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仁王門を抜け鯨岩で絶景を望む・弥山〜初冬厳島行(11)

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幕岩を仰ぎ虹を見て遊女石畳に・弥山〜初冬厳島行(10)←(承前)

 

 

 


ようやく山頂エリアへの入口、仁王門前の四叉路に到着です。
最初の鳥居からここまで、およそ1時間40分くらいかかりました。

 

写真を撮っている私の後方が、登って来た大聖院コース。
石段の左手に建つ仁王門をくぐれば、山頂およびロープウエー獅子岩駅へと向かうコース。
このまま真っ直ぐに進むと、奥の院から多々良へと至るコース。
右の石垣上を手前にぐるっと巻いて行けば、駒ヶ林から麓の大元神社へと下る大元コース。

 

といっても分かりにくいと思いますので、こちら↓のストリートビューで周囲をご覧ください。

 

GoogleMap/弥山

 

 

 


案内地図看板を少し拡大。
仁王門という文字の左上に、現在地の赤い二重丸があります。

 

 

 


私たちの登って来た大聖院コースを示す標識。

厳 島 神 社  2.0km
Itsukushima Shrine
桟  橋  Pier 2.5km

 

 

 

 

仁王門への石段と標識。

 

 

 

 

そして、四叉路の目前に建つ仁王門。

仁王門
2004年の台風で倒壊し、2012年10月に再建されました。2体の仁王像だけは、ほとんど被害がなかったそう。昔は未刻(ひつじ)(午後2時)を過ぎると門を閉じ、登山を禁じていたと言われています。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/山頂付近

 

この仁王門は2004年、台風18号の強風によって倒壊したということで、白糸川が土石流で氾濫したのはその翌2005年となりますから、厳島は2年連続で台風による甚大な被害を受けたということです。

 

 

 


Mさんとサチエ、記念撮影。
仁王さまの前だからか、やたら気合いの入ったMさんです(苦笑)

 

 

 


もうひとつ、続けてスミマセン。

私とサチエの記念撮影。

 

 

 

 

阿形像。

 

 

 


吽形像。

 

 

 

 

弥山「仁王門」
この弥山「仁王門」は平成十一年九月二十四日 台風十八号の強風により、壊れた物を平成二十四年十月に再建いたしました。安置してある仁王像は、中国四大仏教聖地の一つ普陀山(観音聖地)よりいただいたもので背面には普済寺道生法師の御筆による般若心経と普陀山のお砂をうめこんであります。

 

ここにある普陀山とは、中国浙江省の舟山群島にある島ということですから、何かそのような島繫がりから、この厳島とのご縁が出来たのかも知れません。

Wikipedia/普陀山

 

GoogleMap/普陀山

 

 

 

そして、仁王門再建工事の詳しく楽しいレポートがこちら↓にありました。
職人さん方の素晴らしい技はもちろん、地鎮祭の次第、ヘリコプターによる資材搬送や、仁王像を皆さんの手で運ばれる姿など、興味深い現場の様子を豊富な写真でご紹介されています。

 

MARUYAMA株式会社/これまでの施工例/宮島弥山 仁王門再建工事


棟梁の懇親の作!!懸魚(げぎょ)です。

 

いよいよ、始まります。

 

荷降ろしを待つ職人さんたちが見えます!

 

弥山の山道を、下りたり上ったり、道は険しいです。

 

 

 

 宮島観光公式サイト/弥山散策/山頂付近


このMAPで、登って来た大聖院コースと今いる仁王門は、左下にあります。
そこから山頂エリアを時計回りに、下のような順番で巡りました。

 

⑫仁王門→鯨岩→御山神社→水掛地蔵→⑩大日堂→疥癬岩→⑨舟岩→干満岩→⑧弥山展望休憩所→⑦くぐり岩→不動岩→⑥観音堂・文殊堂→⑤三鬼堂→④霊火堂→③弥山本堂→獅子岩展望台→①獅子岩駅

 

 

 

 

仁王門から先も、山道は続きます。

 

 

 


道端の石仏。
お地蔵さまなのか、お大師さまのようにも見えます。

 

 

 

 

アップしてみました。

坊主頭で、胸元に着物の襟があり、合掌されているようです。


やはり錫杖はお持でありませんから、お大師さまのようですけれど、そうするとシンボルの三鈷杵はお持ちなのかどうなのか、微妙です…

 

 

 


次々と、緑のトンネルをくぐって行きます。

 

 

 

 

太陽が、随分と高くなりました。
時刻は11:30ごろ。

 

 

 


常緑樹の緑が陽光に映えます。

 

 

 

 

そして、ちょっと休憩中。


ここから左へは、かなり急な石段が長く続いていますから、その光景を見て気が削がれてしまったようです。

Mさんは、唖然としてその石段を見上げたまま動きません。

 

仁王門のところで、「ここから頂上はもうスグだ〜」と私が調子良く励ましてしまったため、過度な期待が早々の電池切れを招いたようでした(苦笑)

 

 

 

 

そうしてグッタリと休んだ石段の踊り場から、ようやく5分ほど進むと、ついに見晴らしの良い場所へと出ました。
鯨(くじら)岩と呼ばれる自然の巨岩が、絶好の展望台となっています。

 

海に見えている島は、おそらく阿多田島かと思われます。

 

それと、目の前に見えている山の名も調べてみましたけれど、分かりませでした。
厳島を山歩きして廻られた方のブログを参照させて頂きましたが、写真で右の山は、多分ですが「502mピーク」と下の立体地図に書かれたもののようです。

 AWL Action/宮島の岩船山へ縦走



そしてこの鯨岩ですが、大き過ぎて私のカメラでは全く画面に収まりませんでしたから、写真を撮れていません(泣)
ということで、これ↓が鯨岩です。

 

 宮島ロープウエー/弥山の奇岩

 

 

 


先の写真から少し右方向。
遠く向こうに見えている山々は、大野瀬戸を挟んだ本州の山波で、その一番手前が経小屋山(きょうごやさん)かと思われます。

 

こちら側の手前、右に見えているのは厳島で二番目の標高となる駒ヶ林。
厳島の最高峰は弥山で535m、この駒ヶ林は509m、島の南部にある岩船岳が466m、となります。

 

 

 

 

さらに視線を少し右に向けました。
駒ヶ林へは、大元コースから登ることが出来るようですから、次の機会には奥の院と併せ、ぜひチャレンジしてみたいと思います。

 

 

 

 

Mさんもようやくホッとして、笑顔がこぼれます。

 

 

 


望遠で海を望みました。
阿多田島とその左手前に小さな猪子島、さらにその後方にも点々と島が続く瀬戸内海の風景です。

 

 

 


正午近くになって陽光が冴え渡り、海面も輝きます。


この雄大で美しい大自然の風景を目の当たりにしてしまいますと、まさに「神の島」ということを実感せざるを得ません。

 

 

 


そこで折角ですから、ちゃっかりと記念撮影。

 

けれど、上の写真とこの写真を続けて見てしまうのは、何とも神々しさが穢されてしまうような、我ながらそんな気分になりますね…orz

 

 

 

 

そうしてる間にサチエが、鯨岩のすぐ横にある「クジラの糞」と呼ばれる巨岩を、どうにかフンコロガシしようとしています(笑)

 

この糞岩と、鯨岩との位置関係は、この↓ような感じ。

 

GoogleMap/弥山

 

 

 


まだやってます。(笑々)

 

 

 


ここでも残った紅葉が、景色に鮮やかな彩りを添えていました。

 

 


(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

御山神社から巨岩を辿って頂へ・弥山〜初冬厳島行(12)

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仁王門を抜け鯨岩で絶景を望む・弥山〜初冬厳島行(11)←(承前)

 

 

 

 

鯨岩から山頂へ向かって少し進むと、御山神社への案内標識が立っています。

 

 

 

 

標識のすぐ近くに、お地蔵さま?
大きな長細い岩に立方体の岩を置き、その上に鎮座されています。

 

 

 


アップしてみましたが、彫られた仏像の形がハッキリとは分かりません。

 

錫杖を持っておられるような、そうでないような…
もしかして半跏趺坐(はんかふざ)をされているような、そうでないような…

 

 

 


御山神社への参道入口に立つ鳥居。

 

 

 

 

鳥居横にある案内看板。

御山神社は、厳島神社の奥宮で、本殿三棟が品字形に並び、御祭神三女神が夫々一柱ずつ祀られています。
いずれも一間社流造で屋根は柿葺、丹塗の御社殿で、昔から「さんきさん」として崇敬の篤いお社です


この「さんきさん」とは、大聖院本坊の摩尼殿と、弥山の三鬼堂に祀られる三鬼大権現のことです。

そうすると、この案内書には、アレ? と引っかかってしまいますが…

 

 

 


御山神社の境内横にある鳥居と、そこへの石段。
けれど、折角ですからここからは入らずに、右奥へ進み正面へと回ります。

 

 

 

 

南向きの石段途中に石の鳥居、最上部には瑞垣が巡らされ、正面に屋根付きの小振りな鳥居が建ちます。

 

御山神社

外:摂

御祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・・・・田心姫命(たごりひめのみこと)左殿
・・・・湍津姫命(たぎつひめのみこと)右殿

緒:嚴島神社の奥宮で、大きな巌の上の僅かな平地に建てられている。

本殿三棟が品字形に並び、御祭神三女神が夫々一柱ずつ祀られている。

御社殿:本殿は稍大きく桁行一間、梁間五尺余、小高い石の上にある。

左殿と右殿とは同形だが少し小さくて、桁行一間、梁間五尺余、何れも一間社流造、丹塗り、檜皮葺。

例祭日:2月1日

 嚴島神社ホームページ/境外摂末社

 

 

この御山神社は、かつて平清盛が厳島神社の奥宮として建立し、神仏分離令までは三鬼堂と称して、三鬼大権現が祀られていたということです。

 

Wikipedia/三鬼大権現

三鬼大権現は大小の天狗を眷属に従え、強大な神通力で衆生を救うとされ、地元では三鬼さんと親しまれている。

追帳鬼神(ついちょうきしん)「福徳」の徳を司る鬼神で、大日如来を本地仏とする。
時眉鬼神
(じびきしん):「知恵」の徳を司る鬼神で、虚空蔵菩薩を本地仏とする。
魔羅鬼神
(まらきしん):「降伏」の徳を司る鬼神で、不動明王を本地仏とする。

弘法大師空海が大同元年(806年)に弥山を開基した時、三鬼大権現を勧請し祀ったのが始まりとされる。

 

しかし明治の神仏分離令によって、三鬼大権現は新しく建立された三鬼堂へと遷され、この三鬼堂は御山神社と名を変えて、宗像三女神がこの社の祭神とされました。

Wkipedia/御山神社

 

 

そうならば、例え社殿は昔と同じものであれ、祭神が入れ替わり名も変えている以上、かつて「さんきさん」と呼ばれた三鬼堂とは違って、別の神社に生まれ変わった、ということかと思います。

 

しかし、先の案内板であるように〝昔から「さんきさん」として崇敬の篤いお社です〟という書き方ですと、今もって「さんきさん」と呼ばれているように捉えることができますから、現地では実際にどうなんでしょう…?

 

 

もし、今でも「さんきさん」と呼ばれているようでしたら、「三鬼」とは「三女」の別名なのかも知れません。
つまり、三鬼大権現と宗像三女神は習合していた、ということではないかと思われます。

 

 

そもそも、旧三鬼堂も厳島神社の奥宮であったのですから、本殿の主祭神と全く関わりのない祭神を祀ることは考えにくいですし、神仏分離令によってわざわざ三鬼大権現を遷したということは、宗像三女神と習合していた弁財天や十一面観音を遷したことと同様に、三鬼大権現も宗像三女神と習合していたと考える方が最も自然です。

 

 

そして「鬼」という言葉から、三鬼大権現とは、宗像三女神の荒魂ではないかと思われますけれど、いかがでしょうか?

