がありませんでした。

 

そこでご祈祷が終わってからゆっくりと入口へ戻り、それから社殿を巡りつつ写真を撮ったため、いつもの記事なら写真はおおよそ巡った順番通りなのですが、この記事ではできるかぎり順路に合わせ並べ直し、ご紹介させて頂こうと思います。

 

 

 嚴島神社ホームページ/参拝順路

 

 

 

 

参拝入口。

二人とも寒そうです。

 

実際の時刻はもう08:00前ですが、この日は意外と人出が少なく助かりました。

 

 

 


祓殿。
並んだ幣(ぬさ)のひとつを手に持って、自祓いします。

 

机の左に置かれた案内板には、

この串で左右左とお祓いいただきご参拝下さい

とあります。

 

 

 

 

客神社(まろうどじんじゃ)。

 

客神社は摂社第一で、総ての祭典は先ず此の御社で行われる。
建物は御本社(ごほんしゃ)同様、本殿(ほんでん)、幣殿(へいでん)、拝殿(はいでん)、祓殿(はらいでん)から成り、修理の後が少なく、古い様式が残っている。
祓殿の軒先が二段になっている所と、周囲の波除板とに特色がある。

 嚴島神社ホームページ/参拝順路

 

 

 

 

 

(まろうど)神社

御祭神
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
天穂日命(あめのほひのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
熊野櫲樟日命(くまのくすびのみこと)

由緒
御創建は御本社と同時で往古より嚴島両宮と稱へ祭祀等総て御本社と同様にして当社を先祭とする


客神社の神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)によって生まれた五柱の男神です。
本社本殿に祀られている主祭神の宗像三女神も、その誓約によって同時に生まれました。

 

ですから、まあ謂わば、これら五男三女神はアマテラスを母、スサノオを父とした同じ兄弟姉妹の筈なんですけれど、一般的に男神と女神をキッパリ分けて考え、男神五柱はアマテラスの子、女神三柱はスサノオの子と、記紀の記述から解釈されています。
Wikipedia/アマテラスとスサノオの誓約

 

そしてその解釈に基づき、
アマテラス→アメノオシホミミ→ニニギ→ホオリ→ウガヤフキアエズ→神武天皇→…→現天皇
という、アマテラスを皇祖神とした万世一系の皇統が構成されたわけですけれど、宗像三女神の総本社である宗像大社では、何と三女神こそがアマテラスの子という解釈を採っており、その皇統の根幹を覆す立場にあります。

宗像大社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています。三女神のお名前は 田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、田心姫神は 沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は 中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神は 辺津宮(へつぐう)におまつりされており、この三宮を総称して「宗像大社」と申します。

 宗像大社ホームページ/ご祭神と由緒

 

つまり、宗像大社の採る誓約の解釈に基づいて三女神がアマテラスの子とすれば、五男神はスサノオの子となりますから、
スサノオ→アメノオシホミミ→ニニギ→ホオリ→ウガヤフキアエズ→神武天皇→…→現天皇
というように、スサノオが皇祖神ということになってしまいます。

 

 

この問題について、夕陽に輝く日御碕神社は太極を現す~初夏出雲行(22)でも言及しましたけれど、その記事へのコメントで上江洲規子さんから、

五男三女神
一番の問題は、三女が天照の子だとしたら、皇室の祖がスサノオになっちゃうことみたいですね。
宗像大社のご由緒には宮内庁から物言いがついていると、さる神職さんがおっしゃっていました(^^ゞ

と教えて頂きましたように、何だか日本の国体をも揺るがしかねない超弩弓の問題なのに、未だ決着が付いていないということは、全くもって不可思議なお話しです(苦笑)
 

そもそも日本書紀の第六段一書で、五男神と三女神がアマテラスとスサノオどちらの子であるか、本文とは全く逆の結果を示していますから、日本最古の公的な正史にもかかわらず、どうしてそのように曖昧なこととしてしまったのでしょう?

 

それはおそらく、日本書紀編纂期の朝廷が様々な各地勢力との力関係において、そのような記述により諸々折り合いをつけたということだろうとは思いますけれど、それによって、そもそも日本の天皇制という国体が、実のところいかに脆い基盤の上に建っているか思わざるを得ません。

Wikipedia/国体
Wikipedia/万世一系
Wikipedia/皇祖神

 

まあ、それはともあれ、この厳島神社では主祭神である宗像三女神を差し置いて、この客神社の五男神を先祭するということですから、よほど朝廷へ気を遣って来たようです。

 

 

 


奥の本殿、手前の拝殿、その間でそれらを繋ぐ幣殿、を東廻廊から見ます。

「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」の神紋が朱色で描かれた提灯が、海風に大きく揺れていました。

 

 

 


客神社の向かって右横に鏡の池。
画面左端の向こうには、千畳閣の横に建つ五重塔が見えています。

嚴島八景の一

(かがみ)の池(いけ)

清水が湧(わ)き出ており潮が引くと手鏡のように見えることからこう呼ばれる
秋の月とともに詠(よ)まれた歌が多く伝わっている

満潮時には、向こうを取り囲む石垣までの一帯が海水に満ちます。

 

 

 

 

廻廊の向こうに見えるのは、朝座屋。

朝座屋(あさざや)
入口から東廻廊に入り突き当たりが朝座屋。
桁行八間、梁間四間、一重檜皮葺。祀官、供僧などの会合した所。
鎌倉時代の様式だといわれている。
重要文化財。

 嚴島神社ホームページ/参拝順路

 

サチエが寒そうです。

 

 

 

 

立っている東廻廊から右側を望むと、直角に2回曲がって続く東廻廊の向こう、左に本社本殿、右に拝殿の切妻屋根が見えます。

 

 

 


さらに右側真横を見ると、本社へと繋がる東廻廊の終端と、右の海方向へと突き出した平舞台が望めます。

 

この東廻廊と客神社祓殿に囲まれた区域は枡形(ますがた)と呼ばれ、この時は引き潮で海水がありませんけれど、毎年旧暦6月17日に行われる管絃祭では、ここで御座船や曳船がそれぞれ3回廻されるそうです。

鵜島歳時記/厳島神社 管弦祭

 

 

 

 

もう一度、鏡の池の方へ目を向けました。
向こうの石垣、木々の覆い被さった辺りに、何かの気配を感じます。

 

 

 

 

鹿が元気よく走り抜けました(笑)

 

 

 

 

朝座屋の前を右へと曲がって進みます。

 

 

 

 

先ほど見た鹿の様子が気になって、振り返りながら進みます。

 

…って、本当は、ご祈祷の後に入口へ向け歩きながら撮った写真ですけれど、今は順路通りのご説明となっていますので、あしからずご了承くださいませ(苦笑)

 

 

 

 

左の朝座屋と右手にある本殿に挟まれた地に卒塔婆石があります。

卒塔婆石(そとばいし)
鬼界島(きかいじま・硫黄島)に流された平康頼(たいらのやすより)が母恋しさに千本の卒塔婆(そとば)に二首の和歌を書いて海に流した。そのうち一本が池の中の石に流れついたといわれる

卒塔婆が流れついた池の中の石とは、池みたいな形で小さめの石に囲われた中、右上にある大きな石のことのようです。

 

その二首の和歌。

「思いやれしばしと思う旅だにも 猶故郷は恋しきものを」
「薩摩潟沖の小島に我ありと 親にも告げよ 八重の潮風」

 

しかし、ここは鏡の池のような形ですけれど、湧き水が出ているように見えませんし、もちろん鏡の池という看板はなく、ご覧の通り水が貯まっているわけでもないながら、それでも池、ということなんでしょうね…

 

 

 


視線を少し右へ移すと、康頼燈籠があります。

康頼燈籠(やすよりどうろう)

鬼界島(きかいじま)の配流先から許(ゆる)され帰京した平康頼が神恩を感謝して奉納した燈籠と伝えられています。

厳島の中で、最も古い燈籠とのこと。

 

 

 


さらに右を見やると、これは大きな手水鉢でしょうか。
その横に、揚水橋(あげみずばし)が見えています。

 

 

 

 

重要文化財の揚水橋。

一般の人は進入禁止で渡ることはできません。

神社の境内に設置する橋にしては少し異様な形状をした橋です。
背丈の低い高欄が組まれており、親柱の上には擬宝珠の変わりに厚板が組まれています。
幅の広さや強度が施された橋の造りから考察すると、荷車にようなものがこの橋を通行していた可能性も示唆されます。
この橋が造営された理由は不明と伝わっていますが、橋の中央部に水を汲み上げるような装置が組まれていることから、古来では海水を汲み上げていたと推測されています。
しかし海水を汲み上げて何に使用していたのかは不明とされており、一説では海水を使用した儀式が、かつての厳島神社には存在したとも云われております。

 厳島神社・御朱印/宮島・厳島神社「揚水橋」

 

TVで見た「ブラタモリ#49 宮島~宮島は“神の島”!?~」で、タモリがこの揚水橋を渡っていました。
NHK/ブラタモリ/#49 宮島/ルート2嚴島神社
この↑ページ[04社殿を守る智恵②「非常石」]の通り、揚水橋を渡った先の地面に置かれた非常石を見に行く様子が収録されています。

 

写真の右、大きな社殿は本社本殿の側面、その左奥に見えているのは不明門です。

 

 

 

 

国宝の不明門(ふみょうもん・あけずのもん)を望遠でアップ。

 

厳島神社・不明門の歴史・由来
厳島神社の本殿は海上に造営されておりますが、本殿の裏側は陸地となります。
古来から、この陸地部分を「後園(うしろその)」と呼称され玉垣で覆われており、立ち入り禁止の地帯となっています。
そして、この不明門は本殿後方の立ち入り禁止地帯に位置しており、一般の参拝客も見ることが叶わず、本殿脇の玉垣から「屋根の部分」と「門の柱の部分」を少しだけを見ることができます。

 

厳島神社・不明門が造られた目的
この門が造営された経緯は、その名前の通り「不明」となっており、そんな理由から「不明門」と言う名前が付されているとも云われています。
しかし、厳島神社に伝わる言い伝えでは、古来からこの門は御祭神の「伊都岐島神」が「本殿と弥山を行き来するための門」として崇められてきたそうです。
そのため「神が通る門」として神格視され、何人もこの門をくぐる者はいないとのことです。