 

 

 


参拝を後回しにして、先に御山神社の前から風景写真を撮りました。
万一この後、天気が悪くなってしまうと、折角の絶景がもったいないと思いましたので。


目の前の山は、名前が分かりませんけれど396mのピーク。
その右向こうには、鯨岩でも見えていた猪子島と阿多田島。

 

海上の真ん中から少し左手前、▲に黒く尖って見えるのは小黒神島。
その右奥には大黒神島。

小黒神島の左、松の枝から覗いて見えるのは能美島の入鹿鼻かと思われます。

 

 

 


ほぼ南中した太陽に照らされて、空は青く、雲は白く、海も輝いています。

 

この風景を前にして、かつて人々は荒魂としての「さんきさん」を祀り、「どうか、この海が荒れませんように…」と丁重に鎮魂し、祈願して来られたのではないでしょうか。

 

 

 


もう少し高い所から写真を撮ろうと石段を上がりかけたら、Mさんがまたまた仁王立ちです。
今度は「さんきさん」が依り憑いたのかも知れません(笑)

 

 

 

 

そうして海の方をアップで見ました。

 

天使の階段がありますように、太陽光が雲によってまだらに海面へと降り注いでいますから、まるで海がうねっているように見えています。

 

 

古来より、麓の海辺では航海の安全を守る「三女神=和魂」の大慈大悲へと縋り、山頂では海を見晴るかす「三鬼神=荒魂」の神通力によって海を荒らす悪鬼の退治を願う。

 

このような海に生きる人々の切なる思いが凝縮した聖地、それがこの厳島かと思われます。

 

 

 


ようやく風景をいったん撮り終え、さあお参りしようと社殿の方へ振り返ると、サチエがまったりと寛いでいました(笑)

 

右の石碑に「皇太子殿下御奉拝」とあるのは、昭和天皇がまだ皇太子であった大正15年5月に弥山へ登拝されたことを記念したものだそうです。

 

 

 

 

最上段で振り返りました。
目の前の山は、おそらく鯨岩で見た「502mピーク」かと思われます。

 

 

 


Mさんの待っていた瑞垣内へと参入します。


正面の真ん中奥が市杵島姫命、向かって右が田心姫命、向かって左が湍津姫命。

それぞれの社殿には、軒下の正面に「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」の神紋があります。


そして、これから参拝を始めるのですが、ここの社殿にはお賽銭箱がありませんので、頂上で昼食にするため持って来ていたサチエの握ったおにぎりを、各社殿にお供えします。

 

また、本来なら三社それぞれへお参りをさせて頂くべきところですが、幸い他に参拝客はおられませんし、これから来られる気配も人出もありませんでしたので、この鳥居を入ってスグのところに3人並び、三社を一括して一度だけ、ゆっくりとお参りさせて頂くことにしました。

 

 

 


お参りが終わってお供え物を引いてから、ちょっと図々しく社殿を撮影させて頂きます。
真ん中奥の市杵島姫命社。

 

 

 

 

失礼ながらさらにググッと近づいて、青い空をバックに。

 

 

 

 

その横からも。
ありがとうございました〜。

 

 

 


参道を戻って、御山神社を後にします。

 

 

 


巨岩。
Mさんは感じ入ってドスコイしています。

 

 

 

 

同じ巨岩。
さらにMさんは、ドスコイを続けています(苦笑)

 

 

 

 

水掛地蔵堂。

水かけ地蔵
弥山本堂庫裏の下手に小さな朱色のお堂があり、三界萬霊水掛地蔵尊が祀られています。すぐ傍の湧水池から水を汲み、お地蔵さんに水をかけながら祈願すれば、子供についての一切の願望が叶えられるといわれています。

 宮島観光公式サイト/弥山頂上付近めぐり/水かけ地蔵

 

こちらへは3人それぞれでお参りをさせて頂きましたけれど、Mさんが謎の微笑みを浮かべています。
サチエは何やら熱心に、お地蔵さまへ話し掛けているようでした。

 

 

 

 

この左手にあった石段を上がり、山頂部を時計回りに巡ります。
ここから右手に降りて行くと、
弥山本堂へと至ります。

 


そしてここで、先に立ち話しをさせて頂いた修験道の方ご一行と、バッタリお会いしました。

 

弥山本堂の方から来られるのが遠目からもそれと分かりましたので、「お疲れさま〜」とご挨拶をさせて頂いたところ、会釈のご挨拶をお返し頂いた時、その両手で何かを大事に抱えておられるのが見えます。

 

近づいて来られると、何やら四角い透明の箱のようで、中には小さな灯が点っているようです。

 

あれ?と思い、私が無遠慮にすり寄ってその手許を覗き込んで見ましたら、火の付いたアルコールランプのようなものが透明な箱の中にありました。

 

「これって、もしかして消えずの火ですか!?」

少し驚いて、私がお聞きすると、
「そうです、そうです」と嬉しそうに微笑んで、お応えを頂きました。

 

私たちがノロノロウロウロしている間に、山頂での参拝を済まされて、霊火堂の消えずの火を頂戴されていたようです。

 

私が「うへ〜、それって貰えんねや〜〜」などと感心している間に、修験道の方はそのままゆっくりと、もと来た登拝道の方へお連れの方と共に歩いて行かれました。

 

そうやって頂けるものなら、自分も次には欲しいなぁ、などと思わざるを得ませんでしたが、誰もが消えずの火を頂ける、という訳にはいかないと思います。

 

そもそも火気厳禁の山中を、そのように火を持ったまま歩いてイイわけないと思いますし、ロープウエーでも火が付いたままの危険物を持って乗せてくれるとは思えません。

 

余程のお立場と理由がなければ、そう簡単に許可を頂けるとは思われませんので、中々に奥深い、弥山での出来事でした。

 


なお、ここの石段上には大日堂が建ちますが、お参りもしたのですけれど、写真を撮り忘れていましたので、こちら↓をご参照ください。

 


 

大日堂
金剛界・胎蔵界の大日如来を祀っています。1376年に建立された弥山御堂神護寺で、嚴島神社の神護寺。明治以前は正月の七日間全島の僧が登山し、修正会を勤修し国家の隆昌を祈願した道場です。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/山頂付近

 

 

またこの先、有名なものも含め見事な巨岩が続きますけれど、どれがどれだか分かってないまま進んでしまいましたので、写真のないものについては、幾つか引用させて頂きます。

 

 

 

 

疥癬(かいせん)
大日堂のすぐ上にある大きな岩。不心得な人がこの岩のそばを通ると皮膚病の疥癬になり、疥癬に悩む信心深い人がこの岩に触ると、病が岩に移り治ると伝えられています。

 宮島ロープウエー/奇跡の自然/奇岩

 

 

 


名もなき巨岩。
次にご紹介する舟岩の、石段を挟んだ向かいにあります。

 

 

 

 

舟岩
七不思議の一つの干満岩のすぐ下にあり、舟の形をしたところから「舟岩」と呼ばれています。岩の真下には石造りのお地蔵様が置かれています。

 宮島ロープウエー/奇跡の自然/奇岩

 

 

 


船岩を過ぎてから振り返ると、後から来ていたサチエが、巨岩とお話ししていました(笑)

 

 

 


そして、緑のトンネルを進みます。

 

 

 


進みます。

 

 


GoogleMap/弥山

 

案内板。

干満岩(かんまんいわ)

岩穴の水は、満潮の時には溢れ、干潮の時には乾く不思議な穴で、水は塩分を含んでいる(弥山七不思議の一つ)

 

 

 

 

さらに進んで、巨岩に次ぐ巨岩。
そうして遂に、山頂へと辿り着きます。

 

 


(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

斎島の神髄に満ちた山頂を巡る・弥山〜初冬厳島行(13)

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三神の御山神社から巨岩を辿る・弥山〜初冬厳島行(12)←(承前)

 

 

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

さて、連載中の初冬厳島行ですが、ようやく弥山の頂上へと到着しました。
ともあれ、展望休憩所へ入ってひと休みします。

 


弥山展望休憩所
2013年12月にリニューアルされました。1階はトイレ(10:00~16:00)があり、2階は広島県産材のヒノキを使った、360度の眺望を座って楽しむことができます。屋上は立って展望できるスペースになっています。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/山頂付近

 


そして先ずは屋上の展望台から、太陽の方を臨みました。


時刻は12:30ごろ。

大聖院コースに入る鳥居をくぐったのが09:30ごろでしたから、ここまででちょうど丸3時間かかったことになります。

 

 

 

 

空と海、そして巨岩。
もう言葉を失って、ただ圧倒されるのみです。

 

 

 


とはいえ折角ですし、少しだけ御託を並べてみますと(苦笑)、

それは、空と海なら、やはり空海、ということになりますでしょうか…

 

 

弘法大師空海は、室戸岬の御厨人窟(みくろど)で虚空蔵求聞持法を修した折り、空に輝く明星(虚空蔵菩薩の化身)が口へと飛び込み、その瞬間に悟りを開いたとされています。

 

その際、洞窟の奥から見えていたのは空と海だけであったため、以来、自らを空海と名乗ったということです。

 

この逸話は、空海が若き頃から山林修行を重ねたという由来によって、悟り=宇宙の真理とは、まさに大自然によって拓かれる、という認識を示しているのではないかと思えます。
もしそうだとすれば、空海は自らその大自然のようにあらんと誓うため、己の名を空海としたのではないでしょうか。

 

この風景は、そのような空海のイメージに満ちあふれているように思われます。

 

弘法大師坐像(萬日大師)

 サントリー美術館/高野山開創1200年記念 高野山の名宝

 

 

けれど、大聖院の伝承で空海は大同元年(806年)、この厳島弥山で修行して大聖院を開基したとされているそうですが、それは史実として確認できていないとのことです。
Wikipedia/大聖院_(宮島)/歴史

 

ですからおそらく、空海がこの厳島で修行したというのは、架空の伝説ではないかと思えます。

 

特に大同元年(806年)とは、その10月に空海が留学先の唐から博多へと帰着して、同月22日に朝廷へ『請来目録』を提出し大宰府で滞在することとなりますから、それから僅か2ヶ月ほどの間に厳島までわざわざ出向き、少なくとも50日は要する虚空蔵求聞持法を修行する余裕があったとは到底思えません。

 

しかし、もしかしたら、そこは超人空海のことですから、たった5日くらいで完璧に修めちゃったのかも知れませんけれど(苦笑)

 

ともあれ後世、この厳島が、まさに空海が開基したに相応しいと誰もが思わざるを得ない聖地であったことは間違いありません。
伝説とは多くの人々にとって、さもありなん、と合点される必然によって醸成されて行くものでしょうし…

 

 


あと、大きく話しが変わりますけれど、上の写真にある巨岩の大きさは、比較する物が写っていないため、現地でご覧になったことのない方々にはよく分からないかと思われます。


そこで、下に↓人の写った写真を引用させて頂きますので、ご参照くださいませ(笑)

 

 気ままな山登り/宮島の紅葉

 

 

 

 

取りあえず休憩所を出て、またお目汚しながら記念撮影。

 

この後、陽当たりが良く風当たりのマシな岩陰を広場の隅に見つけ、御山神社へお供えしたお下がりのおにぎりで、昼食休憩を取りました。

 

 

 

 

休憩を取った30分ほどの間で真っ青となった空の下に、石仏。
どのような仏さまなのでしょう?

 

 

 


アップしてみました。

 

頭には鬘(かずら)があるようで、手も六本、それぞれに得物を持っていますから、お地蔵さまではありません。
弁天さまでしょうか?

 

 

 

 

山頂となる巨岩の前に立つ石仏。

 

こちらはこれ以上アップしても表面が荒れていてよく分かりません。
合掌して手がたくさん出ているようにも見えますから、千手観音さま、かな?

 

場所は、ここ↓です。

 

GoogleMap/弥山

 

 

 

 

この岩の天辺が、弥山の山頂。


下からは見えませんけれど、三角点もそこにあるとのことです。

本記事で冒頭の風景写真2点に写っている、一番大きな巨岩となります。

 

 

ここから弥山本堂へと向けて下って行きますが、有名なくぐり岩↓の写真を撮っていませんでした(泣)

 

くぐり岩
山頂へもう少しのところに、巨大な岩のトンネルで『くぐり岩』と呼ばれている奇石のトンネルがあります。山頂にはこうした自然に折り重なった巨岩がたくさんあり、神秘的な景観を描き出しています。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/山頂付近

 

 

 


これは不動岩。

サチエは、この天井岩を支えているポーズとのこと(笑)


その向かって左後ろに、お不動さまが見えています。

 

 

 

 

厄除不動尊と、手前の蝋燭台の向こうに毘沙門天さま。

 

かつて毘沙門天堂がこの岩の横に建てられていたそうですが、台風によって倒壊し、毘沙門天像がこちらへと遷されたそうです。

 

 

 


朽ち果てた案内看板。
錆び過ぎてて、ほとんど読めません(苦笑)

 

 

 

 

陽光を浴びながら、緑の中を下って行きます。

 

 

 


どこもが巨岩だらけ。

 

 

 


眺望が開けました。
これは多分、厳島の東南方面かと思われます。

 

おそらく、左の枯れ木向こうに見えているのが、大奈佐美島。
右の手前が小黒神島、その向こうが能美島、かと思われます。

 

間違っていたら、ゴメンナサイ。

 

 

 

 

下り道の途中、大きな岩を回り込むと文殊堂です。

 

 

 


その文殊堂の向かって左に並ぶ観音堂の屋根が見えています。

観音堂・文殊堂
文殊堂は学業の仏様で、智恵を授ける文殊菩薩を祀っています。『合格祈願』の杓子の絵馬が多く張り付けてあります。となりの観音堂には家内円満・安産の仏様、観音菩薩が安置されています。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/山頂付近

 

 

 

 

これも朽ち果てた案内看板。
読めません…

 

 

 

 

そして、観音堂。

 

これら2つのお堂は、一見ほとんど同じようですが、向こうの文殊堂は三角形の屋根を4枚寄せた方形造、こちらの観音堂は切妻屋根の入母屋造となっており、この写真でその屋根を見比べて頂くと違いがよく分かります。

 

 

 

 

手前に立っている石標は丁石です。
その奥、平たい巨岩の上にも、お地蔵さんらしき石仏が見えています。

 

 

 

 

丁石をアップ。
刻まれている仏さまは合掌されているようですが、頭が丸いので、やはりお地蔵さまのようですが、空海さんかも知れません。

 

 

 

 

さらに巨岩と緑を縫って石段を降りて行くと、三鬼堂の前へと辿り着きます。

 

 

 

 

三鬼堂
日本で唯一鬼の神を祀ります。魔羅(まら)・追帳(ついちょう)・時眉(じび)の三鬼神は福徳、智恵、降伏の徳を備えた弥山の守護神。家内安全・商売繁盛にご利益があります。