 厳島神社・御朱印/厳島神社・不明門

 

 

 

 

そして、本社本殿の側面。
右の屋根が一段低くなっているのが幣殿と思われます。

 

 

 

 

東廻廊へ入ってから右へ2度直角に曲がると、枡形を挟んだ向こうに客神社祓殿の正面が見えて来ます。
その屋根の上には、千畳閣の大きな屋根も望めました。

 

 

 


サチエとMさんが客神社祓殿の方へと歩いていますけれど、順路的には逆に、この廻廊の向こうから手前へと歩くことになります。

廻廊の手前左側、屋外に続いている板敷きは、本社前に施された平舞台です。

 

ということで、この写真を撮っている私の背後がようやく本社の祓殿となりました。

 

 

 

(つづく)



 

 

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女神のお膝元を巡る・厳島神社〜初冬厳島行(3)

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神の宮殿に参入する・厳島神社〜初冬厳島行(2)←(承前)

 

 

 

かつて太古の昔より、厳島はその自然の力によって、対岸一円に住まう人々はもとより、海上を航行する舟人たちからも聖なる島として崇められて来たとのことです。

 

島そのものがご神体とされたため、長くに渡り、人が居住することも憚られていました。

 

今の厳島という名前は、かつて伊都岐(いつき)島と表記され、それは斎(いつき)島という「神を斎き祀る島」という意味から由来しているそうです。
そのため、この島に宿る神は、伊都岐島神と呼ばれるようになりました。

 

この神の島は、日本列島の西方から大陸までをも航路によって繋ぐ瀬戸内海の要衝であり、その神も、次第に航海安全を守護するという役割が大きくなって行きます。

 

すると、その伊都岐島(いつきしま)神という名が、玄界灘の航行を守る市杵島(いちきしま)姫命と似ていることから同一視されるようになり、三女神が順次、宗像大社から勧請されたとのことです。

 

 

 

 

先ずは本社正面。

 

嚴島神社ホームページ

宮島観光公式サイト/嚴島神社
宮島観光協会/嚴島神社
Wikipedia/厳島神社

 

立っているのは海の方へと張り出した平舞台。

真後ろの海上には大鳥居、目の前に高舞台、その向こうに切妻屋根の本社祓殿、そこから廻廊より奥へ、本社拝殿、本社幣殿、本社本殿、そして不明門へと一直線に続きます。

 

これは海上の大鳥居から、神が弥山へと往き来する不明門までを正中で貫くことにより、海と山がそれら社殿によって繋がれている、ということかと思われます。

 

 

主祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・・・・田心姫命(たごりひめのみこと)
・・・・湍津姫命(たぎつひめのみこと)

 

Wikipedia/宗像三女神

 

ちなみに、前回の客神社で話題にしたアマテラスとスサノオの誓約について、厳島神社は自ら主祭神とする宗像三女神の親神をどちらとするのか、その見解を確かめるためホームページの「御由緒」を見てみましたら、このようなことです。

当社の御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で剣玉の御誓(うけい)をされた時に御出現になった神々で、御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けられた。

 厳島神社ホームページ/御由緒 拝観

 

つまり厳島神社は、宗像三女神の親神についてどちらとも言及しないまま、その見解の表明を明らかに避けています(苦笑)

 

 

 


高舞台前から見た祓殿の内部。

 

奥の拝殿には、ご祈祷中の女性と、その向こうに神職がおられるのが見えます。
ここで失礼を顧みず、誠に勝手ながらアップさせて頂きますと、↓こんな感じ。

 

 

 

 

このように、とても大きく左右に広い拝所のスグ向こうでご祈祷を受けますから、ここへ大勢の賑やかな観光客の皆さんにお参りをされてしまいますと、せっかくなのにチョット落ち着かない気分となってしまいます。

 

けれどもこの時、幸いにも人出が少なく、この女性もさぞや心置きなくご祈祷をお受けになられたこととお慶び申し上げます。

 

ということで、もし厳島神社でご祈祷をお受けになられる場合は、出来る限り平日の早朝、少しでも早い時刻(開門06:30)にお足運びを頂けましたら幸いかと存じます。

 

 


前回はじめて厳島へ来た時、平日に新大阪から始発の新幹線を使いましたが、それでも厳島着は08:35となって、すでに厳島神社には幾組かの団体客がおられました。

 

そのため、本来なら祓殿→客神社→本殿と参拝してからご祈祷をお願いすべきところ、混雑が少しでも悪化する前にと思い、全てを端折っていきなりご祈祷を受けてしまいました。

 

けれどそのお陰をもって、ご祈祷中は特に騒がしいこともなく済みましたので、その後に客神社の祓殿へと戻り、参拝を始めました。

 

そうして人出が増えていく中を本社へと至り、この大きな賽銭箱の真ん中辺りに人のスキ間を見つけどうにかしゃがみ込んでお参りをしましたが、お参りが終わってから立ち上がって後ろを振り返ると、いつの間にやら辺り一帯に沢山の人が密集して全く身動きが取れません。

 

えっ、何!? と思っていると海の方角から雅楽の音が聞こえており、少し背伸びして人垣の頭越しからよく見てみると、高舞台で舞楽が始まっていました。

 

私は賽銭箱の前で神さまに正中しお尻を向けたまま立ちはだかっている状態で、舞楽で神さまへ向けたポーズ(↓引用写真)をされる度、それが真っ直ぐに自分へと向けられてしまいますから、何とも困ったような、また正直なところ少し嬉しいような気分でした。

 

 嚴島神社ホームページ/年中行事

 

しかし、いずれにせよ、自分が神さまや舞人へ失礼をしているような状況であることに間違いはありませんでしたから、やはりユネスコ世界文化遺産への人出を甘く見ていたことを思い知らされ、後悔せざるを得ませんでした。

 

このようにして、次に来る時には、出来れば厳島に一泊して朝一番か、せめてフェリーの始発で来ないとなあ、と強く思った次第です(泣)

 

 

 

 

拝殿。
ご祈祷を受けられる方は、床に敷かれた筵の上に正座します。

 

全体に低くフラットな造りですから、立ったままお参りするより、しゃがんだ方が良いとは思いますけれど、そのような人はなかなか見当たりません。

 

 

 


ご祈祷の直後、他に誰もいませんでしたので遠慮なく、ちゃっかり記念撮影。

 

 

 


祓殿の向かって左横から。
右奥の明るい窓が社務所です。

 

 

 

 

これは祓殿の向かって右横から。


右の奥に太鼓が見えますが、その手前、格子に背を向けて椅子があり、ご祈祷を申し込むとそこでしばし待ちました。

 

 

 

 

そして祓殿を抜け、高舞台の手前から海の方を望みます。
天気が今ひとつで、小雨が降ってきました。

 

大鳥居も、雨に少し霞んでいます。

 

その左手前は左門客神社(ひだりかどまろうどじんじゃ)、さらにその左横に左楽房(さがくぼう)。
楽房とは舞楽の奏楽をする所で、右楽房もあります。

 

 

 

 

火焼前(ひたさき)と呼ばれる平舞台の突き出した先端から、大鳥居を望みます。

 

神社で燈籠が正中のド真ん中に一本だけ立っているのは珍しいですけれど、これは多分、夜に船で大鳥居をくぐり参入する際の目印、つまり灯台代わりになっているのだろうと思われます。

火焼前という名前も、かつてはここでかがり火を焚いていたことに由来しているとのことです。


引き潮が進み、次第に大鳥居へと人が集まり始めました。

 

 

 

 

左門客神社
祭神:豊石窓神(とよいわまどのかみ)

 

この右には、

 

右門客神社(ひだりかどまろうどじんじゃ)
祭神:櫛石窓神(くしいわまどのかみ)

 

がありますけれど、この時は工事中で右楽房とともにシートで覆われていましたから写真はありません。

 

櫛石窓神と豊石窓神とは、天石門別神(あまのいわとわけのかみ)の別名とのことです。

Wikipedia/天石門別神

『古事記』の天孫降臨の段に登場する。邇邇芸命が天降る際、三種の神器に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記され、同段で天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神であると記されている。

 

 

 

 

門客神社
御祭神豊磐窓神

 

 

 


左門客神社をアップ。
全体は覆い屋で、中に祠が見えています。

 

格子の真ん中辺りが白くなっているのは、何故なんでしょう?
どうやら黒い塗料が禿げているようですから、参拝客がここへ手を掛け、中を覗いたりするのかも知れません。

 

けれどそれにしては、位置が少し低すぎるような気もしますけれど…?

 

 

 


客神社寄りの東廻廊に繋がった平舞台の上から、客神社祓殿の真正面を望みます。
後ろの岡の上には五重塔と千畳閣が聳え建ち、中々の絶景です。

 

何も知らずにこれだけを見れば、もう十分に本社拝殿と思っても致し方ないほどの貫禄です。

 

 

 

 

客神社の祓殿を、さらに望遠で撮りました。

この枡形で御座船や曳船が廻される管絃祭では、ここがさぞ凄い人だかりになるのだろうと想像できます。

 

 

 


そして今度は、本社祓殿前の平舞台から望んだ客神社祓殿。

 

ちなみに厳島神社の社殿は地上の建物と同様に、礎石の上へ木の杭を立てて建設されているそうですが、この平舞台の脚は、束石と呼ばれる赤間石製の杭とのこと。
アップしてみます↓

 

 

 

このタテに立って平舞台を支えている杭が、束石です。

 

 

 


本社祓殿。
朱色が映えて本当に美しい社殿ですね。

 

先ずこのイメージが宗像三女神に対しありましたから、宗像大社へ行った時にその豪壮かつ簡素な姿や木地そのままの色とのギャップが大きく、同じ宗像三女神なのに何で〜、と驚きましたけれど(苦笑)

 

また、この壁のない造りによってどのような強風をも受け流し、台風から社殿が守られているのかと思います。

 

国宝
建造物
・厳島神社(1件6棟)
・本社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣(不明門を含む)、左右内侍橋)
・本社祓殿
・摂社客(まろうど)神社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣)
・摂社客神社祓殿
・廻廊東廻廊
・廻廊西廻廊
・・・(本社の附)高舞台、平舞台、左右楽房、左右門客神社本殿、棟札4枚
・・・(廻廊の附)棟札19枚

 Wikipedia/厳島神社/文化財/国宝

 

 

 


平舞台の向かって右側から、西廻廊へと進みます。
その西廻廊に取り囲まれて建つのは能舞台。

 

 

 

 

西廻廊と平舞台が接続しています。
天気は小雨模様ながら、次第に雲が切れて青空が見えて来ました。

 

 

 

 

西廻廊へ入る際に見た能舞台。

 

能舞台から斜め後ろに伸びているのは橋掛で、その先の建物は能楽屋。
全て重要文化財です。

 

 

 

(つづく)



 

 

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大国さんと天神さん・厳島神社〜初冬厳島行(4)

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女神のお膝元を巡る・厳島神社〜初冬厳島行(3)←(承前)

 

 

 

 

大国神社へと向けて西廻廊を歩きながら、能舞台の方を振り返りました。
大野瀬戸を隔てた対岸の山々はまだ雨雲に煙っています。

 

 

東廻廊から本社を巡った後、次に西廻廊を進んでいますので、参拝順路の図を再び引用させて頂きます。

 

 嚴島神社ホームページ/参拝順路

 

 

 

 

大国神社(だいこくじんじゃ)

御祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)
相殿神:保食神(うけもちのかみ)

例祭日十二月初子日
御由緒御鎮座の年月不祥

「房顕覚書」の天文六年(一五三七)に大黒と記述があるのが初見で、現在の大国神社と考えられる。
かつては、お供えをここに仮に安置し御本社に運んでいた。

 嚴島神社ホームページ/参拝順路


本社本殿の向かって右横、本殿に向かって祀られています。

 

 

 

 

大国神社の正面から。
こちらは、中にお社があるのではなく、祭壇が設けられています。

 

注連縄が太目ながら短くてカワイイですね。

 

 

 


奥から、入って来た方を見ています。
ここは、西廻廊が右へ直角に曲がる突き当たりとなります。

 

その曲がり角で、Mさんはぼんやりと能舞台を眺めているようです。

 

 

 

 

西廻廊からそのまま大国神社の前を抜けて突き当たると、社殿の外へ伸びる長橋(ながばし)へと真っ直ぐに繋がっています。


その手前を右に折れて進むと、次の天神社となります。

 

 

 

 

重要文化財の長橋。

本社裏の御供所(ごくしょ)から神饌が運ばれる時に使われていたそうです。


その神饌をいったん大国神社に置いてから、本社へとお供えしたということですね。
そのため、大国神社には相殿神として保食神が祀られているのかと思います。

 

ちなみに、宗像三女神は一応スサノオの子神ですから、同じスサノオの子神または孫神である大国主命とは、血の繋がった姉妹兄弟もしくは叔母と甥という関係ですから、大事な神饌を預かる、あるいは毒味? 味見? という重要な役割を、大国さんに担って頂いていたということかも知れません。

 

この橋の手前から縁側が右へと続いており、その先に天神社があります。

 

 

 

 

長橋を、大国神社の社殿横から眺めます。
この橋を支えている杭も、赤間石の束石だそうです。

 

向こうに橋と並行して続いているのは、中が後園(うしろその)と呼ばれ禁足地となっている本社本殿の瑞垣。
長橋を渡りきると、道が左へと折れて不明門のさらに外側に建つ二脚の玉垣門前へと繋がっているようです。

 

 

 


大国神社側面の縁側から絵馬の掛けられた屋根付きの廊下を渡ります。

 

 

 

 

重要文化財
天神社(てんじんしゃ)
御祭神/菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
例祭日/二月二十五日
御由緒/弘治二年(一五五六)

毛利隆元によって「天満宮」として建立された
かつては連歌堂とも呼ばれ連歌興行が行われていた

 

 

 


お社というよりは、まさに連歌堂という名の通り、お堂といった造りです。

 

ここは他の社殿のように風が吹き抜ける壁のない状態ではなく、蔀戸(しとみど)が取り付けられています。
そういえば、東廻廊で見た朝座屋には壁と窓がありましたから、社殿の規模や用途、その建立された時代や寄進者によっても、造りが違ってくるようです。

 

右の縁側の向こうに見えている朱い欄干は、反橋(そりばし)。

 

 

 


天神社の、この広間は拝殿ということでよいのでしょうか。
ともあれ立ち入りはできません。

 

何も置いてありませんので、かなり殺風景な様子です。

戦国時代の武将である毛利隆元の建立ということですから、その父である毛利元就の寄進した能舞台と併せ、やはり武士好みの風情なのかと思えます。

 

 

 

 

残念ながら、格子の中の詳しい様子は分かりませんけれど、この写真をアップしてみると、小さな朱色のお社があるように思えました。

 

もしその通りだとすれば、簡素で武骨な社殿の中に、ひっそり朱のお社で鎮まる天神さんというのも、なかなかにお似合いかも知れません。

 

 

 


長橋側の縁側へ出てみると、ここにも池がありました。

 

 

 

 

やはり水がありませんけれど、これも鏡の池のひとつなんでしょうか?

 

そこでようやく調べてみましたら、先に見た卒塔婆石の池とともに、この池も鏡の池なんだそうです。
錦水館 まっちゃんブログ/嚴島神社にある「鏡の池」について

 

つまり、厳島神社には3つの鏡の池がある、ということですね。

よく知らないままでした、ゴメンなさい。

 

 

 

 

次に、反対側の縁側から反橋と西廻廊を望みます。

 

 

 


西廻廊へと戻りました。
この先、突き当たりの左が反橋、右が直角に曲がる廻廊の続きとなります。

 

 

 

 

西廻廊を進む左側に、先ほどの天神社が見えます。

 

こうすると、その神殿は思いのほか大きく後ろに張り出しており、ほぼ独立した本殿としてあるということが分かります。

 

 

 

 

そこから視線を右に移すと、反橋の全容が近くに見えました。
先ほどから見ているこの平地一帯も、満潮になれば向こうの石垣までが海水で満たされます。

 

 

 

 

重要文化財
反橋(そりばし)
天皇がご派遣になる勅使(ちょくし)がご参拝の際にお渡りになったと伝えられることから別名、勅使橋(ちょくしばし)とも言われる。
弘治三年(一五五七)毛利元就、隆元父子によって再建されたものである。

 

 

 


次にそのまま西廻廊の右側を見ると、能舞台の真正面が眼前に望めます。
右に見えている朱色の社殿は、平舞台に建つ左楽房。

能舞台は毛利元就の造営寄進したもので、屋根檜皮葺、笛柱が独立し、同吟座が広いのが特色、橋掛、楽屋(柿葺)と共に重要文化財。
現在の能舞台は延宝八(一六八〇)浅野綱長によって再建されたものである。
毎年四月十六日から十八日迄三日間神能が行われる。

 嚴島神社ホームページ/参拝順路

 

この写真、あともう少し右から撮っていれば、左楽房と能舞台の間に大鳥居を入れることができましたから、迂闊でした(泣)

 

 

 


能楽堂を振り返りながら進みます。

 

 

 


さらに、進みます。

 

 

 


そして、出口。
これにて、厳島神社の境内参拝は完了しました。

 

ところでこの出口ですが、入口はシンプルな切妻屋根でしたけれど、こちらは豪華な唐破風造りとなっており、とてもアンバランスな状態になっています。
それというのも、実のところ、かつてこちらの方が厳島神社の入口だったとのこと。

 

その詳しい理由については次回に譲って、この厳島神社で明治の神仏分離令まで本殿に祀られていた八臂弁才天像を今に伝える大願寺へと進みます。

 

 

 

(つづく)



 

 

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女神と双身一柱の厳島弁財天・大願寺〜初冬厳島行(5)

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大国さんと天神さん・厳島神社〜初冬厳島行(4)←(承前)

 

 

 


亀居山放光院大願寺(ききょざん ほうこういん だいがんじ)の山門。

 

扁額には山号の「亀居山」、提灯が5つ下げられた門の右に「嚴島辨財天本堂」、左に「大願寺」と書かれており、周囲に塀などはなく、境内の一角にポツリと建っています。


さて、行かれた方ならご存知かと思いますけれど、厳島神社の出口を出て御手洗川を渡るとすぐ目の前に、この山門は聳えます。

 


そして前回の最後に、「かつてここが厳島神社の入口だった」と書いておりましたが、その理由はこのようなことです。

昔、参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして嚴島神社に参拝しました。嚴島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。

 宮島観光協会/観光スポット/大願寺

 

この↑解説から察するに、大願寺はかつて大きな権勢を誇っており、厳島参拝の大元締めというような立場だったようですね。

 

明治元年(1868)の神仏分離令までは、筥崎宮[はこざきぐう]や宇佐八幡宮など多くの社寺の修理造営を掌っており、また大願寺の僧は、全国を托鉢[たくはつ]できる許可を持っていて、その費用に当てていました。

亀居山とは、千畳閣・五重塔がある塔の岡一帯の海に突き出たところで、空から観ると亀の姿に似ているところから名が付いたといわれています。

大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で厳島伽藍[がらん]と呼ばれ多くの堂塔がありました。
現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。

 宮島観光協会/観光スポット/大願寺

 

今は厳島神社の境外末社として豊国神社(ほうこくじんじゃ)になっている千畳閣が、元は大経堂として建設が進められ、最終的に大願寺の本堂になる予定だったとのことで、厳島伽藍と呼ばれるほどの堂塔が建ち並んでいたということですから、神仏分離令以前、厳島の平地部一帯は大願寺の境内地さながらだったようです

 

 

 

 

山門をくぐって境内へ入ると、大きな奇岩をいくつも据えた池に、厳島龍神。
この大願寺の本尊である厳島弁財天のお使いとしてお祀りされているそうです。

 