 宮島観光公式サイト/弥山散策/山頂付近

 

 

 

 

このお堂では、中に入ってお参りをさせて頂けます。

 

 

 


もちろん遠慮なく、ズイズイと参入して畳に正座し、勤行させて頂きました。

 

そこで、このようなことを言っては何ですけれど、山に入って、あちこちお参りをさせて頂くことは、実のところ結構イイ感じで心身ともの休憩になっていると思います。

 

意外に疲れないで山歩き出来てるな〜と思うのは、大概それまでに参拝しながら進んでいる時のような気がしますから。

 

まあ、もちろん神さま仏さまのご加護はあるんでしょうけれど、単に登山としてガンガン登っている時とは違いますから、参拝とは色々な意味で有り難いことかと思えます。

 

おそらく、正座とか蹲踞とかの屈伸が良い按配で足腰に効くことと、読経や祝詞奏上が息と心を整えてくれるのではないでしょうか。

 

 

 


ゆっくりと休憩、ではなく、参拝をさせて頂きましたので、三鬼堂を後にします。

 

 

 


消えずの火を守り続ける霊火堂。

霊火堂は2005年に火災で焼失し、翌年再建されたとのこと。

 

霊火堂
弥山本堂の目前にあり、806年に弘法大師が修法を行った際の霊火が、1200年以上たった今も「消えずの火」として燃え続けています。この火にかけられている大茶釜で沸かした霊水を飲むと、「万病に効果がある」「幸いが約束される」と云われ、ご利益を求めて弥山に登る人が後をたちません。

 宮島ロープウエー/奇跡の験 弥山の古刹


 

その向かって左に建つのは御守札授与所で、ここで帰り際、虚空蔵菩薩の御朱印を頂きました。

 


ただその時は無人で、どうしたものかと思っていたら、サチエがすでに書かれたものの束が三宝の上に置かれているのを見つけましたので、料金箱にお金を入れて頂戴できました。

 

 

 


霊火堂へと参入します。


奥の祭壇には不動明王像がお祀りされて、その前の囲炉裏に、大茶釜がぶら下がっています。

ここでは、その囲炉裏が護摩壇代わり、ということかと思われます。

 

先ずはお不動さんへご真言をお唱えました。

 

 

 


そして相変わらずに遠慮なく、囲炉裏の周りに据えられた長椅子に腰掛けて、用意されている湯飲み茶碗で温かい霊水を頂きます。

 

すると、ここの堂守をされているお坊さんかと思われましたが、作務衣を着ておられる坊主頭の男性が、チロチロと赤い火の付いた薪のお世話を始められました。

 

「この火のお世話をさせて頂けることは、本当に有り難いことです」
とお話しをされて、他の参拝客にも霊水を進めておられました。

 

 

 


そこでホッコリとした私が、またまた図々しく、質問をしてしまいます。
「あの〜、ちなみに、この火のバックアップって、どっかにあるんですよね〜?」

 

写真には写っていませんが、他の参拝客もこの質問には笑ってしまったようで、お坊さんも思わず失笑しながらお応えくださいました。
「あ〜、ありますよ〜。バックアップ(苦笑)」

 

そこでさらに調子に乗って、
「それって、やっぱどこにあるか、内緒ですか〜?」と続けて質問すると、
「そうですね〜、秘密ですよ〜、言えませ〜〜ん(苦々笑)」

 

こんな感じで、のどかな一時を過ごさせて頂きました。

 

お不動さん、お坊さん、失礼いたしました。
誠に毎度、ありがとうございます〜

 

 

 


そうして、山頂参拝の〆は弥山本堂。
こちらでも靴を脱いで中へと上がり、ゆっくりとお参りをさせて頂けました。

 

 

弥山本堂

唐から帰国した弘法大師が霊地を探し求めて宮島に立ち寄った際、山の姿が須弥山に似ているところから弥山と名づけ、御堂を建て100日間の求聞持の修法を行ったところ。本尊は虚空蔵菩薩で、脇に不動明王と毘沙門天を祀ります。平清盛、足利義尚、福島正則などの雄将の信仰が厚かったと云われています。

 宮島ロープウエー/奇跡の験 弥山の古刹

 

虚空蔵菩薩

弥山本堂の御本尊である虚空蔵菩薩は、智恵と福徳を司る仏さんでその昔、戦国武将に信仰されていた。

 宮島弥山 大本山 大聖院ホームページ/仏像

 

 


あと、弥山本堂の裏手に求聞持堂(ぐもんじどう)、少し下がったところに閼伽井堂(あかいどう)があるとのことですが、私は予習が足らずに知らなかったため、こちら↓をご参照ください。

 

求聞持堂
弥山本堂の裏手にあり、大同元年(806)弘法大師が百日間の求聞持の修法を行ったところで、阿波の大龍嶽・土佐の室戸岬とともに、真言密教の日本三大道場となっています。

 宮島観光協会/弥山

 


閼伽井堂
弘法大師が、初めて求聞持法の修行に用いられた清浄水(閼伽水)の湧く井戸がある。
弘法大師が初めて、求聞持法の修行に用いられた清浄水です。
本尊は不動明王を祀られています。

 ねぇ~宮島に行こうよ/宮島 弥山 閼伽井堂の霊水

 


そうして、宮島ロープウエーの獅子岩駅へと向け、歩を進めました。

 


ということで、スミマセン。

下りは時間の都合ということで、登山ルートを歩いて降りるのを諦めました(苦笑)

 

 


(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

下りは獅子岩から紅葉谷公園へ・弥山〜初冬厳島行(14)

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斎島の神髄に満ちた山頂を巡る・弥山〜初冬厳島行(13)←(承前)

 

 

 


ところどころに、見事な紅葉が残っていました。

 

 

 

 

ほぼ東方向の眺望が開けます。

 

左の手前から、大奈佐美島、その向こうが江田島、さらにその向こうが本州の山波。
写真の中央が能美島で、その手前の先端が豪頭鼻、左にちょっと伸びた小島のように見えるのが岸根鼻。

 

なお、江田島と能美島は名前の違う島ですが、地図で見ると実のところ地続きになったひとつの島です。
その接合部分は南北へ抜けた細長い平地なので、もしかしたら大昔は海で隔てられていたのかも知れません。

 

そして右手前が小黒神島、その右向こうが大黒神島、さらに向こうが能美島の南部と、倉橋島の西南部かと思われます。

 

GoogleMap

 

 

 

 

名もなき巨岩。

 

 

 


サチエがじっと見つめています。

 

 

 


登山ルートのひとつ、紅葉谷コースへの分岐点に立つ宮島自然散策案内図。
ここが弥山本堂と獅子岩駅との、ほぼ中央地点になります。

 

 

 

 

それからようやく獅子岩駅へと到着し、降りて来た弥山を仰ぎ見ます。

 

 

 


上の写真をアップ。

 

山腹の露出した巨岩を見ると、弥山全体がひとつの超巨大な岩塊であることがよく分かります。
その頂上に建つのは、展望休憩所。

 

 

 


宮島・弥山案内図。

 

ここに庫裡とありますが、通らなかった道なので見ていませんから、どのような建物か分かりません
そこでググってみましたけれど、詳細は不明のままです。

 

ただ、宮島弥山倶楽部がそこで合宿されたという記事がありましたので、よく知る方々には利用されているようです。

夕焼けと星空そして日の出を山頂から見る。

  弥山 宮島弥山倶楽部合宿

 

とのことで、何とも羨ましい限りですね〜。

 

 

 

 

獅子岩展望台からの眺望。
こちらからも、素晴らしい風景です。

 

厳島に並ぶ山々の稜線とほぼ同じ南西の方向。
時刻は14:30ごろとなりました。

 

 

 

 

これは、ほぼ真南の方向。
真ん中に見える阿多田島と猪子島の上空を雲が覆っています。

 

 

 

 

先ほど山中で見た眺望とほぼ同じですが、それより少し南寄り。
幾らか近づいたからなのか、雲の加減で太陽光が明るくなったのか、風景がよりクリアーな印象です。

 

 

 

 

北東の方向。
最も向こうに見えている山波が本州で、広島市や呉市方面となります。

 

 

 

 

そうしてついに、ロープウエーに乗って下山します。

 

これはすでに、獅子岩駅から乗った交走式ロープウエーを、榧谷(かやたに)駅で循環式ロープウエーに乗り換えています。

 

宮島ロープウエーでは、交走式と循環式という2種類の方式でロープウエーを連絡し運行しています。

 

 

 

 宮島ロープウエー/設備のご紹介

 

 

 

 

眼下には、まばらに紅葉の残る弥山原始林です。

 

そこで、今さらながらのご紹介ですが、1996年12月、厳島神社はユネスコ世界文化遺産に登録されましたけれど、それは大鳥居までの海および背後の弥山原始林(天然記念物)をはじめとする森林区域431.2ヘクタールをも含みます。

宮島観光協会/ピックアップ情報/世界文化遺産登録

 

その詳細な区域は、この↓の通り。

 

林野庁/世界文化遺産の森林景観の回復「森林景観の保全指針」作成のための調査報告書(宮島国有林)平成15年3月近畿中国森林管理局_part2


つまり、最初に参拝した厳島神社はもちろん、登って来た大聖院コースと、他の紅葉谷コースや大元コースなどの登山ルートから山頂、このロープウエーの榧谷駅と紅葉谷駅を結ぶまでの森林一帯が、すべて世界遺産だということですから、何とも驚くほどに贅沢なことでした。

 

 

 


次第に高度を下げながら、もう暫くしたら紅葉谷駅に到着します。

 

 

 


駅から出ると、紅葉谷公園の中を下って行きます。

 

けれど、鮮やかに残った紅葉へは目もくれず、Mさんは駅で貰った地図を見ながら、難しい顔で何ごとかを思案しています。


実はこれ、お土産を何にしてどこで買うかを考えている所なんですが…(笑)

 

 

 

 

紅葉谷公園(もみじだにこうえん)
弥山麓の谷あい、紅葉谷川に沿って広がる公園。江戸時代に開拓されモミジの苗木が植えられたのが始まりといわれ、この時代の文献には「清き流れあり、樹木蒼古にて一区の幽境なり、楓樹多きを以って名とす」と紹介されています。
(中略)
春は桜、夏は新緑、秋は紅葉と季節ごとに変わりゆく自然を満喫できるのが魅力。とりわけ約200本のモミジが一斉に色づく秋の彩りは圧巻です。

 宮島観光公式サイト/紅葉谷公園

 

 

 

 

紅葉谷川の優雅な流れ。

 

けれど、こちらも白糸川と同様に、かつて土石流による甚大な被害を流域沿岸に与えたため、庭園砂防という新しい工法によって「特別名勝厳島災害復旧工事」が行われました。

 

紅葉谷川庭園砂防

昭和20年(1945)9月17日に宮島を枕崎台風が直撃しました。
紅葉谷川の上流で発生した山崩れは、土石流となって紅葉橋、旅館、嚴島神社を次々と埋没していきました。
昭和23年「特別名勝厳島災害復旧工事」が砂防事業としてスタ-トし、史跡名勝地としてふさわしい工事を行うため、次のような「岩石公園築造趣意書」が作成されました。

  1. 巨石、大小の石材は絶対に傷つけず、また割らない。野面のまま使用する。
  2. 樹木は切らない。
  3. コンクリ-トの面は眼にふれないよう野面石で包む。
  4. 石材は他地方より運び入れない。現地にあるものを使用する。
  5. 庭園師に仕事をしてもらう。石屋さんもノミと玄翁は使わない。

庭園砂防は、安全性の高さはもちろん自然に溶け込んだ美しい庭園を形造っています。

戦後間もない、物資の不足している時代に行われたもので、工事に携わった人々の情熱を感じます。

 宮島観光協会/ピックアップ情報/白糸川と紅葉谷川の砂防事業

 

広島県砂防課/歴史的砂防施設の紹介/紅葉谷川庭園砂防

国土交通省/手づくり郷土(ふるさと)賞/S62(H17大賞)

Wkipedia/紅葉谷川庭園砂防

 

 

 


緑豊かによく整備された公園を、紅葉谷川に沿って海の方へと進みます。

 

 

 

 

四宮神社の前に出ました。

 

四宮神社
外:末
御祭神:祭神未詳迦具土神
緒:鎮座年月不詳。

大正4年南町の境外末社秋葉神社を合祀したので迦具土神一座を加える。
「たのもさん」という、民間の習俗が夜行われる。

御社殿:一間社流造 檜皮葺で本殿前に石造の四脚鳥居がある。
例祭日:旧暦8月1日

 

 嚴島神社ホームページ/境外摂末社/四宮神社

 

 

たのもさん

厳島神社の末社の一つ四宮神社の大祭(大黒天)が旧暦8月1日に南町の氏子の人達によって行われます。 「タノモサン」はこの時の八朔(はっさく)行事です。宮島は信仰の島なので明治初期まで耕作は禁じられていました。 島民は島外に頼った農作物への感謝を込めて、手製の「たのも船」を流します。

 メナモミ ネット/安芸の宮島/イベント/四宮神社祭「たのもさん」宮島

 

 

 


実のところ予習が足らず、四宮神社のことは何も知らないままでした。

 

そしてここには案内板もありませんでしたから、ご祭神も分からず厳島神社の境外社なのかどうかさえ不明のまま、紅葉谷の神さまということで、お参りをさせて頂きました(泣)

 

ゴメンナサイ…

 

 

 

 

けれども、何かしら印象に残る、この奥深い佇まいに感銘しました。
氏子の方々から、とても大事にされていることがよく伝わります。

 

この時、まったく気付かなかったのですが、後で↓知ったことがあります。

 

 

 

上の写真をアップ。


鳥居の扁額には、四之宮神社の横に、大國神社の名前が並んでいました。

一つ目の鳥居には大國神社と書いてある。これは昔、大国谷にあった大國神社と合祀したため。

  宮島観光旅行まとめブログ/四宮神社

 

 

 

 

去りがたく、振り返りながら撮っています。

 

 

 

 

まだ撮っています。

 

 

 

 

ちょっとした広場に出ました。
紅葉が、まだまだ美しく燃えています。

 

 

 

 

弥山から平地へと戻り、主だった参拝も完了していますので、何だかホッとして、この紅葉谷公園からようやく少しずつ観光気分となりました(笑)

 

紅葉の下で、どうしたことか、二人してリズムを合わせているようですが…

 

 

 


踊ってる?