日本では一般的に、弁才天のお使いといえば蛇ですから、龍というのはそこからより強大なイメージへ発展した結果かと思われます。

神使の館/蛇 1.弁天・弁才天・弁財天の蛇

 

中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも言われる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず、それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである。

 Wikipedia/弁才天/宇賀弁才天

 

竹生島宝厳寺の八臂弁財天像。
弁天さんの頭の上に、蛇体の宇賀神さんがとぐろを巻いて乗っています(笑)

 

 

そこで少し本題から外れますが、上の「偽経」に反応し、前から弁才天をお参りする際の読経に適したお経ってあるかな〜と思っていましたので、この機会にチョット探してみましたら、こちらのブログで詳しく解説しておられました。
Kami Masarky☆/【弁財天五部経と大弁財功徳天秘法】

 

自分にはかなり手強そうなので、チョット悩みますけれど…(苦笑)

 

 

 


伊藤博文お手植えと伝えられる九本松。
ひとつの根から9本の幹へと分かれています。

 

伊藤博文といえば初代内閣総理大臣ですけれど、残念ながらそれほど有り難いという気持ちになれないのは、やはり近代の政治家なのでチョット生臭っぽく感じるのか、あるいはかつて千円札の顔だったからでしょうか(苦笑)


けれども伊藤博文は、弥山に何度も登拝して「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と深く厳島を崇敬した人で、弥山の登拝道を改修し、名物もみじまんじゅうも発案したとのことで、厳島振興に多大なる功績を残したそうですから、地元の方々にとっては特別な存在なのかと思われます。

 

 

 


大願寺の本堂。
昔は僧坊だったとのこと。

 

08:30開扉とのことで、お坊さんや堂守さんが準備をされています。


大願寺

・・・号:亀居山
・・・号:放光院
・・・派:高野山真言宗
・・・尊:薬師如来
・・・・・・弁財天
創建・開基:不祥(平安時代・空海、鎌倉時代・了海)伝
・・・所:中国四十九薬師霊場22番
・・・・・・広島新四国八十八ヶ所霊場1番

 

宮島観光協会/観光スポット/大願寺

宮島観光公式サイト/大願寺
Wikipedia/大願寺_(廿日市市)

 


本堂の中央には本尊のひとつ、空海作と伝えられるかつて厳島神社の本殿に祀られていた八臂の厳島弁財天像が祀られています。

 

それはつまり、厳島神社本社本殿の宗像三女神、その中でも特に市杵島姫と、この大願寺本堂の厳島弁財天とは一対というか、分身あるいは化身というか、もともと神仏習合した双身一柱の神さまということになりますから、両方併せてお参りされるのが宜しいかと思います。

 

また、もちろん日本三大弁才天のひとつとして崇められる際には、この大願寺の弁財天のみならず、厳島神社の三女神をも含め、「厳島の弁天さん」とまとめてイメージされていると思いますので、もともと双身だった二神を引き離した神仏分離令とは、何とも強引で不見識な国策だったかと思われます。

Wikipedia/日本三大弁天

 

それと厳島には、女神の分身としてもう一尊、厳島神社の今はもうない夏堂(本地堂)に、主祭神の本地仏として祀られていた十一面観音像がおられます。
こちらは神仏分離令以降、大聖院の本尊として観音堂に祀られていますので、こちらも併せてお参りされましたら完璧ですね。

 

 広島県教育委員会/広島県の文化財/木造十一面観音立像

 

日本で十一面観音は、よく水の神さまの本地として祀られることが多いですから、この十一面観音像にも、そのような気持ちが込められていることかと思われます。

 


そしてこの大願寺本堂には、他にも沢山の仏像が祀られています。

 

▼もうひとつの本尊
薬師如来坐像(空海作・厳島最古・重要文化財)

 

▼弁財天の脇侍
阿弥陀如来像
如意輪観音像(護摩堂元本尊)

 

▼釈迦羅漢三尊(行基作・千畳閣元本尊・重要文化財)
釈迦如来坐像
阿難尊者像
迦葉尊者像

 

▼釈迦三尊(五重塔元本尊)
釈迦如来坐像
文殊菩薩
普賢菩薩

 

▼(多宝塔元本尊)
薬師如来像

 

▼本堂前
賓頭盧尊者

 


これら仏さまは、もちろん一ヵ所にまとめて祀られているわけでなく、本堂の横一杯一列に並んで鎮座されていますから、全ての仏さまそれぞれへお参りをさせて頂くには、かなりの時間が必要となります。

 

そこで今回、誠に失礼ながら本堂の真ん中で皆さまを一括し、お参りさせて頂くこととしました(苦笑)


日帰りということで時間も限られ、この後に弥山登拝が控えているため、正直すこし気が焦っていました。

そのため、この本堂の右横にある護摩堂へは、失礼ながら一切の気が回らずに、写真も撮っていません。


けれど後で気付いたのですが、2006年に再建されたその護摩堂の本尊である不動明王像を彫られた仏師のドキュメントをTVで見ていましたから、ぜひ一目でも拝見すべきだったと、今でも後悔しきりです(泣)

 NHKアーカイブス/仏心大器 平成の仏師・大仏に挑む

 

 

 


自然石をそのままの形で利用した手水鉢。
蕩々と清水が流れています。

 

 

 

 

そうして参拝が終わると、山の上からようやく太陽が顔を覗かせていました。

 

本堂の内部は撮影禁止ですから、あまりそちらを向いて写真を撮れませんので、詳しい様子をお伝えできなくて残念です。

 

 

 

 

まだまだ寒そうにしている2人。
それでも、本日ひとつめの課題に連なった参拝を滞りなく完遂し、すっきりとした様子です。

 

 

 

 

山門をくぐって、さあ本日ふたつめの課題、弥山へ向かおうかと思った矢先、サチエが山門の側に気になるものを発見しました。


写真の右下、顔出しパネルのようですが、その人はもしかして…

 

 

 

 

平清盛になってしまったサチエ。
この後、変な熱病にうなされることのないよう祈るだけです(苦笑)

 

顔出しパネルの右後ろに、清盛の長男である平重盛がお手植したという枯れた松の老木が横たわっています。

 

そしてパネルの上には、大願寺護摩堂の屋根が見えていました。
こんなことしているヒマがあったなら、何としてもそちらの方へ行くべきだったかも…

 

 

 


ところが、そうして気の抜けたところへ、御手洗川の向こうに大鳥居が望めました。

見たところ、どうやら干潮のピークを過ぎた頃らしく、黄色い通学帽をかぶった小学生の一団が大鳥居へと歩いて行く姿もあります。

 

当初、大鳥居まで行く予定はありせんでした。

 

けれど、この機を逃せば今日はもう大鳥居まで歩いて近づくことはできません。
潮の干満サイクルはおよそ6時間ですから、次に干潮となるのは、今から12時間も後のことです。

 

そして、厳島でこの風景に直面となれば、もう、ともあれ大鳥居へと行くしかありません。

 

おそらく、平清盛さんがサチエに依り憑き、そう諭してくださったのではないでしょうか(笑)
そこで私たちは真っ直ぐに、大鳥居へと向け歩き始めました。

 

 

 

(つづく)



 

 

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海と島を繋ぐ大鳥居・厳島神社〜初冬厳島行(6)

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女神と双身一柱の厳島弁財天・大願寺〜初冬厳島行(5)←(承前)

 

 

 


行く手に何の障害物もない干潟を、ひたすら一直線に大鳥居へと歩きます。

 

もう少しぬかるんでいるのかと思いきや、かなり歩きやすい堅さです。
この砂地には、そう簡単には見えませんけれど、カニや貝やゴカイなど、多くの生き物が棲息しているそうです。

 

そして、厳島だと思えば当たり前にあるこの風景ですが、この変わらない姿を守るには、あまり知られていない地元の方々による尽力があるのだろうと思われます。

 

例えば、大鳥居から少し海寄り、左右に背の低い堤防が見えますけれど、これはおそらく干潟の砂が流れ出ないためのものかと思いますし、この干潟の高低や平坦さによって干満潮時の景観も大きく変わると思いますので、全てが自然任せとは思われません。

 

具体的には何も知りませんけれど、本当にご苦労さま、と勝手ながら思ってしまう完璧な光景です。

 

 

 

 

ずんずんと、近づいて行く様子(笑)

 

 

 

 

オッサン2名で記念撮影。

 

高さは、奈良の大仏(16.0m)とほぼ同じで16.6mとのこと。
5階建のビルくらいになります。

 

大鳥居について、詳しくは↓こちらをどうぞ。
宮島観光公式サイト/自然の重みで建つ大鳥居

 

 

 

 

お目汚しながら、サチエのマネをして万歳ポーズ。
Mさんは、潮の水面に見入っています。

 

 

 

 

4本ある袖柱は、厳島産のスギとのこと。
木組みが頑丈そうです。

 

 

 


内側の扁額には「伊都岐島神社」。
前回ご紹介した、斎(いつき)島から伊都岐(いつき)島になった、という由来の通り。

 

そして外側の扁額には「嚴嶋神社」とあるのですけれど、大鳥居の外側は足下まで海水が上がって来ていたので、写真が撮れませんでした(泣)

 

 

 


主柱を触ってみるサチエ。

 

この大鳥居は1875(明治8)年に建てられた八代目ということで、主柱は腐りにくく虫に強いクスの自然木を使用しており、それを探し出すのに20年近い歳月を要したということです。

 

そこで、ハテ?と思ったのが、クスの主柱とスギの袖柱ともに、継がれたような跡があります。
これは何かと思い、詳しく調べてみましたら、

 

東京文化財研究所/保存科学研究センター/保存科学第50号/厳島神社大鳥居の生物劣化調査

明治8年1875年7月17日上棟(棟札)
東主柱は一本ものだが、西主柱は根元に継木があり、継手は上の貫下から下の貫下に到る長さ約11尺5寸にわたる金輪継とした。各控柱は杉材で、基礎は千本杭としている。
日向国児湯郡岡富村(宮崎県西都市)、讃岐国丸亀の木に島内亀居山の西麓の楠を根継材にし、袖柱の杉4本は島内御山(弥山)の求聞持堂下と奥院、屋根板と上棟の楠は宇品島(広島市南区)、大貫・笠木・島木は求聞持堂下と奥院、額短柱は滝宮、腰貫は求聞持堂、網代梓道木・千本杭は多々良潟からと島内各所から用材を調達(明治八年大鳥居重造記)。