 

この写真を見せ、何してたの? とサチエに聞きましたけれど、残念ながらまったく思い出さないようでした(苦笑)

 

 

 


四宮神社さんに、さよならのご挨拶。

 

 

 

 

こうして紅葉谷公園を進み、千畳閣と五重塔が建つ塔の岡を目指します。

 

 


(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

五重塔と千畳閣で歴史に触れる・塔の岡〜初冬厳島行(15)

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下りは獅子岩から紅葉谷公園へ・弥山〜初冬厳島行(14)←(承前)

 


塔の岡に到着しました。

 

ここには、塔之岡茶屋とか龍髯(りゅうぜん)の松など、観光的なグルメや見所があるのですけれど、そちらの方へ関心を振り向ける余裕のないまま、写真を撮っていません(泣)

 

 

 

 食べタインジャー/太閣力餅は宮島グルメ、五重塔下で歴史に想いを馳せる甘味処

 

 

 

 

(とう)の岡(おか)

五重の塔があるのでこの丘を塔の岡という。毛利元就(もうりもとなり)が陶晴賢(すえはるかた)を襲撃した厳島合戦の古戦場である。弘治元年(1555)9月21日晴賢は大軍を率いて上陸し、ここに本陣を構え、毛利方の宮尾城(みやおじょう)を攻撃した。元就は主力をもって、同30日夜暴風雨をついて包ヶ浦に上陸し、翌朝未明博奕尾(ばくちお)を越えて襲い掛かり陶軍は不意をつかれて大敗した。この合戦で内海地域の制海権は毛利の手に移った。

 

そもそも、神の島で合戦って、どうなんでしょうか?
何とも罰当たりなと思わざるを得ませんけれど、元就もそのことは重々承知の上だったようです。

 

毛利元就の厳島合戦

(前略)元就はこの戦いで神域を汚したことは厳島神社に対し、まことにおそれ多いと考え、両軍の戦死者、負傷者をいち早く対岸へ移し、流血で汚れた土砂はすべて削り取って海中に投じ、血で汚れた回廊の一部は板をあたらしく取りかえました。其の他は海水で洗って清め、戦前の姿にもどしました。

 みやじまの宿 岩惣/毛利元就の厳島合戦

 

 

けれど、キレイにして元に戻したとはいえ、決してあってはならないことですね。

 

しかしまた、神の島を守るべき側の神社仏閣や私たち崇敬者も、そのような権勢へとおもねることが今へ至るまで常にあることは想像に難くありませんから、何とも悲しく哀れな人間の性(さが)、としか言いようがありません…

 

 

そして塔の岡は、大願寺〜初冬厳島行(5)でご紹介したように、空から観ると亀の姿に似ているため大願寺の山号である亀居山の由緒となった、ということですけれど、実際どうなのかと思い↓見てみました。

GoogleMap


 


千畳閣を取り巻く緑の丸い感じが、亀のようであると言われれば、そうかなあとも思えますが(苦笑)

 

 

 

 

塔の岡案内看板の横に立つ屋根の付いた大きな杓子(しゃもじ)。

宮島杓子之開祖
誓真大徳記念碑道
光明院前

 

宮島杓子の開祖である誓真さんの大きな徳を記念した​碑への道を案内する看板、ということのようです。

 

誓真(セイシン)とは?

●宮島杓子(しゃもじ)や木工製品をお土産として定着させた僧侶。 
●石畳・石段・誓真釣井(=井戸)を整備した僧侶。 
●寺や仏塔といった仏教施設を作らず、普通の人のための活動に勤しんだことから、宮島島民の強い信頼と尊敬を得た。 
●死後、100年経って「誓真大徳頌徳碑」が計画され、計画から40年近く経って、建立された。それだけ尊敬された人物。

 宮島観光旅行まとめブログ/誓真大徳頌徳碑
 

 

 


そして、五重塔。

 

五重塔(ごじゅうのとう)《重要文化財》

千畳閣の隣に建つ五重塔は、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい塔です。高さは27.6m。応永14年(1407年)に建立されたものと伝えられています。内部は完全な唐様で、一般の見学はできませんが、内陣天井に龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、裏には白衣観音像などが極彩色で描かれています。塔内にあった仏像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されました。またこの五重塔が建つ塔の岡は、厳島合戦で陶軍が陣を構えたと伝えられています。

 宮島観光公式サイト/五重塔
 

 

塔というのは本来、仏舎利を安置した仏塔ということで、卒塔婆(そとば)や塔婆(とうば)と同じ意味です。

Wikipedia/仏塔

 

この五重塔は、かつて厳島伽藍と謳われた大願寺の境内地に建つ仏塔のひとつであり、神仏分離令まで本尊として祀られていた釈迦如来像と普賢・文殊両菩薩像は、明治の神仏分離で今の大願寺へと移されました。

それでは今、この五重塔はどこの管轄になっているかといえば、厳島神社に帰属しています。

 

五重塔
指定:国重要文化財
構造:唐様を主として和洋を加えた手法で建てられている。

総髙29メートル余、方4.6メートルの小形のもので、屋根は檜皮葺。

由緒:応永14年(1407)7月の建立。
備考:中には入れません。

 嚴島神社ホームページ/御社殿以外の建造物/五重塔

 


ちなみに、厳島神社の社殿以外の建造物は、神社としてのものが宝蔵と宝物館、仏教のものがこの五重塔と多宝塔および御文庫になります。

 

そして、その多宝塔にも、かつては本尊として薬師如来像が祀られていましたが、五重塔と同じく神仏分離により大願寺へと移されました。

 

つまり、五重塔と多宝塔は本尊を遷されたまま厳島神社の帰属となって、祭神を祀られないまま空っぽの状態ということです。
何だかもったいない、と思ってしまいます。

 

ただ、隣の千畳閣は仏教の大経堂として建設中だったもので、本尊の釈迦羅漢三尊像も神仏分離により同じく大願寺へ移されましたけれど、こちらは豊国神社として再生し活用されていますから、この違いは何によるのでしょう?

 

できればいっそのこと、五重塔と多宝塔は大願寺へと帰属させ、本尊も元に戻して誰もがお参りできるようして頂けたら、何よりその方が良いのになあ、などと思います。


また、今さら神仏分離でもないかと思いますし、可能な限り文化財は本来あったその姿に戻す、という意義もあるかと思いますので。

 

 

 

 

西日に照らされる千畳閣。

 

大きなシュロの木が、長い枝を丸太で支えられ立派です。
葉が元気よく立っていますので、トウジュロという種かと思われます。

 

豊国神社

外:摂社(重要文化財)

御祭神:豊臣秀吉霊神・加藤清正霊神

緒:豊臣秀吉公が、千部経読誦するために天正十五年(1587)に発願し、安国寺恵瓊に命じ建立した本瓦葺き入母屋造りの大経堂。
秀吉公没後は,天井の板張りや建造物の外構など完成を見ないまま現在に至る。
明治5年に秀吉霊神を祀り豊国神社と改称した。経堂は「千畳閣」とも呼ばれている。大正7年宝山神社の祭神加藤清正霊神を合祀する。
御社殿:桃山期の豪壮な建物で、桁行正面十三間、背面十五間、梁間八間、一重、本瓦葺、入母屋造り、楠材二重椽を廻らしてある。

例祭日:9月18日

 嚴島神社ホームページ/境外摂末社/豊国神社

 

 

 


正面の入口。

 

リュックを背負ったサチエが柱に掲げられた案内看板を読んでいますけれど、分かりますでしょうか?
大きな千畳閣の前だと、ことさら小さく見えてしまいます(笑)

 

豊国神社(とよくにじんじゃ)《重要文化財》
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が毎月一度千部経を読誦するため政僧・安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂です。島内では最も大きな建物で、畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれてきました。秀吉の急死によって工事が中止されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままの状態で現在に至っています。江戸時代、既にここは交流の場・納涼の場として人々に親しまれていたようで、大きな柱には当時の歌舞伎役者一行の名や川柳などが記されています。明治の神仏分離令により仏像は大願寺に遷され、秀吉公を祀る豊国神社となりました。

 宮島観光公式サイト/豊国神社

 

 

 

 

千畳閣
此の建物は 天正15年(一,五八七)に豊臣秀吉公が 安国寺恵瓊に命じて建立したもので俗に千畳閣といいます 桃山時代の豪放なもので重要文化財であります 秀吉公の気風をよく現した建物ですが 途中で秀吉公が逝去した為未完成のものです この千畳閣は元来大経堂(読経所)として建てられたもので仏像を安置してありました明治初年 神仏分離の際仏像は大願寺に移し豊臣秀吉公を祀って豊国神社と稱し 毎年九月十八日に例祭がおこなわれます

 

 

 


千畳閣にはほとんど壁がなく、神殿の上以外には天井板もありません。


天井板がないことで、屋根へと届くほど大きな額も長押(なげし)に受けて掲げられ、所狭しと奉納された絵馬が並びます。

これらは皆、かつて厳島神社の本社拝殿や廻廊に飾られていたそうですが、明治中期にこの千畳閣へと移されたそうです。

 

 

 


上の写真をアップ。

加藤清正の虎退治、かと思われます。

 

額の上は、奉献御嶋廻、でしょうか?
右は、明治八歳在、かな?
左は達筆すぎますけど、己亥四月望?

 

 

 

 

左横の額をアップ。

 

慶傳? 慶徳? ちょっと分かりません。
額の上は御嶋廻、右は慶応二年丙、左は寅二月吉日。

 

 

 

 

奥の額もアップ。

 

徳維馨、なんですけれど、ちょっと意味不明です。
維馨尼(いきょうに)という名の尼さんは歴史上おられるようなので、その徳を偲ぶ、っていうことでしょうか?

 

そのさらに向こうは、清浄ですね。

 

 

 

 

先の所から左前へと移動しました。

 

 

 

 

手前の絵をアップ。

 

字が霞んでいてほとんど読めませんけれど、並んだ漢字の真ん中に珠という字があるように思われますので、玉取祭?
もしくは管絃祭の一場面なのか、どうなんでしょう?

 

 

 

 

左上をアップ。
大きな杓子に大鳥居の風景が彫り込まれています。

 

 

 

 

ひとつ奥をアップ。
2つ並んだ横長の額には、桃花祭御神能の演目が書かれています。

 

 

 


桃花祭御神能
厳島の能の起こりは、大内義隆が天文20年(1551)長門の大寧寺に滅び、弘治元年(1555)厳島合戦で陶軍に勝利した毛利元就によって、永禄6年(1563)を始めとして度々奉納されています。
(中略)
明治時代になって祭典が新暦となり、春の大宮祭を「桃花祭」とし、従来の3月15日を1ヶ月遅れの4月15日にして、16日から3日間を桃花祭御神能としました。

 宮島観光協会/行事/桃花祭御神能

 

 

その向こうには、おそらく神さまがお集まりになった神話の一場面のような絵がありますけれど、残念ながらよく分かりません。

 

 

 

 

入口からはいって、一番奥の左側です。

左の長押に掲げられているのは、手前も奥も、桃花祭御神能の演目かと思われます。

 

 

 

 

手前右の絵をアップ。

 

馬に乗って海を駆けている人ですが、浅学ゆえ、どのような故事によるものか分かりません。
もし何かご存知の方がおられましたら、何とぞご教示くださいませ。

 

 

 


千畳閣に入って右手の中ほどに、豊国神社の神殿。
いかにも武将らしい豪気な造りです。

 

ただ、祭神が戦国時代に実在した人物いうことですから、私的には、神さまとして参拝させて頂くに無理がありますので、一礼だけにて失礼させて頂きました(苦笑)

 

 

 

 

右上をアップ。

こちらにも、桃花祭御神能の演目が3日分並んでいます。

 

 

 


神殿の前に立った位置から後ろを振り向きました。

右向こうに見えている緑は、弥山の麓となります。

 

 

 

 

左が神殿、右端が入口。

 

 

 

 

額をアップ。
福海寿山、とあります。

 

寿山福海【じゅさんふくかい】
長寿と多幸を祝福することば。むかし中国にあった長寿の国の伝説による。その国は大海のまん中にあって、そこでは長寿でない者は八百歳まで生き、長生きする人は”天地長久”に生き続けるといわれた。
【出典】日本実業出版社(著:真藤 建志郎)「四字熟語の辞典」

 全辞書検索JLogos/寿山福海

 

 

 


完全に参拝のプレッシャーから解放されて、ようやく心底からホッとした様子。
ただ、その緩みとともに疲れも少しずつ目に見えて来ました。

 

 

 


真正面が入口となる方向です。

 

 

 

 

正面の絵をアップ。

上に奉献、右に御島巡、左に明治卄二年九月。

 

こちらは馬から降りて、鎧を着たまま泳いでいるような?
源義経の弓流しのようですが、どうなんでしょう?