 

昭和25年1950年10月14日
大鳥居修理工事が起工し、根継(6本)・屋根葺替・塗装工事が行われる(報告書)。
▲西主柱(佐賀県佐賀郡鍋島村池ノ上、高岸邸より)は根元に継木。継手は上の貫下から下の貫下に到る長さ約11尺5寸にわたる金輪継、東主柱(福岡県久留米市)は一本ものとした。
▲各控柱は根継方式で上部を杉材、下部を楠材とし、継手は梁行方向に目違立て、これに直角方向に表面だけ目違立てとし、基礎は千本杭とした。

 

ということで、西主柱の1本と袖柱の4本が、クスによって根継ぎされたとのことで、東主柱だけクスの一本ものです。

 

 

 


根継ぎとはいえ、これほど太いクスも中々ないだろうと思えます。
 

足下を見ると、少しずつ上げ潮が進んでいますので、もう暫くすると、大鳥居に触れることができなくなります。
今回、最後のチャンスを存分に楽しんでいました。

 

 

 


西主柱を見上げます。
少し前まで、柱がこれほど自然木のままグネグネしているものと知りませんでしたので、感慨しきりです。

 

鳥居の屋根となる笠木と小棟を支える島木は箱造りで、中に般若心経の漢字がひとつにひとつ刻まれた小石が約7トン分も詰まっており、重しとして機能しているそうです。

 

その小石は、鳥居を立て替える際に入れ替えるのか、あるいは再利用するのか、どちらなんでしょう?
もし入れ替えるとすれば、古いものはお守りに喜ばれそうですね。

 

 

 

 

ガッシリと頑丈そうに組まれています。
けれど、実は少しだけユルめに組まれているかも知れません。

 

柱と屋根の交差する部分には特殊な造りのクサビが使われ、動きや歪みなどを吸収しているそうですから、それと同じ要領だとすれば、これらの木組みにも微妙な組み加減がありそうです。

 

 

 


さらに主柱へ肉薄してみました。
その武骨な自然のグネりにこの朱色、カッコイイですねえ。

 

 

 


サチエも思わず万歳せずにはおれません(笑)

 

後ろで傘をさした人がチラホラいるように、この頃まで軽い小雨はまだ降っていました。

 

 

 

 

いよいよ上げ潮が進み、大鳥居の下が海水に満たされてきました。
子供たちは大鳥居よりも、その海水の変化していく様子へ夢中のようです。

 

 

 

 

大鳥居との別れ際、その大鳥居を紹介するポーズのサチエ。
万歳付きです。

 

 

 

 

次第に大鳥居から遠ざかって行きます。

みるみるうちに、潮が上がって来ました。

 

 

 

 

そして、大鳥居へサヨナラのポーズ。
単なる万歳の連続ですが…

 

なぜかしら、大鳥居を前にすると、よく動くサチエでした(苦笑)

 

 

 


そして、嚴島神社宝物館。

 

宮島観光公式サイト/嚴島神社宝物館

 

小雨が一時、雪と変わりました。
写真で白い点がポツポツとあるのが見えますでしょうか。

 

実はこの時、もう大鳥居も堪能しましたので、さあようやく弥山へ、という意気込みはありましたけれど、この雪でさすがに小休止しようかということになりながら、時刻はちょうど09:00頃、近くには手頃なお店もまだ開いていません。

 

そこで誠に失礼ながら予定にはなかったのですが、目の前にあった宝物館へと行くことになった次第です。

 

 

 

 

大鳥居の根元材
現在建っている大鳥居は明治八年に建立されました
昭和二十六年大補修された際取り換えられた「楠(くすのき)」の旧根元材です

 

どれほど大きいのか、こうして見るとよく分かります。
サチエは寒さでションボリですが。

 

 

 


宝物館の見所といえば、やはり平家納経(へいけのうきょう)だったと思います。
展示されているのはレプリカとのことですが、それも手作り手書きで写されていますから立派なものでした。

 

 

平安時代後期の長寛2年(1164)9月,平清盛をはじめ,子息重盛,弟経盛・教盛・頼盛など平家一門の人々が一巻ずつ結縁(けちえん)書写して厳島神社に奉納した経典群。
各巻とも金銀の優美な金具で飾られた表紙に,経の大意を描いた美しい見返し絵をつけ,料紙は表裏とも金銀の切りはくをまき,野毛あるいは,あし手を散らすなど意匠をこらしてある。また,水晶の軸に金銀の装飾金具をつけ,螺鈿(らでん)をするなど当時の工芸技法の粋をつくしている。平安時代(794~1191)に流行した装飾経の最高峰をなすものであり,大和絵(やまとえ)の史料としても貴重である。

 広島県教育委員会/広島県の文化財/平家納経

 

 

ただ、たった一組の経典をあれほどまで豪華絢爛にしてしまうと、それはもう、仏教本来の教えから完全に逆行しているとしか思えません(泣)
以前、どこかの展覧会か何かでも、この平家納経を見たことがあるのですが、その際にも同様の感想でした。

 

まあ、表現の方法は、人それぞれで構わないんですけれど…

どうせならその手間と費用を虚栄などには無駄に使わず、版木を彫って簡素な経本を沢山作り、広く配布して識字や教義の普及に使えば良かったのになあ、などと思います。

 

 

そのような事を思いながら、しばらくすると、雪も止んで青空が見え始めました。
いよいよ、弥山への出発です。

 

 


(つづく)



 

 

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大聖院と山頂とを結ぶ登拝道へ・弥山〜初冬厳島行(7)

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海と島を繋ぐ大鳥居・厳島神社〜初冬厳島行(6)←(承前)

 

 

 

宝物館の横から大聖院へと続く中西小路を進みます。

 

薄暗い時刻に上陸し、そのまま海辺の厳島神社と大願寺、大鳥居から宝物館へと巡っていましたから気付きませんでしたけれど、思っていたよりかなり紅葉が残っていました。

 

 

 


 

水が流れているのは白糸川です。

 

一見かわいらしい流れですが、2005年9月6日の台風14号によって、この川の上流に大規模な土石流が発生し、弥山登山道で表参道となる大聖院コース、その途上に建つ瀧不動堂や瀧宮神社、麓の大聖院境内の一部、滝小路、そしてこの中西小路など、流域を次々と破壊して埋没させたとのことです。

 

 

 

 

朱い欄干の滝橋。

ちなみに2005年9月の台風で、この滝橋は↓こんなことになってしまっていたようです(泣)

大量の流木により閉塞した滝橋(1)

 土砂災害ポータルひろしま/写真で見る広島県の砂防/白糸川被災復旧写真集

 

 

 


欄干に「たきばし」との銘板。
この滝橋を渡ると、厳島神社の本殿真裏にある筋違(すじかい)橋から続く滝小路に入って、大聖院の正面へと至ります。

 

ここから弥山の頂上近くまで、この白糸川に沿いながら登拝して行くことになります。

 

 

 


厳島神社の別当寺であった多喜山大聖院水精寺(たきやま だいしょういん すいしょうじ)の仁王門。

 

大聖院
山号:多喜山(滝山)
宗派:真言宗御室派大本山
本尊:十一面観音(観音堂)
・・・波切不動明王(勅願堂)
創建:806年(大同元年)伝
開基:空海伝
札所:中国三十三観音14番
・・・山陽花の寺1番
・・・広島新四国八十八ヶ所霊場87番

 

宮島弥山 大本山 大聖院ホームページ

宮島観光協会/観光スポット/大聖院

宮島観光公式サイト/大聖院

 


しかし今回は時間の都合によって、この大聖院本坊への参拝は泣く泣く割愛させて頂きました。

 

本坊には観音堂、摩尼殿、勅願堂、八角万福堂、大師堂、遍照窟、施無畏堂、愛染堂、薬師堂、阿弥陀堂などの堂宇が建ち並びます。

 

仏像も、下に↓引用させて頂きますように、大願寺〜初冬厳島行(5)でご紹介させて頂いた十一面観音をはじめ、

 宮島弥山 大本山 大聖院ホームページ/仏像

 

波切不動明王、阿弥陀如来、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅、賓頭盧尊者、十六善神、三十六童子、百体不動と千体不動、仏庭―如宛、水掛地蔵尊と修行大師、愛染明王、薬師如来と十二神将、釈迦涅槃像と十六羅漢、三十三変化観音、読み書きそろばん地蔵、十二支地蔵、水子地蔵、六波羅密地蔵、一願大師、稚児大師、子育て観音、普陀山招来十一面観音像、百観音お砂踏み、目出しダルマ、狸僧、かえる観音など多彩を極めます。

 

また、本堂観音堂には砂マンダラもあり、地下には中国三十三観音霊場お砂踏み道場としての戒壇めぐりができます。

 

ということで、この本坊を本気で隅々まで参拝させて頂くと、ほぼ半日がかりとなってしまうことは前回すでに実証済みでしたから、私たちは仁王門の前にて静かに合掌し一礼すると、3つある登山ルートのひとつ、大聖院コースへと進みました。

 

 宮島観光公式サイト/弥山散策/全体マップ

 

ただ、弥山が大聖院にとってもご本尊のようなものであり、また境内地でもありますから、山頂の弥山本堂、三鬼堂、不消霊火堂、大日堂、観音堂、文殊堂などへはお参りをさせて頂きますので、大聖院への参拝を全て完全に割愛した、というわけではありません。

 

むしろ肝心要のホットスポットへのみ集中し、お参りをさせて頂いたという解釈も可能かと思われます(苦笑)


 

 

 

大聖院(だいしょういん)
江戸時代、厳島神社の運営を行う別当職(べっとうしょく)の役割を果たし、十数ヶ寺あった社僧(しゃそう)を率いて法会(ほうえ)や延年(えんねん)・晦日山伏(みそかやまぶし)など行っていた。
天正12(1584)年仁和寺(にんなじ)の任助法親王(にんじょほうしんのう)の滞在があり、以来仁和寺との関係を深め、現在は真言宗御室派(しんごんしゅうみむろは)の大本山になっている。また16世紀後半にはここで豊臣秀吉(とよとみひでよし)が和歌の会を行った。
代々の別当職は座主(ざす)と称され、その起源は12世紀高倉上皇(たかくらじょうこう)と平清盛(たいらのきよもり)などの参詣を記した「高倉院厳島御幸記(たかくらいんいつくしまごこうき)」に記されている座主とされている。

 

 

 

 

整備された白糸川。
左に見えている鳥居をくぐって進みます。

 

 

 


瀬戸内海国立公園(宮島)の案内地図看板。

 

厳島は島自身がご神体であり、弥山はもちろんご神体山となりますので、私は長い間、決められた登山道以外は全て禁足地かと思っていましたけれど、実の所そのような決まりはないようです。

 

だからといって、好き勝手に歩き回るのは不敬でしょうし、何より危険です。
遭難者も、年に何人かはいるそうですし。

 

さらに厳島は「植物の正倉院」と呼ばれるほど、その森林は多様性に富んで古来の姿を遺しているとのことですから、貴重な自然を守るためにも、無闇に森の中へと分け入ることは厳に謹むべきですね。

 

厳島での登山については、こちらで詳しくご紹介されていますので、ご参照ください。
宮島弥山倶楽部


 

 

 

今一度、白糸川の同じ風景を広くヨコ位置で見てみます。
2005年の台風によって、ここは土石流に流された巨岩により埋め尽くされていたようです。

 

渓流保全工(大聖院下流付近 その3)被災全景

 

渓流保全工(大聖院下流付近 その3)渓流保全工完成パース

 

渓流保全工(大聖院下流付近 その3)渓流保全工完成写真

 土砂災害ポータルひろしま/写真で見る広島県の砂防/白糸川被災復旧写真集

 

 

そして2008年10月、被災から丸3年を経てこのように復旧工事が完了し、通行止めになっていた大聖院コースも開通となりました。

復旧工事の様子は、↓こちらにも分かりやすく掲載されていますので、ご参照ください。

「みせん」第34号E・瀬戸内海国立公園宮島地区パークボランティアの会


私が前回はじめて厳島へ訪れたのも同じ2008年でしたが、残念ながら2月でしたので、この大聖院コースへは未だ立ち入り出来ないままでした。orz

 

 

 


白糸川の向こうには、大聖院本坊の堂宇が望めます。

 

一番手前が霊宝館、その右に黒瓦の切妻屋根が客殿、左の切妻屋根が観音堂、さらに観音堂の向こうに見える宝珠の屋根が摩尼殿、かと思われます。

 

 

 


大聖院コースの入口となる鳥居。
ここからようやく、弥山への登拝が始まりました。

 

残った紅葉が、鮮やかに参入口を彩ります。

 

左に見えている立派な石垣と漆喰塗りの土塀は、かつて西方院という大聖院の僧坊とその庭園で、今は「雪舟園」として遺されているそうです。

ここには「西方院跡」と書かれた石碑と「雪舟園」と書かれた門があります。この門の中は、今は私有地になっていて入ることはできませんが、昔は、隣りにある大聖院の宿坊だった「西方院」というお寺と庭園があったところです。その庭園は、涙で描いたねずみの伝説で有名な雪舟が造ったという言い伝えがあるそうです。

 Hirolin's weBlog・・・瀬戸内CRUISING/西方院(雪舟園)跡(宮島)

 

 

 


鳥居の前にある石碑やお地蔵さま。

 

上で見た災害時の写真にはありませんので、流され堆積した岩々や土砂の中から見つけ出され、ここに戻されたものとおもわれます。
このような作業も地道に積み重ねられたことで、大聖院コースが復旧されたのかと実感されます。

 

 

 

 

鳥居をくぐると、左手に懺悔(さんげ)地蔵の祠があります。

 

 

 

 

懺悔地蔵

 

貪りの心、怒りの心、愚痴の心、この三つの煩悩によって、肉体と、言葉と、心の上につくさまざまの悪業の一切を包みかくすことなく懺悔いたします。


一切を懺悔することは、信仰の第一歩であり、さまざまの罪障を消滅する功徳であります。ここに懺悔し終わって、今後ひたすら善業を行いお誓い下さい。


Wikipedia/懺悔/仏教における懺悔

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。
(中略)
懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。

 

 

ということで、この鳥居から先、弥山を登拝するにあたっては、ちゃんと懺悔してから進みなさいね、とのお教えです。

私たちはここで、懺悔文と般若心経、お地蔵さまのご真言などお唱えしました。

 

 

懺悔文(さんげもん)

我昔所造諸悪業我れ昔(むかし)より造る所のもろもろの悪業(あくごう)は
皆由無始貪瞋癡皆無始(むし)の貪瞋癡(とんじんち)に由(よ)る、
従身語意之所生身語意(しんごい)より生ずる所なり、
一切我今皆懺悔一切我今(いっさいわれいま)、みな懺悔(さんげ)したてまつる

 

私が昔から作ってきた色々な悪い業は、
遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡すなわち三毒によるものです。
それは、体で行った・話した・思ったという三業から生まれたのです。
私は今、それら全てを懺悔します。

 Wikipedia/懺悔偈
 

 

 


お参りを終えて、今一度お地蔵さまの祠へ見入ります。
と、サチエがペロッと舌を出しました〜!?

 

どうやら、舌を抜かれていないかどうか、気になったようです(苦笑)
もちろんこちらは閻魔さまではありませんので、それはない筈なのですが、自分の懺悔に自信がなかったようです…

 

 

ちなみに、まったくの余談ですが、鳥居≒門ということと、閻魔≒地獄で思い出されるのが、ダンテ『神曲』地獄篇第3歌に登場する「地獄の門」に記された銘文ですね。

我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛、我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ

 Wikipedia/地獄の門/地獄の門の碑銘

 

もちろん、この弥山とは、古代インドの聖なる山である須弥山(しゅみせん)、あるいは御山(おやま、みやま)という古来からの呼び名に由来するとのことですから、地獄ではなく天国への山ということかと思われますけれど、何か、覚悟としては似ています(笑)

 

 

 

 

ネックウォーマーを口元まで引き上げて、舌を抜かれまいと用心するサチエ。
目つきも胡乱になってます。

 

紅葉の向こうには、大聖院本坊のお堂群が見えていました。

 

 

 

 

ようやくスッキリとした青空になりました。

 

これから約3kmのこの道を、片道約1時間半~2時間(休憩含む)とされている所、各所参拝もありますので丸3時間もかけて、登っていくととなります(笑)

 

 

石段2000段!古くからの石仏や町石が残っており、展望の良い場所がたくさんあるコースです。道も改修され、危険な場所はありません。途中の里見茶屋跡でほっと一息、目の前の美しい景色をお楽しみください。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/大聖院コース

 

 

 

 

石段を振り返ります。

 

 

 

 

前を行くサチエを呼び止めて、巨岩と記念撮影。

 

厳島は、ひとつの巨大な花崗岩の塊で、それが隆起し今の様相になったとのことで、花崗岩は比較的に風化しやすく、表層から深部へ向け大きく亀裂が発生するため、このような巨岩になるということです。

 

 

 

 

きれいに復旧された白糸川。


被災時は↓こんな状態。

   被災全景

 土砂災害ポータルひろしま/写真で見る広島県の砂防/白糸川被災復旧写真集

 

 

 


右手に、大聖院本坊最古の建物で、境内の一番奥に聳える大師堂の屋根が見えています。

 

 

 

 

さらに、よく見える位置から撮ってみました。
大師堂の手前右手に建つのは、宮島七福神を祀る八角万福堂です。

 

このように、大聖院コースと本坊の境内は白糸川を挟み平行していますので、どうせなら大師堂の辺りからこちらへ橋を架けて頂ければ、大聖院本坊をお参りしながら通り抜け、そのまま弥山へ登拝できるのになあ、などと思います。

 

まあ、それは、モノグサな人間の了見かとは思いますけれど…(苦笑)

 

 

 


来た方を振り返ると、大野瀬戸が望めました。
大聖院本坊境内の御成門から同じ方向を望むと、さらに絶景が見渡せるとのことです。

 

 

 

 

立派な祠のお地蔵さま。
サチエが食い入るように見入っています。

 

そして手前にある舟形の石像も、お地蔵さんでしょうか。
おそらく、土石流で半分に割れてしまったものが接合されているようです。

 

 

 


右の柱に「宮嶋新地蔵八拾八ヵ所第三拾壱番札所」と板書されていました。
その「宮嶋新地蔵」をググってみましたけれど、残念ながら詳細は不明のままです。

 

実はこのお地蔵さん、土石流によって流木が祠を突き破り、その直撃を受けていったん首が取れてしまったとのこと。
今はどこかから拾われて、元に戻されたようですが、首元の割れ目はそのままのようです。

 

左に見えている変な形の燈籠は、頭と足だけが残っていますが、その間の部分が行方不明のままだそうです。
その他にも、ここには古い町石や石仏群があったそうですが、すべてが土石流により行方不明になってしまったとのこと…

宮島弥山倶楽部/大聖院ルート

 

 


(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

瀧不動から白糸の滝と瀧宮神社・弥山〜初冬厳島行(8)

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大聖院と山頂とを結ぶ登拝道へ・弥山〜初冬厳島行(7)←(承前)

 

 

 

 

先の「宮嶋新地蔵八拾八ヵ所第三拾壱番札所」から少し上がると、そこには大きな砂防ダムが築かれていました。
それも、よく見かけるコンクリート製の殺風景な姿ではなく、石組みによる立派な庭園のごとき威容です。

 

森との景観も素晴らしく調和しています。

 

 

 

 

白糸川2号砂防堰堤
災害関連緊急砂防事業
平成19年10月完成
広島県

 

砂防堰堤(さぼうえんてい)とは、土砂災害の防止に特化した砂防ダムと一般のダムとの区別化を図るため、近年では砂防ダムをそう呼ぶ方が正しいとされているそうです。
Wikipedia/砂防ダム