 

 

 


手前の上をアップ。

 

右から。

嚴嶋神社桃花祭御神事能組、初日。

 

 

 


二日目。

 

 

 

 

三日目。

 

 

 


縁側に出て、厳島神社と弥山、駒ヶ林を望みます。

ここから見ても、お釈迦さま、あるいは寝観音さまのお顔がそれとなく分かります。

 

そして、手前の社殿が客神社の本殿、その左向こうが朝座屋。
朝座屋の右奥、木々のすき間にチラッと見えている朱色は、おそらく不明門かと思われます。

 

 

 

 

撮影する私の影の後ろから、もうそろそろ帰りなさい、と導くような夕陽。
けれど時刻は、まだ15:30ごろ。

 

しかし、夕暮れは釣瓶落としでやって来ます。

 

 

 


いつしか他の参拝客もいなくなりました。

心なしか、サチエの足取りもお帰りモードです。

 

 

 

 

左上の暗がりに架かった絵馬を、最後にアップ。
狂言の様子でしょうか?

 

 

 


厳島への再訪を期して、五重塔へも別れを告げます。
夕陽を受け、朱色が一層鮮やかに映えていました。

 

 

 

(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

神の島に陽はまた昇る〜初冬厳島行(16・最終回)

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五重塔と千畳閣で歴史に触れる・塔の岡〜初冬厳島行(15)←(承前)

 

 

 

 

塔の岡から御笠浜へと降りて、太陽の沈む方向を望みました。
遠くに見えるピークの左が駒ヶ林、だと思います。

 

大鳥居はこの右側にありますが、朝に干潮だった海はすでに満潮となっていました。

 

 

 


厳島神社を振り返ります。
朝には干潟が広がっていましたけれど、今は海水に満たされて、また別の姿となっています。

 

よく見ると、わずかに残された砂浜に何かいるようですが…

 

 

 

 

アップ。

 

やはり、鹿でした〜(笑)
何だか一頭だけで、黄昏れているようです。

 

 

 

 

厳島神社の由緒書き。
暗い中に到着して急いでいましたから、この時に初めて気付きました。

 

 

嚴嶋神社御由緒

 


一、御祭神

 

御本社市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・・・・田心姫命(たごりひめのみこと)
・・・・湍津姫命(たぎつひめのみこと)

 

客社天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
・・・・天穂日命(あめのほひのみこと)
・・・・天津彦根命(あまつひこねのみこと)
・・・・活津彦根命(いくつひこねのみこと)
・・・・熊野櫲樟日命(くまのくすびのみこと)


 

一、沿革

 

嚴島は太古よりその山容に霊気を感じ、島全体が神として信仰されてきた。
社伝によると、嚴島神社は推古天皇元年(五九三)に、この地域の有力者であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)によって創建されたのが始まりとされる。
仁安三年(一一六八)当時の太政大臣 平清盛公によって寝殿造りの様式を取り入れ造営されたものが現在の社殿の礎となっていると伝わる。
鎌倉時代の二度の火災を始め、台風等に幾度となく被災するも、その時代の人達の尽力によって修復されてきた。
社殿群は国宝及び重要文化財に指定されており、平成八年(一九九六)に、世界文化遺産に登録され現在に至っている。

 

 

一、主な神事

 

御神衣献上式・・・一月・・・一日
歳旦式・・・・・・一月・・・一日
地久祭・・・・・・一月・・・五日祭典後舞楽奉奏
桃花祭神・・・・・四月・・十五日祭典後舞楽奉奏
桃花祭神能・・・・四月・・十六日より三日間
講社大祭・・・・・五月・・十四日
講社御島巡式・・・五月・・十五日
推古天皇祭遥拝式五月・・十八日祭典後舞楽奉奏
例祭・・・・・・・六月・・十七日
市立祭・・・旧暦六月・・・五日祭典後舞楽奉奏
管絃祭・・・旧暦六月・・十七日海上渡御
菊花祭・・・・・・十月・・十五日祭典後舞楽奉奏
御鎮座祭・・・・・十二月初申日
鎮火祭・・・・・・十二月三十一日
月旦祭・・・・・・毎月・・・一日(一月を除く)
月次祭・・・・・・毎月・・十七日
(三月六月十月を除く)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上

 

 

 

 

御笠浜で大鳥居をバックに記念撮影。

やはり、このアングルは是非モノですから(苦笑)

 

 

 

 

同じく(笑々)

 

 

 


こちらも定番のアングル。
もう太陽が、山の端に掛かっています。

 


ここからあと少しで夕暮れとなりますので、急ぎお土産を買い求めるため、表参道商店街へと歩を進めました。

 

そのため、往路で撮っていなかった石鳥居を、復路でも撮り忘れてしまったため、こちら↓にてご参照ください(泣)

 

 

GoogleMap

 

 

Mさんは、とにかくコレ!という「もみじ饅頭」を求めて、何店か覗きながら慎重に品定めを始めます。

 

私たちは、ともあれ今夜、帰ってからの夕食というか直会用に、持ち帰り可能な酒の肴系を探しますが、特に思うものが商店街にはありません。

 

そこで思い切って、商店街の山寄りに平行している町屋通りへと行ってみます。
何か、地元の方々向け商店などあるのではと期待しつつ…

 

 

 


すると、ありました〜〜!「中村鮮魚店」!!
これぞまさに、求めていた佇まいです〜\(^O^)/

 

 

 

 

お誂え向きに夕餉へ向けて、様々なお刺身など鮮魚がどっさりと並んでいました。
感謝です。

この写真で陳列に空いているスキ間が、私たちの頂いたもののあった所(笑)

 

 

 


ひととおり買い終わったと思ったら、サチエが店内で練り物なども見つけてしまい、さらに買い足しています。

ここの女将さんは山登りがご趣味とのことで、私たちの格好を見て「弥山登って来たの〜?」と気さくに話し掛けてくださいました。

 

そこへMさんから、お土産購入が完了したと電話が入りましたので、タイミング良く合流して、港へと向かいます。

 

 

 

 

JR西日本宮島フェリーの「みやじま丸」。
出港は16:40。

 

往路は「ななうら丸」でした。

 

 

 

 

千畳閣を出てからまだ1時間ほどしか経っていませんけれど、もうこれほどの夕暮れになってしまいました。

 

この日の日没は17:01なので、それまであと20分ほど。

 

 

 


出港しました。
ちょうど大野瀬戸の向こうへと、太陽が沈んでいきます。

 

 

 


乗船中、ひたすら太陽を追っていましたが、雲の下から、この日最後の姿を見せてくれました。

 

 

 


これぞ、夕陽。
海上には、より強く光の道が繋がります。

 

 

 


あと僅か。
精一杯に今日最後の光を放ちます。

 

 

 

 

また、おいで。
そう言って頂いているような眩しさでした。

 

 

 

 

そして残照…

 

神の島へは、また陽が昇ります。

 

 


ありがとうございました。

 

 

 

(おわり)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

二見から始め外宮を参拝し宇治橋前へ〜2016冬至伊勢行(1)

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いきなりではございますが、これは真っ暗な中で撮った夫婦岩です(笑)

私は暗すぎるため写真を撮ることをハナから諦め、カメラを持たず未明の二見興玉神社へ参入しましたが、サチエが果敢にもスマホでシャッターを切りました。

何と言っていいのか、とんでもない感じの写真になっていますけれど、ぼんやりと夫婦岩の様子が分かって頂けるかと思います。


さて、ということでこの度の連載は、先の冬至に赴きました伊勢行をご紹介いたします。
今回、私たちにとっての新たな課題は、巡った順に上げますと以下の通りです。

1)外宮の朝一参拝
2)宇治神社参拝
3)宇治橋前で冬至前日の日出遙拝
4)神路山を抜ける県道12号伊勢南勢線+白滝
5)朝熊神社・朝熊御前神社・鏡宮神社の朝参拝
6)へんば餅
7)斎宮歴史博物館
8)神麻続機殿神社・神服織機殿神社参拝

とまあ、何度お伺いしても、未経験なことは山積しています。
いつまで経とうと尽くせぬ若輩者ながら、それが楽しみでもありますから、伊勢行はやめられません(苦笑)

1)〜8)について詳しくは、順に今後の記事でご紹介させて頂きます。





外宮、火除橋を渡った第一鳥居の前です。
時刻は05:27。

もちろん本当は開門時刻05:00ちょうどを目指していたわけですけれど、迂闊なことに前日、車のガソリンを満タンにしておくことを忘れたため、二見へ着くより先にGSへ急行したため遅れてしまいました(泣)

実はこの度、行程を検討している際に初めて気付いたのですが、今まで何度も伊勢へ訪れているにもかかわらず、外宮へは一度も朝一番から参拝したことがありませんでした。

と申しますのも、伊勢へは毎度、夏至と冬至に合わせ訪れることにしていますので、夏至の場合は必ず最初に二見の夏至祭で日出(04:40ごろ)を遙拝してから外宮に入りますから、朝一番には間に合いません。

また冬至には、その当日にしか伊勢入りをしなかったため、二見の後は必ず先に内宮の宇治橋前で日出(07:40ごろ)を遙拝してから外宮へ入ることにしていましたので、これまた朝一番には間に合いませんでした。
というのも、冬至の当日は未明から人出が多いため、かなり早い目に到着しておかないと駐車場が一杯になって車を駐められなくなってしまいますので。

そこで今回、冬至の前日に伊勢入りすることで、ようやく外宮の朝一参拝が可能となったわけですけれど、それでもガス欠によりチョット遅刻してしまいましたから、まことに反省しきりです。





外宮社務所の横に立つ巨木の向こうから、朝の光が差してきました。
 

取りあえず、今回のザックリとした行程は↓下記の通り。

▼12月20日(火) 夜明06:20/日出06:55/日入16:46/日暮17:21(外宮)

大阪01:30→
※A→04:00二見興玉神社04:50→05:20外宮06:40→07:00内宮P…宇治神社…宇治橋(日出遙拝)08:00→08:40剣峠09:00→※B→09:40白滝10:10→10:50伊雜宮…御神田(弁当昼食)12:00→12:10恵里原の水穴(天の岩戸)13:20→※C→13:50猿田彦神社14:20→14:30月読宮15:10→15:20倭姫宮15:40→15:50月夜見宮16:20→16:30ホテルキャッスルイン伊勢…17:00兎や(夕食)
※A:ガス欠寸前で急遽24h営業GSへ立寄(20分ロス)(>_<)ゞ
※B:白滝への道を見失い引き返し(30分ロス)orz
※C:宅配便で恵里原の名水を友人へ発送(10分所要)(^_^)


▼12月21日(水・冬至) 夜明06:21/日出06:56(内宮)/日入16:50/日暮17:25(桧原神社)

ホテルキャッスルイン伊勢03:40→04:00内宮P…饗土橋姫神社…05:00内宮07:00…津長神社…大水神社…冬至祭…07:30宇治橋(日出遙拝)08:00→08:20朝熊神社・朝熊御前神社…鏡宮神社09:10→09:40へんばや本店(へんば餅+赤飯昼食)10:10→10:30斎宮歴史博物館11:30→11:50神服織機殿神社12:20→12:30神麻続機殿神社13:00→13:50瀧原宮14:40→高見峠→16:40桧原神社17:10→今西酒造本店(新酒)→17:40大神神社[祓戸社…拝殿…己の神杉…社務所(大祓人形申込)…磐座社…狭井神社…薬井戸]19:30→20:30大阪





空は次第に青みを帯びてきましたけれど、杜に覆われた境内の中は、まだまだ真っ暗です。


なお、この度の伊勢行では、真っ暗だったりお馴染みの場所だと、私はほぼ写真を撮っておりません。
そのため行程の中で、写真が全くないところがかなりあります。

サチエの写真をタマに載せながらもそのような状態でありますので、なにとぞご容赦のほどお願いを申し上げます。





07:00ごろ、内宮前に到着しました。

いつもなら外宮を参拝した次には、スグ近くの月夜見宮へ必ず伺うのですが、今回はそれを後回しにさせて頂き、急ぎこちらへと直行しました。





内宮の駐車場前から、五十鈴川上流域の神域である神路山(かみじやま)を通過し、南伊勢町へ至る県道12号の入口が見えています。
 
 Wikimedia/File:Shimaji-yama 01.JPG

Wikipedia/神路山
Wikipedia/三重県道12号伊勢南勢線





日出までには少し時間がありますので、宇治神社へお参りするため県道12号の方へと歩きながら、内宮の向こうに聳える朝熊山を望みます。

すでに夜も明け、見えていない地平線上には太陽も出ている筈ですが、ここは朝熊山の影となっているため、今しばらく朝陽が届きません。





まずは、この先にある未見の宇治神社へと初参拝してから、宇治橋前で冬至前日の日出を初めて遙拝し、さらに未踏のこの県道12号伊勢南勢線に進入して神路山を通り抜け伊雑宮へと至る、というのがこの日の目論見です。