 

 

 


まさに現代の山城といった感じです。


この砂防堰堤を、下流側と、上空から見ると↓このようなことです。

 

2号堰堤完成写真

 


2号堰堤完成空中写真

 土砂災害ポータルひろしま/写真で見る広島県の砂防/白糸川被災復旧写真集

 

凄いですね〜。
まさに、大聖院本坊を守る!って感じです。

 

 

 


ダムの上流側。
小島のように盛り上がった土塊の緑が茂った辺りに、何か動くものがいました。

 

 

 


望遠で見てみると、鹿です。
一頭だけでノンキにエサを探しているようです。

 

 

 


さらに写真をアップ。
まあ、鹿にしてみれば実際のところ、ノンキというより一所懸命なエサ探しかと思われますけれど…

 

 

 


瀧不動堂。


こちらは、2005年9月の台風による土石流で倒壊してしまったお堂を、2009年に再建されたものです。

 

その再建工事を請けられた建築施工会社の詳しいレポートがありますので、ご参照ください。
真新しいお堂の内部写真もあって、再建の手順など色々な写真で分かりやすく記録されており、楽しく読める貴重な資料です。

 

マルチャンの『こちら現場です』/宮島弥山 大聖院 滝不動堂

 

その他にも、こちらの会社では大聖院をはじめとし、多くの寺院の堂宇を新築・再建・修復されているようです。
MARUYAMA株式会社/これまでの施工例

 

 

 

 

緑に覆われたお堂。
見た目では、とても近年に新築されたとは思えない風格でした。

 

 

 


白糸川の上流に、白糸の滝が見えて来ました。
巨大な岩を滑るようにして、水が流れています。

 

 

 


白糸の滝を望遠でアップ。

 

これだけの水量では、どうにも土石流のイメージが湧きませんけれど、あの災害を引き起こすほどの降水が一気にこの川へ流れ込んだということですから、いかに近年の台風が巨大化しているのかを思わされます。

 

 

 

 

石段の先には、瀧宮(たきのみや)神社。
この社殿も同じ土石流によって壊滅し、2012年4月に再建されたということです。

 

 

 

 

いきなりサチエが、石段から巨岩の上へと飛び出しました。
どうしたのかと思いきや…

 

 

 

 

上の写真をアップ。
マイペースで石段を上がる右のMさんと、左に急いで離脱して行くサチエ…

 

 

 


万歳です。orz
大きな岩の上で、単にこれをやってみたかっただけのようでした。

さあ撮って、とアピールしています(苦笑)

 

 

 

 

せっかくなので私も岩の上に乗り、白糸の滝と瀧宮神社を画面に入れて、2枚目のシャッターを切りました。


万歳の次は、思いっきり背伸びしたポーズ。

とにかく巨大なものを見ると、やみくもにテンションの上がるサチエです。

 

 

 


土石流による災害の以前、この位置からは社の後方一帯に木々が鬱蒼と茂り、白糸の滝を望めなかったそうです。
つまり強大な土石流が、木々もろとも社をなぎ倒したということのようです

 

けれども、その木々が生い茂るさらに以前、この風景は厳島八景のひとつに上げられています。

 

[3]瀧宮水螢

 

厳島八景
約300年前の中国の画家宗迪(そうてき)が湖南省の景勝地・瀟湘(しょうしょう)の八佳景を描いたことに始まり、日本ではこれに倣って近江八景、金沢八景、そして厳島八景などが描かれました。

 

[1]厳島明燈(いつくしまめいとう)…嚴島神社の総灯明。
[2]大元櫻花(おおもとさくらばな)…大元公園の桜の景色。
[3]瀧宮水螢(たきのみやのほたる)…蛍が舞う白糸の滝付近。
[4]鏡池秋月(かがみいけのあきのつき)…客神社脇の鏡池に写る満月。
[5]谷原麋鹿(やつがはらびろく)…谷が原の鹿の群れ。
[6]御笠濱鋪雪(みかさのはまほせつ)…嚴島神社周辺の洲浜の雪景色。
[7]有浦客舩(ありのうらのかくせん)…沢山の船で賑わった桟橋付近の風景。
[8]彌山神鴉(みせんのしんあ)…神を案内したと伝えられる神鴉(ごがらす)。

 宮島観光公式サイト/宮島物知り図鑑/厳島八景

 

 

 

 

瀧宮(たきのみや)神社

御祭神湍津姫命(たぎつひめのみこと)※宗像三女神の一柱
相殿神大歳神(おおとしのかみ)
・・・・素盞嗚尊(すさのおのみこと)
例祭日二月一日
御由緒御鎮座の年月不詳
治承四年(一,一八〇)高倉上皇が平清盛らと厳島参詣した折、三月二十七日夕刻にこの瀧宮神社を参詣したと「高倉院厳島御幸記」に記されている
平成十七年九月六日台風十四号の土石流により本殿が流出し現在の本殿は平成二十四年四月に再建されたものである

 

嚴島神社ホームページ/境外摂末社/滝宮神社

境外末社
背後懸崖に「白糸の滝」があるので滝宮の称があり、一に隈岡宮をこれとも言う。

Wikipedia/タギツヒメ

 

 

 


神社の横から、白糸の滝が間近で見えるところまでサチエが珍しく単独で進みます。
滝の流れる岩がビックリするくらい大きいですから、とにかく大きいものを見るとじっとしていません。

 

 

 

 

出来るだけ白糸の滝に近づき、撮ってみました。

 

白糸の滝
白糸川にかかる高さ約14mの美しい滝で、嚴島八景の一つです。白糸が乱れて流れ落ちるように見えることから名付けられました。和歌や俳句に詠まれることもあったそうです。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/大聖院コース

 

 

 

 

ということで、ムリやりながら記念撮影。

 

広角なので滝が小さく、ピントも全然きませんでした。
もっと後ろにさがり、望遠で撮るべきでしたね(泣)

 

 

 


振り返って来た方を望みます。
大聖院の摩尼殿と、向こうには大野瀬戸が少しだけ見えています。

 

 

 


瀧宮神社の前に戻り、さあ行こか、と声を掛けると、何だか名残惜しげなサチエです。

 

 

 


再び登り始めた石段の脇に、「白糸滝」の石標。

 

 

 

 

少し上がって行くと、見晴らしの良い木立の切れ目がありました。
大鳥居の朱色がポツンと見えています。

 

対岸には陽光が燦々と輝いているようですが、どうやらこちら厳島の平地は少し陰っています。
ただ、大願寺を参拝した頃には山の端から太陽が顔を覗かせていましたし、時刻はもう10:00頃となっていましたから、弥山の上空にはまだ厚い雲がかかっているようです。

 

 

実はこの辺りで、同じく弥山を登拝されていた3人組のお一人とお話しをしました。

その方は修験道の出で立ちをされており、お連れの2名は普通のご婦人でしたから、御先達として弥山をご案内されているようでした。

 

立ったまま休憩されていたところへ私が話しかけます。
「あの〜、スミマセン」
修験の方なら色々とお詳しいかと思い、曖昧な私の記憶を確かめさせて頂きます。

 

「え〜と、こんにちは〜。ちょっとお伺いしたいんですけれど、空海さんはこの弥山で、虚空像菩薩の何とか法の修行をされたんですよね?」と私。
「あ〜、そうですよ〜」と、明るくお答え頂きました。

 

それはともかく、私の“何とか法”ってイイ加減な質問の仕方ですねぇ(苦笑)

 

「それで、空海さんが悟ったのって、やっぱそうなると、この弥山でしたっけ、それか四国の洞窟でしたっけ?」
と、どこまでもイイ加減な聞き方ですが、修験の方はさすが動じず、さわやかにお応えくださいます。

 

「あ〜、お悟りになったのは、室戸岬の御厨人窟(みくろど)で、弥山ではないですね。こちらでは修行されていたとのことです」
「そうですか、ありがとうございました〜」

 

PIICATSの勉強室/虚空蔵求聞持法

 

修験の方、ありがとうございました。
そして後に山頂でも、この方にお会いしまして、興味深いことを教えて頂くことになります。

 

 

 

 

もくもくと石段を踏みしめながら、またゆっくり登って行きます。
 

 

 


石段は、これからもまだまだ続きます。

 

 

 

(つづく)



 

 

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絶景の里見茶屋から賽の河原へ・弥山〜初冬厳島行(9)

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瀧不動から白糸の滝と瀧宮神社・弥山〜初冬厳島行(8)←(承前)

 

 

 

 

ようやく陽射しが明るくなって来ました。
鮮やかに映える木々の木漏れ日を受けて、石段を登って行きます。

 

 

 


先行していた二人が待っていてくれていました。
ここからもう少しだけ登ると、大聖院コースの絶景ポイントに到着します。

 

 

 

 

里見茶屋跡に建つ休憩所の前から見た大野瀬戸の景色。

 

海の手前に大鳥居、そこから右下に厳島神社の社殿が見えています。
タイミング良く宮島フェリーも航行していました。

 

里見茶屋跡
標高166m。大鳥居や宮島の街など景色が一望できる絶景ポイントです。昔は茶店があり、おばあさんがお茶でおもてなしをしてくれていたそうです。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/大聖院コース

 


これとほぼ同じ位置から見た↓GoogleMapのストリートビュー。
ぐるりと周囲をご覧頂けます。

 

GoogleMap/弥山


なお、弥山の大聖院コースと紅葉谷コースは、その全ルートをGoogleMapストリートビューで見ることができます。
よろしければ、バーチャル登山などいかがでしょう(笑)

 

 

 


上の写真から、厳島神社の社殿部分を目一杯アップしてみます。

社殿の向こうには、千畳閣も写っていました。

 

私の安物カメラではこんな程度になってしまいますけれど、もっといいカメラといい望遠レンズで三脚を立て撮影すれば、ずっと素晴らしい俯瞰写真になると思います(泣)

 

 

 

 

同じ位置から、今度は望遠で撮りました。
せっかくなのに、右下の社殿を切ってしまっているのが残念無念です(号泣)

 

 

 

 