実は最近まで、この宇治神社や県道12号伊勢南勢線の存在を知りませんでした(泣)





道路奥の右手に見えているのが宇治神社。





上の写真にある注意書きをアップ。
この先急カーブ・狭路箇所多く
南伊勢町への
大型車の通行は不可能です。
三重県
鳥獣捕獲禁止
ここからは、神宮宮域林であります
法律により鳥獣の捕獲が禁止されていますので御注意下さい
神宮司庁
三重県
火の用心





そして、宇治神社へと参入します。

三重県神社庁教化委員会/神社の紹介/宇治神社



(つづく)

 
※今シリーズから、なかなか写真や資料などの整理が十分できそうにない状況となっており、そのため投稿がかなり不定期に、内容の質や量も不揃いになりそうです。ゴメンナサイ


 

 

 

~いつも応援ありがとうございます~

内宮門前町の鎮守神を祀る宇治神社〜2016冬至伊勢行(2)

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宇治橋の斜め向かい、県道12号を挟んで内宮と対面するように鎮座する宇治神社。
神宮125社のひとつではありませんけれど、少し控えめながら堂々たる立地です。

私たちの訪問に先立って、11月26日に御神遷があったということですから、鳥居をはじめ本殿やその拝殿など、社殿や建造物のいくつかが新たに造替されていました。





一の鳥居を入ってすぐ左に手水舎。
こちらも新しく、清々しい姿。





手水舎に掲げられた近々催行される神事。
月次際・・一日・十五日午前十時
天長祭十二月二十五日午前十時
十二月三十一日午後一時
除夜際十二月三十一日午後四時





境内の様子。

右手が社務所で、正面の石段を昇って二の鳥居をくぐった先に、本殿前へ建つ拝殿が見えています。




 

宇治(うじ)神社

・・伊勢市宇治今在家町字丸山
//大山祇神(おおやまずみのかみ)

ほかに御裳須曽姫命(みもすそひめのみこと)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・菅原道眞公・荒木田守武命などを合祀

・・八月二十一日
特殊神事一月十七日弓の事始式

六月三十日茅輪(ちのわ)神事(夏越祓(なごしのはらい))

 
創祀に二説あります。その一つは、皇大神宮末社那自賣(なじめ)神社の跡地に土地の神をまつったというもの(宇治昔語など)。その二は、万治三(一六六〇)年七月二十九日宇治洪水の時、神路山にあった小祠がここに漂着したというもの(五十鈴遺響など)。
明治四十一年三月以降近隣の数十社を合祀して、宇治四ヶ町の鎮守社となってきました。
主祭神の大山祇神(おおやまずみのかみ)は山の神、そして合祀されている神々は水の神や火の神から菅原道眞や藤原鎌足など歴史上の人物も加えてまつってきました。人々はこうして、自然の力と人間の智慧を尊崇してきました。
なお、当社奉祀の「足神さん」は、祈願者が多く、わらじを献ずる慣習もつづいています。





境内を奥へと進みます。
「足神さん」の幟が立ち並んでいました。

先に良く知らないと、この「足神さん」が宇治神社の主祭神かと勘違いしてしまいますね(苦笑)





二の鳥居。
奥に拝殿、右に蓬莱稲荷神社。





そして、二の鳥居すぐ左脇に足神神社。





何だかカワイイ祠に、「足神さん」と大きく記された木標。
右奥には、草鞋の絵馬も奉納されています。




 
足神神社
「神宮典略」によると、本社は「皇大神宮末社」葦立弖(あしたて)社に擬し、一説には宝暦年間(一七五一〜一七六四年)磯部街道笹原茶屋の亭主が、老狐が足を傷して治療に手を尽くしたが、その効無く悶死(もんし)したが亭主は、之を厚く葬(ほうむ)り山神に祖霊と祀り崇敬した。
/足の疲労平癒(ひろうへいゆ)を祈れば必ず加護ありと遠来より祈る者が多くなり草鞋(わらじ)を献ずる慣例があった。
/今尚、宇治神社に其の信仰状態を表し多くの陸上選手や足の悪い人達が健脚・健康を祈って訪れる。

アテネ五輪のマラソンで金メダルを取った野口みずきさんも、出場前にここへ参拝されたそうですから、誠に霊験あらたかな神さまです(笑)





撫石。
自分の足とこの石を交互に撫でることで、痛んだ足の平癒や健脚を祈願するとのこと。




 
撫石
(みそぎ)や祈祷のとき、からだを撫でて、穢(けが)れや災いを移して身代わりとして川に流す形代と同様にこの石を撫でて足の平癒を祈って、足神さんのご加護をいただいて下さい。





サチエも生真面目に撫石を撫でていました。
けれど、自分の足は撫でないまま、石だけを撫でていたようですから、どうなんでしょう?





先に足神さんへの参拝を完了し、本殿へと向かいます。





なぜか、サチエがなかなか足神さんの前から動きません。
どうやらかなり、足神さんをお気に入りの様子でした。





御神遷での造替で真新しくなった拝殿と本殿。
右の向こうに見えているのは、古殿地に建つ覆屋か、もしくは元仮殿のようです。

宇治神社の御神遷については、↓こちらで詳しくご紹介されていますので、ご参照ください。
『神宮巡々2』『神宮巡々』/宇治神社





拝殿内に掲げられた御祭神名。
 
御祭神
大山祇神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
宇迦之御魂神
玉移良比賣神
御裳須曽姫神
豊玉比賣神
素戔嗚尊
天兒屋根命
速秋津日子神
速秋津比女神
新川比賣神
火産靈神
水波賣神
石津賀神
応神天皇
天見通命
大職冠鎌足神靈
和気清麿神靈
菅原道真神靈
楠正成神靈
彌武彦神
羽倉東麿神靈
岡部真淵神靈
本居宣長神靈
平田篤胤神靈

何だか、やたら大勢の神々さま方ですけれど、これは明治末期の神社合祀政策で、このようにされてしまったようです。
 
明治41年3月、館町鎮座の求神社(中略)、足神社(中略)、水神社(中略)、今在家町鎮座の鏡石神社(中略)、石津賀神社(中略)、山神社(中略)、稲荷社(中略)、佐野姫神社(中略)、水神社(中略)、中之切町鎮座の蘭神社(中略)、浦田町鎮座の八幡社(中略)、稲荷社(中略)、秋葉社(中略)、瀧倉神社(中略)、山神社(中略)、崇忠神社(中略)を、同年7月、館町鎮座の荒木田一門神社(中略)を合祀し、明治45年5月、境内社弓場菅原社(中略)を合祀し、今日に至る。
三重県神社庁教化委員会/神社の紹介/宇治神社


宇治神社の氏地は、五十鈴川両岸の内宮門前町である宇治(進修地区:今在家町・中之切町・館町・浦田町)となりますけれど、かつてその氏地に存在した上記18社の祭神が一斉に宇治神社へ合祀された、ということです。

それはつまり、宇治において古くから祀られて来た18社もの神社が、時の政府の方針によって忽然と消去された、ということになります。
 
神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令によって進められ、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。
(中略)
この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。
(中略)
この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。
(中略)
1910年(明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった。
Wikipedia/明治末期の神社合祀





拝殿の奥から、本殿を仰ぎ見ます。

ここに、25柱もの神々がスシ詰め状態で祀られていると思えば、何となく複雑な心境にならざるを得ません。

しかし神社合祀を進める際、具体的な判断は知事の裁量に任されたということですから、三重県が他都道府県に比べ格段に多くの合祀を行ったということには、やはり国家神道の本宗とされた神宮のお膝元であるこの地であるからこそ、ことさらに日本全国へ向け範を示す必要があったのではないか、などと思われます。

ともあれ、この本殿にはこの地の鎮守さまが一堂に会しておられるわけですから、それはそれで何とも有り難いことと思い直し、参拝させて頂きました。





蓬莱稲荷神社。
朱色が鮮やかです。




 
蓬莱稲荷神社
現在の五十鈴川郵便局と藤屋窓月堂との露地(宇治中之切町旧進修小学校地内)にあったものを移したものであります。
元来は、今在家町丸山にあったものを、(一六八四年〜一六八八年 林崎文庫設立時は、稲荷神社が有った)天明二年(一七八二年)修築時に移されたものであります。
内宮権禰冝で副物忌父職(そえものいみのちち)を兼帯したことから蓬莱家の社であったと思われる。





社名がなかなか味のある書体で刻まれた扁額。





あと数分で07:30、しばらくすると宇治橋に朝陽が届く頃ですから、参道を下って行きます。

この宇治神社は、かつて中之切町字森に鎮座して饗土ノ山神社とも称した、ということですから、おそらく神宮会館の裏手付近、その山腹あたりにあったのかと思われますので、その跡地は今、どのような感じになっているのでしょう。

ここより少し小高い場所だったのかな、とか、境内地をこちらへ遷した理由は何だったのか、など、ボンヤリとですけれど気になります。





ゆるゆると鳥居を抜けて、宇治橋前へと歩を進めました。



(つづく)



 

 

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宇治橋から冬至前日のご来光を遙拝する〜2016冬至伊勢行(3)

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内宮門前町の鎮守神を祀る宇治神社〜2016冬至伊勢行(2)←(承前)

 

 

 

 

宇治神社から内宮前の駐車場を横切って、宇治橋前へと向かいます。

時刻は07:30少し前。


冬至ではいつも07:40ごろ、宇治橋の向こうに横たわる島路山(しまじやま)の稜線から朝陽が顔を出しますから、後もう少しです。

 

 

 


この日は冬至の前日ながら、宇治橋の前にはそれなりの人数が朝陽を待っておられました。

 

まあ、一日違いで、陽の出る位置にそう大きな違いがあるわけではありませんから、せめてこれくらいの人数で、ユックリとご来光を拝むのもよろしいのではないでしょうか(笑)

 

 

 

 

冬至当日に比べるとはるかに少ない人数ですし、報道カメラマンの大きな脚立もありませんので、和やかな雰囲気です。

 

 

 

 

とはいえ、このように雲が空を覆っていましたから、スッキリ爽やかな朝陽は期待薄でした。

 

 

 

 

小振りなカラスも、鳥居の上で朝陽待ち。

 

 

 

 

よりによって肝心な稜線の上に、分厚い雲が動かないままです。

 

 

 


時刻はちょうど07:40ごろですが、残念ながら、まだこんな感じでした。
けれども、稜線に乗った雲の上から、次第に太陽が顔を出すような気配です。

 

 

 


待つ間に随分と明るくなってきました。
ともあれ、記念撮影をしておきます。

 

 

 

 

ようやくご来光が、厚い雲の上からほとばしり出てきました。

宇治橋前の皆さんは、まだ太陽がハッキリと顔を出すのを待っています。


私たちは一足先に、県道12号伊勢南勢線へ出立のため駐車場へと戻りました。

 

 

 

 

ここぞと写メを撮っておくサチエ。

 

 

 

 

これはこれで、なかなかにドラマチック。

 

 

 


そして遂に、太陽が出ました。

 

 

 


毎度、いつ目の当たりにさせて頂いても、有り難いお姿です(笑)

 

 


(つづく)



 

 

~いつも応援ありがとうございます~

南勢の五ヶ所と伊勢を結んだ剣峠〜2016冬至伊勢行(4)

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宇治橋から冬至前日のご来光を遙拝する〜2016冬至伊勢行(3)←(承前)

 

 

 


内宮前から県道12号伊勢南勢線を車で45分ほど進み、剣峠(つるぎとうげ:標高343m)へと到着しました。

 

 

 


峠を越えた所に駐車できる広場があります。

 

ここへ至るまでには、山中で道幅がかなり狭小となって、落石や木の枝も転がっており、沿道にお住まいやお仕事される方々の対向車もありましたので、相当に用心深い運転が必要でした。

 


そこで、内宮前から剣峠までの経路↓を掲載してみます。

 


神路山の中を、五十鈴川上流に沿って伊勢南勢線は続いています。

 

 

 

 

剣峠石標の裏側から、南方に広がる南勢の五ヶ所浦と五ヶ所湾の方を望みます。

 

 

 


これは、私たちのやって来た方向。
切り通しの先に見えるピークが剣峠となります。

 

こして見ると、手前左手の広場前で道幅が広がっていますから、それなりに整備された県道のようですけれど、まさに剣峠の辺りは↓こんな感じで、車が1台通行するだけで一杯一杯なのが実情です(苦笑)

 

 

 

 


そしてこちらは、これから進む南勢方面への下り道。
これを見て、ようやく普通の道路になった様子ですから安堵しました。

 

 

 


剣峠を紹介するポーズのサチエ。
かなり疲れた様子が痛々しくもあります…

 

ここまでの道中で何度か車から降りて、目の前に転がった落石や大きな枝を取り払ったり、対向車と鉢合わせになるとバックを誘導したり大変でしたから、もうグッタリな様子です(泣)

 

 

 

 

剣 峠 
 
明治二十三年、伊勢へ通じる近道としてできた。 
剣峠は「椿峠」の呼び名もあり、椿の純林があることでも知られている。 
この峠道は五ヶ所街道とも呼ばれ、伊勢神宮に参る信仰の道でもあり、土地の人々が海山の幸を伊勢の町へ売りにいく生活の道であった。 
古くは峠に茶屋もあり、徒歩や馬で往来する人々でにぎわったようだ。 
伊勢から来て、この峠から熊野灘を見た文人は、殊に興をそそられたらしく、多くの作品にとりあげられているが、 作家で詩人としても知られている足立巻一はここへ 立った時の感興を「剣峠」と題し、その中で次のようにのべている。 
 

剣峠というのは 
若い荒神が天から舞おりてきて 
剣を岩に突き立てて 
霧とともに消えさったからだ。 
とゆう。 
(以下略)(「響}第十八号より)

 

 

 

 

広場から南の方向、南勢方面を展望します。

 

先ずは神路山の向こうで雲に隠れた太陽の様子。
時刻は08:50ごろ。

 

 

 

 

今度は視線を少し右へ移すと、山波の先に五ヶ所湾、その向こうには太平洋が望めました。

 

 

 

 

望遠を使って、五ヶ所湾を見てみます。

 

五ヶ所湾(ごかしょわん)は三重県度会郡南伊勢町にある湾。田曽岬と止の鼻が湾口を成し、湾最奥部に町の中心集落の五ヶ所浦がある。 その地形から楓江(ふうこう)の異名を持つ。現地の堤防には「伊勢の南玄関」と表記されている。

 Wikipedia/五ヶ所湾

 

 

 


広場の西方には、神路山のひとつ、その尾根が神宮林の南境界線となる八祢冝山(はねぎやま:標高422m)への登山口があります。

 

南伊勢町観光協会/切原峠・八祢宜山

 

 

 

 

案内板のアップ。


丸い小さな凹みが沢山ありますけれど、これはもしかしたら、サバイバルゲームのエアガンなどで標的にされてしまったんでしょうか…

 

 

 

 

道の奥にも案内板がありました。
なかなか良い感じの山道でしたから、いつか、登ってみたいなと思います。

 

 

 


そして広場の東方に、こちらも八祢冝山と同じく、その尾根が神宮林の南境界線となる志摩市最高峰の京路山(きょうろざん;標高414m)登山口があります。

 

Wikipedia/京路山

 

 

 

 

案内板をアップ。
こちらは、標的にされた形跡はありません(笑)

 

 

 

 

こちらも良い感じの山道です。

 

 

これらの山は宮域の境界となっており、尾根道の北側は原生林に近い神宮林のため許可なく立ち入りはできませんけれど、南側は里山で、その違いを眺めながら歩けるとのことです。

 

ゲンキ3ネット/神宮林の境界を歩く~八禰宜山と剣峠と京路山~

いせ人の山楽誌/京路山〜八禰宜山〜切原峠

 

そして、これら山の北側一帯が立入禁止の神宮林ということから、内宮前よりこの剣峠までの県道12号線沿いでは、勝手に道を外れてウロウロ歩き回ってはいけません、ということですね。

 

これは、島路山(しまじやま)を五十鈴川支流の島路川に沿って抜ける伊勢道路でも同じことですから、私を含め、皆さんも気をつけましょう(苦笑)

 

 

 


登山口探索しているところをサチエに撮られました。
何だかダルマさんのようです(苦笑)

 

 

 

 

広場の北端に、『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』など、童謡作詞家として名高い野口雨情の石碑が建てられています。

 

 

 

 

神路山越え 
また来ておくれ 
乙女椿の 
咲く頃に 

 雨情  東道人書

 

 

 

 

・・野口雨情詩の細道 

昭和十一年七月、雨情はこヽ南勢の地に遊び、各地の風物を詠んで「五ケ所湾小唄」を作詩した。文化協会はこの古き良き文化を後世に伝えようと、南勢町ふるさと創生事業の一環として、共々この地に一節を刻み詩の細道の一つとするものである。
平成三年十月吉日 
・・南勢町 文化協会 切原区 建之

 

 

 


野口雨情石碑の向かって左横には、小次郎池なるものもありました。

 

 

 

 

小次郎池

佐々木小次郎が山犬を切った刀を洗ったと言われています
中央の石は巌流島を表しています

切原老人会

 

 

 


すると、いきなりサチエが巌流島へ飛び乗りました〜(・O・;

 

 

 


コラコラ、そこ巌流島やねんで〜〜、とたしなめると、どうやら赤い金魚が何尾か泳いでいたそうで、それを確かめたかったそうです(泣笑)

 

まあ、そんなことで元気を取り戻してくれるなら、と笑って見てるしかありませんでしたけれど…

 

 

 

 

そろそろ次へ出発ということで、もう一度、五ヶ所湾の方を望みます。
薄暗かった天気が、少し明るくなって来たような…

 

 

 


望遠で見てみました。
五ヶ所湾に浮かんでいる島は、葛島です。

 

葛島なら
回れば一里
海女の貝採り
船で見る

雨情

南伊勢町/野口雨情詩碑⑫ 宿浦

 

 

 


そして県道を、南伊勢町方面へと下って行きます。

 

 

 

(つづく)



 

 

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雨乞の聖地に花と咲く切原の白滝〜2016冬至伊勢行(5)

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南勢の五ヶ所と伊勢を結んだ剣峠〜2016冬至伊勢行(4)←(承前)

 

 

 


剣峠から、県道12号伊勢南勢線を南伊勢町の切原方面へ降りて行くと、人里にほど近くなって来た頃に白滝へと至る林道への分岐があります。

 


実はこの案内板を見かけた時、白滝へ行くつもりだったことを完全に忘れ去っていました(泣)
車で険しい峠道を行くことだけに一杯一杯となっており、文字を読まないまま通り過ぎてしまったのです。

 

ところが、五ケ所湾岸に至ってホッとし、海を右に眺めながら国道260号線を伊雑宮へ向けノンキに進み始めると、何か肝心な事を忘れていることに気付きました。

 

「あ〜白滝、忘れてるや〜ん!!」

そのまま国道を引き返し、あわてて県道12号へ入り直します。orz

 

 

 


ようやく、白滝への入口に到着しました。

 

 

 


ここにも、野口雨情の石碑があります。

 

山にひびいて
白滝さえも
水は砕けて
花と咲く

 

野口雨情詩の細道

野口雨情は北原白秋西条八十と共に我が国が生んだ三大詩人の一人である。昭和十一年七月、雨情はこヽ南勢の地に遊び各地の風物を詠んで五ケ所湾小唄を作詩した。文化協会はこの古き良き文化を後世に伝えようと南勢町ふるさと創生事業の一環として当区と共同してこの地にその一節を刻み詩の細道の一つとするものである。 
平成元年七月吉日 
南勢町 文化協会 切原区 建之

 

 

 


サチエを先に促して、渓谷へと下る参道へ入って行きます。

 

 

 


始めての地、それも深い森へと続く道を先行させられ、少し不安げに振り返るサチエ(笑)

 

 

 


先が見えません。
天気も曇り空ですし、ちょっと勇気が必要です。

 

 

 


それでも、水が勢いよく落ちる滝の音が響いてきました。

 

 

 

 

滝が見える前に、案内板が掲げられています。
向こうには小さな石製の祠も見えています。

 

 

 

 

白滝

不動尊が祀られていることから「不動滝」ともいわれる。 
干ばつが続くと滝つぼへ飛び込み、塩で清めて雨ごいをする。 
高浜虚子も明治の終りころここを訪れ、御木本幸吉が樹木の乱伐を防ぐために五ヶ所名所のひとつとして、この滝一帯を購入したらしいことを後の紀行文に残している。 
(「実業の日本」誌 明治四十五年一月) 
五月上旬にはうす紫色の山藤が美しい。

 

 

 

 

白滝。

 

写真をこう撮ると、何だか小さな印象ですけれど、落差10mですから、実際にはかなりの迫力があります。

 

伊勢志摩きらり千選/切原の白滝(南伊勢町切原)

 

 

 


滝の前で、じっと耳を澄ますサチエ。


その繊細な瀑声は木々を縫うようにあまねく響き渡り、森は静謐な気で満たされていました。

 

 

 

 

川の下流へと遠ざかって全体を見ると、こんな感じ。

 

 

 

 

ちょっと寒そうなサチエ。

 

 

 


滝口の様子をアップ。
水量はさほど多くなさそうですが、水の流れがきれいに分散しています。

 

 

 


そして、滝の横に立つ石の祠。

他に石仏など見当たりませんでしたので、ここにお不動さまが祀られているようです。

 

 

 

 

祠の正面。

 

滝壺から祠まで、自然石による石段が組まれています。
雨乞いで滝壺へ飛び込んだ後には、ここから上がってお不動さまへと祈願したのでしょうか…

 

 

 

 

そろそろ行こうか、となった途端に、寒さと眠気、それに剣峠を越えてきた疲れが重なって、もう目を開けているのが辛くなったサチエ(苦笑)

 

 

 

 

高い木立を仰ぎ見ます。

 

 

 

 

白滝さんにも再訪を期し、仰ぎ見ました。

 

 

 

 

参道へと歩を進めます。

 

 

 


そこでもう一度、振り返りました。

 

 

 

 

そして参道。

 

 

 

 

また振り返り…

 

 

 

 

まだ振り返りながら歩いています。

 

 

 

 

そうして参道の入口へと戻りました。

 

 

 


林道の脇には、鮮やかなツツジ。
冬至にもかかわらず、元気に咲いていました。

 

 

 

 

ツツジのアップ。

白は滝水、赤はお不動さんを思わせます。

 

雨情の詠んだ「水は砕けて 花と咲く」そのままのような…

 

 

 

(つづく)



 

 

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初めて間近に見た伊雑宮の勾玉池〜2016冬至伊勢行(6)

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雨乞の聖地に花と咲く切原の白滝〜2016冬至伊勢行(5)←(承前)

 

 

 


切原の白滝から、ようやく伊雑宮へと到着しました。

 

これは、今まで間近に見ることのできなかった勾玉池ですが、先の遷宮から周囲に立ち入れるよう整備して下さったそうです。

 

 

 

 

そこで早速、ぐるりと歩かせて頂きました。

 

しかしその時は、今までこんなゆっくり見て回ったことなかったね〜、などと言いながらノンキに歩くだけで、特に立ち入れる範囲が変わったことにも気付かないままの私たちでしたけれど…

 

 

そしてこの日、写真を撮ったのはこれで最後となりました(泣)

 

よほど、剣峠を越えるだけで神経を磨り減らしてしまったのか、ここから各所のお馴染み風景に癒やされるがまま、参拝に集中するだけで精一杯でした〜。orz


ということで今回は、以降の立ち寄り先を参照サイトや過去記事の写真など引用しながら簡単にご紹介し、この日に巡った全行程の地図も掲載しておきますので、よろしければご参照くださいませ。

 

 

 

伊雑宮

 

 

御祭神:天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)

 

伊雑宮は、天照大御神の御魂をお祀りし、「いぞうぐう」とも呼ばれます。古くから「遙宮(とおのみや)」として崇敬を集め、地元の人々によって海の幸、山の幸の豊饒ほうじょうが祈られてきました。
毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、とても雅な神事で、「磯部の御神田(おみた)」の名で国の重要無形民俗文化財に登録され、日本三大田植祭の一つとされます。

 神宮/内宮(皇大神宮)/別宮 伊雑宮

 

 

いつもなら、伊雑宮へ着く頃にお昼時となりますので、近くの川うめで、うな丼かうな重を頂くことが多いのですが、この日は時刻が早く時間にも余裕がなかったため、持参したサチエの握ったおむすびを、御神田を眺めながら頂きました。

 

夏至の頃だと6月24日の御田植式に備え、伊雑宮は人出も多く活気がありますけれど、冬至だと年末まで少し間があり、人出も少なくノンビリとしています。

 

 

2013冬至伊勢行(1)全4回

 

 

 

恵里原の水穴(天の岩戸)

 

 

伊勢志摩国立公園内の逢坂山の中腹にある洞窟から湧出しており、志摩用水の源水となっている。
天照大神が隠れ住まわれたと伝えられる伝説の場所。地元老人クラブが毎月例祭、清掃等の環境活動を行っている。 

 環境省/名水百選/恵利原の水穴(天の岩戸)

 


ここのお水は、いつも人手で運べる限り目一杯の量を頂いて帰ります。

 

自宅の神棚や仏壇へのお供えにはもとより、三輪で授与を頂き育てている木々へと撒いたり、焼酎をあらかじめ水割りして寝かせておく前割にも使ったり、何より毎日の飲料水として重宝します。

 

味はまろやかで、とても美味しいと思っていますので、お奨めできます。
冬は冷暗所で、夏場なら冷蔵庫で2〜3ヶ月くらい保存しても、経験上では全く大丈夫ですし。

 

 

2014夏至伊勢行(7・最終回)恵利原の水穴〜瀧原宮

 

 

 

猿田彦神社

 


天の神を地にみちびく
その昔、混沌としていた地上をおさめるため、天から神さまの一行が降りてきたとき。途中の道をふさぐ大きな光る神が。勇敢な女神が声をかけると、大きな神は「私はサルタヒコ、天の神を迎えにきた」と。その案内で天の神は無事、地上に着き、国をおさめたそう。その後、伊勢の地に戻ったサルタヒコは、女神アメノウズメと結ばれます。さらに後の世、サルタヒコの子孫が天照大御神を導いたおかげで、あの伊勢神宮ができたと伝わります