そして、上の写真をトリミングして、さらにアップ。
参拝客のお一人お一人が見えています。

 

 

このアップした写真を見た時に、例えばですけれど、神さまの無数にある視点のひとつは、こんな感じなのかとも思えました。

それを、仮に神さまの言葉にしてみると…

 

お〜〜い皆々、それぞれ参拝ご苦労さ〜ん。

おっ、君は○×町の凸凹くんだね、元気でやってるかな、応援してるよ〜。

あら、君は△□村の◇◎ちゃんだったね、活躍してるじゃないか〜、期待してるぞ。

やゃ、君は☆▽区の凹○さんか、今が辛抱のしどころだから、頑張れ〜。

あははは〜〜〜〜〜

 

みたいなことだったとしたら、いかがでしょう?(苦笑)

 

 

少なくとも私の想う神さま仏さまとは、ただ社殿や仏閣に留まってじっとしている存在ではなく、常に山や海の天空を自由に飛び回っておられるイメージです。

 

そのため神社やお寺とは、地面にへばり付いて生きるしかない人間が、そのように奔放な神さま仏さまへ向けて自分たちの意識を集中させるため、やむなく作り出した装置だと考えています。

 

そもそも神さま仏さまとは、もちろん八面六臂どころか無数の分身、目や耳、手や足をお持ちでしょうから、どこに居ても多数の人間一人一人と対面し同行し見守ることができますけれど、残念ながら人間は無力ですから、神社や仏閣に足を運ばないと、神仏にお会いできた気がしない、只それだけのことなんだと思われます。

 

この風景から、そのようなことがあらためて思い起こされました。

 

 

 


太陽が完全に山上へと上がりました。
時刻は10:20ごろ。

 

 

 

 

そうして、また石段を登り始めます。
ところどころに残った紅葉がアクセントとなって、登拝する者の目を飽きさせません。

 

 

 

 

青空が広がっています。

 

 

 

 


道端のお地蔵さま。

 

 

 

 

お地蔵さま、アップ。
かわいいお顔です。

 

 

 


さらにお地蔵さまと標識。


標識には「←弥山山頂 大鳥居→」とありますが、距離が記入されていませんから、ちょっとその存在意義が微妙。

 

 

 

 

そして、こちらもお地蔵さまアップ。
延命地蔵とあって、大きなハスの花と葉?を抱えておられます。

 

 

 

 

緑のトンネルが続きます。
道より他には手を入れておられないようですから、道中ずっと見事な雑木林に囲まれています。

 

 

 


太陽とその木漏れ日。

 

厳島の主な登山ルートは、このコースに限らず全て北から南へと谷間を登るため、朝のうちは中々太陽が顔を出さないようです。

 

 

 


サチエが小休止してこちらを振り返りました。
先を行くMさんも足を止めているようですから、どうやら少し見晴らしの良い場所へ出たようです。

 

 

 


白糸川を挟んだ向こうに、巨大な幕岩がチラリと望めます。
その背後から、太陽がようやく本気になって輝きはじめました。

 

 

 


小さいながら立派なお社のお地蔵さま。
お名前は分かりません。


真っ青な垂れ幕と朱い礎のカラフルな色あいに、宝珠を頂いたトンガリ屋根の愛らしい意匠です。

お供えされている榊と赤い花も造花ではありませんので、どなたかに篤くお祀りされているようでした。

 

 

 


近くにも、四角い石柱に刻まれたお地蔵さまが並びます。

 

 

 

 


さらに緑のトンネルをくぐりながら、石段を登ります。

 

 

 


道は石段ばかりではなく、平らな部分は、このような地道となります。

 

 

 

 

これは、多くの石仏が密集して並ぶ賽の河原を覆う巨岩。

 

石仏群は、ちょっとコワイ感じがしましたので、写真を撮れていません(苦笑)
そのためその様子は、こちら↓をご参照くださいませ。

 


賽の河原
大きな岩の下にはたくさんの塔やお地蔵さんが祀られており、登山者や参拝者を迎えてくれます。「賽の河原」とは、三途の川の河原のことです。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/大聖院コース


この賽の河原へ恐る恐る一礼し、そそくさと歩を進めます。

 

 

 


少し上がると、こちらにも沢山のお地蔵さんがおられました。

 

 

 

 

木々の間から、白糸川の流れが見えます。

 

 

 


こちらは仏像の彫られた丁石。
「九丁」とあるようです。

 

ちなみに大聖院コースは麓から山頂まで今は24丁で、1丁が109mですから合計2,616mということになります。
ただ、昔は18丁だったということですし、色々と置き直されたり新旧の丁石が混在しており、丁石の数字を鵜呑みにはできません。

 

宮島弥山倶楽部/大聖院ルート

 

 

 

 

そして弛まず、緑のトンネルをくぐって行きます。

 

 

 

(つづく)



 

 

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幕岩を仰ぎ虹を見て遊女石畳に・弥山〜初冬厳島行(10)

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絶景の里見茶屋から賽の河原へ・弥山〜初冬厳島行(9)←(承前)

 

 

 


十丁と刻まれた丁石です。
そろそろ中間地点に近づきました。

 

 

 


丁石の写真をアップ。


浮き彫りされた仏さまは、蓮華座に座って合掌しておられるようですが、やはり坊主頭なので、お地蔵さまかお大師さまかと思われます。

 

 

 

 

山そのものが岩の塊だと思い知らされる幕岩。

 

また木々も、よくぞ、たったそれだけの表土に立っていられるなあと感心しますけれど、おそらく大きく拡げたその根の先別れした無数の末端が、岩の小さな亀裂亀裂にガッシリと食い込んでいるのかと思えます。

 

幕岩
高さ30m、長さ150m以上もある巨大な一枚岩です。劇場の緞帳(どんちょう)(上の手に巻き上げる幕)に似ていることから名付けられました。ここが登山道の中間地点です。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/大聖院コース

 

 

 

 

大きく見てみました。
迫力満点ですね。

 

 

 


幕岩から少し上がると、新しい石段と手すりになりました。
これは、振り返って見ています。

 

 

 

 

手すりに腰掛けて小休止。

 

平成17年9月6日の台風14号の土石流により、歩道が流出しました。
立入禁止
DO NOT ENTER

 

ここから崖の下を覗き込むと、確かに古い歩道の残骸が見えました。

 

 

 


そうして石段を登り始め、ふと振り向くと、目の前に虹が出ています。
けれど木立が邪魔で、虹の全体が見えません。

 

 

 

 

そこで、急ぎ石段を駆け上がります。

 

 

 

 

少し見え方がマシになりましたが、まだ木立が被っています。

 

 

 

 

ともあれ、そこから望遠で撮ってみました。

 

 

 

 

さらに上へ進むと、先行していたMさんが虹に魂を吸い取られたよう見入っています。

 

 

 


ここの石段ほぼ最上部から。
まだ何だか、木々によって狭苦しい見え方です。

 

そこで思い切って、道を先に進みました。

 

 

 


そうして緑のトンネルを抜けると、ようやく見晴らしの良いポイントに到達しましたので、やっと虹の全体が撮れました。
この写真は昨年末にも記事に掲載しましたから、もしかしたら、お見覚えがあるかも知れません(苦笑)

 

 

 


虹と記念撮影。
露出が虹と合いませんから、手前はほとんど真っ暗ですけれど。orz

 

 

 


少し進むと、何やら物騒な雰囲気の光景が広がります。

『もののけ姫』で見た、タタラ場のイメージでしょうか(笑)

 

 

 絶対に話したくなる!アニメやゲームの都市伝説/もののけ姫の都市伝説「隠された秘密と裏設定」

 

 

 


近寄って見てみるとこんな感じですが、もちろん物騒な施設ではありません。
むしろ物騒な災害を防ぐため、↓このようにして築かれた、神の島を守る砦です。

 

 

1号堰堤付近復旧工事(崩壊源頭付近)

 

施工状況

 

草木を保護するため仮設した資材運搬用モノレール(1)

 


陸上自衛隊大型ヘリによる濁水処理プラントの輸送(3)

 土砂災害ポータルひろしま/写真で見る広島県の砂防/白糸川被災復旧写真集

 

 

 

 

砂防指定地 白糸川

 

砂防指定地
白糸川1号砂防堰堤

危険 !!
砂防堰堤に立入ったり、
貯水池で遊んではいけません。
広島県


ただ、立入禁止ということですが、↓計画時のパースではもっと自由に入れる構想だったみたいですね。
イラストで楽しげに散策する人々が描き込まれていますから。

 

1号堰堤完成パース

 土砂災害ポータルひろしま/写真で見る広島県の砂防/白糸川被災復旧写真集

 

 

けれど、実際に作ってみると、さすがにこれ危ないんじゃないの? ということになったのではないでしょうか…

 

 

 

 

白糸川1号砂防堰堤
災害関連緊急砂防事業
平成19年3月完成
広島県

 

先に見た2号砂防堰堤が同年10月の完成でしたから、それより上流で規模も大きいこの1号を先に建造し完成させた、ということかと思います。

 

 

 


まさに“砦”です。

 

 

 

 

1号砂防堰堤と、遠くの大野瀬戸をバックに記念撮影。

 

 

 


少し登ると、趣のある石畳がありました。

 

遊女石畳道
昔遊女が寄進して作ったといわれており、現在の道は、別の場所に移設したものです。元の道は平成17年の土石流で流され、残った石は現在の道にも使われています。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/大聖院コース

 

 

この日に出会った下山する登山者はこの方で2人目。

皆さん早くから登り始められたのかと思われます。

 

左の丁石には十三丁、となっています。

 

 


 

また雲が出て来ましたけれど、太陽の光が強さを増して来ました。
時刻は11:00を過ぎています。

 

 

 


大きな角張った岩の上にお地蔵さま。

 

 

 


アップしました。

お地蔵さまの周りにも石が沢山おかれていますし、台となっている岩と全てが一体化し、それでひとつの磐座のようになっています。

 

 

 

 

緑のトンネルは続きます。

 

 

 


上へ上へと続きます。

 

 

 


さらに、続きます…

 

 


(つづく)



 

 

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