 猿田彦神社/本殿挙式/猿田彦神社とは
 

 

猿田彦神社のスグ近くに宅急便の営業所がありますので、先にそちらで友人に送る恵里原のお水を発送してからの参拝となりました。

 

いつも通り、駐車場から車両修祓所の横を抜けて境内へと参入します。
この日はご婦人方の団体さんで境内は賑わっており、皆さん古殿地の方位石に興味津々のご様子でした(笑)

 

私たちは本殿から佐瑠女神社、本殿裏手の拝所、御神田と進み、無事に参拝を終えて次の月読宮へと向かいます。

 

 

2014夏至伊勢行(4)赤福本店〜猿田彦神社〜月読宮

 

 

 

月読宮

 


御祭神:月読宮(つきよみのみや)月読尊(つきよみのみこと)

月読荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや)月読尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊佐奈弥宮(いざなみのみや)伊弉冉尊(いざなみのみこと)

 

ご祭神は月読尊。天照大御神の弟神で外宮別宮 月夜見宮のご祭神と同じです。「月を読む」と記すとおり、月の満ち欠けを教え暦を司る神であることを意味します。
右から月読荒御魂宮②、月読宮①、伊佐奈岐宮③、伊佐奈弥宮④の四別宮が並んで鎮座し、①から④の順にお参りされるのが一般的です。

 神宮/内宮(皇大神宮)/別宮 月読宮

 


この月読宮だけは、別宮が横に四宮も並びますので、いつも参拝するのにちょっと気合いが必要です。

 

というのも、私たちの参拝では基本的に蹲踞の姿勢を取り、神宮だと本宮と別宮、そして他に幾つかの摂社などで大祓詞を奏上しますので、これが休みなく4連チャンにもなりますと、足腰はかなりガクガク、頭はボ〜となってロレツもおかしくなってしまいますから。orz

 

ということで、月読宮は私たちにとってチョットした修行の場的な意味を持っています。

けれども、そうして無事に四宮をお参りできたなら、その後の葭原神社ではホッとして過ごすのが楽しみになりました(笑)

 

 

2014夏至伊勢行(4)赤福本店〜猿田彦神社〜月読宮

 

 

 

倭姫宮

 

 

御祭神:倭姫命(やまとひめのみこと)

 

倭姫宮は、内宮と外宮を結ぶ御幸道路の中ほどの倉田山に鎮座し、倭姫命をお祀りしています。緑のあざやかな倉田山の西側には、神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)・農業館、美術館、神宮文庫等があり、この辺りを「倭姫文化の森」といいます。

 神宮/内宮(皇大神宮)/別宮 倭姫宮

 

 

いつもなら午前中に、この倭姫宮で伊勢志摩の別宮巡りは終了となって、次に瀧原へと向かうところですけれど、今回はこの後の月夜見宮が本日最終の参拝先となります。

 

そのように、あともう少しガンバって、と力付けて頂けるような、さまよいの女神というイメージが私たちにとっての倭姫さまとなります(苦笑)

 

瀧原にも、宮川の急流に困った倭姫一行を真奈胡神(まなごのかみ)が出迎えた熊野街道の「三瀬の渡し」がありますし。

 

 

2014夏至伊勢行(5)倭姫宮〜豊受大神宮〜多賀宮

 

 

 

月夜見宮

 


御祭神:月夜見尊(つきよみのみこと)

月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)

 

ご祭神は月夜見尊。天照大御神の弟神で内宮別宮 月読宮のご祭神と同じです。月読宮は月読尊と荒御魂をそれぞれ別の社殿にお祀りしていますが、月夜見宮は、月夜見尊と月夜見尊荒御魂を一つの社殿に合わせてお祀りしています。
月夜見宮は、外宮北御門から西へ伸びる「神路通かみじどおり」の先にあり。樹齢数百年の楠を始め、たくさんの木々に囲まれた神域は、市街地と思えない静かで穏やかな佇まいです。

 神宮/外宮(豊受大神宮)/別宮 月夜見宮

 


この月夜見宮へは、いつも外宮の次に参拝させて頂きますから、午前中の様子しか知りませんでした。

今回は宇治橋でのご来光を遙拝するため、外宮から急ぎ内宮前へと移動して、結局この日最後の参拝となりましたので、はじめて夕方近くの参入となりました。

 

 

境内へ入ると、右手奥の高河原神社の方から何だか大声が聞こえてきます。
どうしたのかと目をやると、小さくしゃがみ込んだ高齢のご婦人が、祝詞を精一杯の声量で唱え上げておられるようでした。

 

すんごいなぁ〜、などと感心するも、いま高河原神社を参拝されているということは、既に月読宮への参拝は終わられているということでしょうから、私たちは安心してゆっくりと手水を使い、月読宮に向かいました。

 

実はこの時、12月朔日に行った山歩きで痛めていた私の右膝が限界に達したため、蹲踞をできずに立ったままお参りを始めていましたら、誰かが私の右足元に座り込んだ気配がありました。

 

そこで瞑っていた目をうっすらと開けて確認すると、何と先ほど高河原神社を参拝していたお婆さんが私の足元にうずくまっているのです。

 

え? と私が思う間もなく、お婆さんは例の大声で祝詞を奏上し始めました。
それも聞いたことがないような音程で、こう言ってはなんですけれど、かなり素っ頓狂な調子なのです。

 

また、私たちはお参りの際、ほとんど必ず左右どちらかの一番端へ寄るようにしているので、この時も左端へ立っていたのですが、それにもかかわらず、お婆さんは空いている右側へ座ることなく、左端の私たちへ引っ付くようにしてしゃがんでいます。

 

これがこの婆さんの定位置なのかな〜、と不思議に思いながらも、まあ気にしないでおこうと思って私たちも参拝へ集中しようとしましたが、いくら何でも自分の足元から祝詞がガンガン響いてきますので、途中で参拝をいったん諦めました(泣)

 

 

まあ、大体の場合、私たちはどのような騒音があっても、できる限り気にしないようしています。

それは例えば、お釈迦さまは瞑想中、横に立つ大木に雷が落ちても、側を王様の行列が行進しても、何ら気付かれなかったという逸話がありますから、それへ少しでも倣いたい気持ちもありますし、うるせ〜な〜〜とか、静かにしろよ〜とか、ネガティブなことを参拝中に思うのは自分自身に禁じたいという気持ちもありますので。

 

けれども、今回はさすがに無理だったことが希有な体験でした(苦笑)

 

おそらく、お婆さんは大祓詞を唱えておられたと思うのですけれど、どうしてもその詞が大声で耳に入って来ますから、自分たちが小声で唱えている祝詞とカブって、何をどこまで奏上したのか、途中で何が何だか分からなくなってしまいましたから。

 

そこでやむを得ず、ともあれ高河原神社を先に参拝することにして場所を移動し、次に、まだお婆さんが月夜見宮前におられるのを確認すると、今度は左奥の祠へと移りました。

 

そうしてようやく、月夜見宮への参拝を再開できることとなり、これはこれで貴重な体験となりました(笑々)

 

 

2014夏至伊勢行(6)土宮〜風宮〜月夜見宮〜伊雑宮

 

 

 

 

12月20日(火) 夜明06:20/日出06:55/日入16:46/日暮17:21(外宮)

04:00二見興玉神社04:50→05:20外宮06:40→07:00内宮P…宇治神社…宇治橋(日出遙拝)08:00→08:40剣峠09:00→09:40白滝10:10→10:50伊雜宮…御神田(弁当昼食)12:00→12:10恵里原の水穴(天の岩戸)13:20→13:50猿田彦神社14:20→14:30月読宮15:10→15:20倭姫宮15:40→15:50月夜見宮16:20

 

 

 

 

(つづく)→ 冬至の朝陽は宇治橋の鳥居へと注がれる〜2016冬至伊勢行(7)



 

 

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冬至の朝陽は宇治橋の鳥居へと注がれる〜2016冬至伊勢行(7)

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初めて間近に見た伊雑宮の勾玉池〜2016冬至伊勢行(6)←(承前)

 

 

 

 

いよいよ冬至の朝、その朝陽を遙拝するため多くの人々が内宮の宇治橋前に集まっています。

 

この写真で時刻は07:18。
あと20分ほど待つと、鳥居の中から望む島路山の上へ朝陽が昇り始めます。

 


私たちはこれに先立って、04:00ごろ内宮前の駐車場へと入りました。

 

まずは駐車場の奥、宇治橋の真正面で宇治橋を守護する宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)をお祀りしている饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)へお参りします。

 

ただ、この日の夜明は06:21で日出は06:56ですから、それまではどこもかしこも真っ暗闇に包まれていますから、漆黒の杜に覆われた饗土橋姫神社へ足を踏み入れるのには、毎度のことながら少し勇気がいります(苦笑)

 

そして次に、饗土橋姫神社の両側、小高いところへ鎮座する津長神社と大水神社にも参拝するつもりでしたが、残念ながら月明かりはなく、あまりにも暗過ぎて足元が危ないため、今回は後回しとなりました。

 

そこでやむなく車中で30分ほど休憩した後、05:00の参拝開始と同時に宇治橋へと参入し、内宮境内を参拝し終えてから津長神社と大水神社にも参拝して、この宇治橋前へと戻って来ました。

 

もちろん、ここまでに撮った写真はありません。
暗すぎて何も撮れないからです(泣)

 

 

 


宇治橋前広場に整列して朝陽を待つ人々。
行列の最前列には、昨日なかった緑色のパイロンで柵が据えられています。

 

右向こうに聳える鼓ヶ岳(つづみがたけ)は、この時すでに太陽の光を受けて、ほんのりと赤く染まり始めました。

 

 

 

 

寒い中、皆さん静かにお行儀よく待ち続けておられます。

 

私たちは行列の中へは入らずに、日の出から一呼吸おいた後にこの行列が崩れますので、そのタイミングを待って周辺でノンビリと待ちます。

 

 

 


もうスグです。
まだ太陽が顔を出していませんので、ちょっと図々しくパイロンの前に出て撮らせて頂きました。

 

 

 


次第に空が明るくなって来ました。
固唾を呑んで、その時を待つ人々。

 

 

 

 

と、そのように緊迫した雰囲気の中、駐車場の向こうに冬至祭の様子が見えました。


この冬至祭は、伊勢市観光協会によって毎年行われているもので、「冬至ぜんざい」や「柚子」が振る舞われています。

伊勢市観光協会/いべんと/冬至祭

 

しかし、なぜかいつも始まるタイミングがご来光の出現とほぼ同時なため、朝陽を遙拝した後に駆けつけても、常に時すでに遅く、今まで一度としてその振る舞いにありつけたことがありません。

 

そこで今回、初めて前日も朝陽を遙拝した余裕から、先に冬至祭へ行ってみることにしました。

 

 

 

 

冬至祭へと向かう途中、鼓ヶ岳を仰ぎ見ると、より明るく朝陽に照らされています。

 

 

 

 

お伊勢さん
 冬至祭

伊勢市観光協会

冬至ぜんざいふるまい所
公益社団法人 伊勢市観光協会


幟と看板がテント前に賑々しく、ご担当の皆さんもお集まりですが、やはり日の出待ちなのか未だ始まっていません。

 

 

 

 

すると、向こうから見慣れない着ぐるみが歩いて来ました〜(笑)

 

 

 


「伊勢まいりんくん」と「はなてらすちゃん」に挟まれて記念撮影〜(笑々)

 

ぼくのなまえは「伊勢 まいりんくん」やんな。
お伊勢まいりに来た日に伊勢が大好きになって、それからずっと伊勢にすんどるんさ。
伊勢には たのしいところ、おいしいものがいーーーっぱいあるんやで。
たまりしょうゆをつかった伊勢うどんや、アンコたっぷりのおもちとか、伊勢にくるみんなにも食べてもらいたいな~!
伊勢にあそびに来てくれたときに会えるとええなあ。
伊勢のいいところ たくさんおしえるでなぁ~。

 伊勢市観光協会/伊勢まいりんくん公式サイト

 

おもてなしの心で、笑顔の花を咲かせる女の子。
みんなの元気パワーをもらって
『はなてらすちゃん』の背中のお花はいつも満開!!
今日もみんなの笑顔で伊勢のまちを照らします★ 

 伊勢市/伊勢市の観光PRキャラクター「はなてらすちゃん」

 

 

 

 

微妙な人気具合。
というのも、この時お客さんは私たちを含め数人のオジサンとオバサンしかいませでしたので…

 

この冬至祭、どうしてもっと賑わっている宇治橋前広場の近くでやらないんでしょう?
モッタイナイですね。

 

 

 

 

初めて手にした「冬至ぜんざい」。
具はカボチャです。

 

お味は、もちろん美味しかったですけれど、おそらく神宮前という場所柄のため火の用意ができないようで、あまり熱くなかったのが残念でした。

 

 

 


もうひとつ振る舞って頂けるのが「柚子」。

歓迎

 

ようこそ、伊勢冬至祭にお越しくださいました。
心から歓迎いたします。

 

我が国では、一陽来復のお礼を受けて、冬至かぼちゃを食し、ゆず湯に入る習わしがあります。

 

「カボチャは保存がよく、栄養も豊富なので、冬至に食べるという。また、ゆずは、ビタミンが豊富なので、万病の予防になるといわれています」

 

公益社団法人 伊勢市観光協会

 

 

 

 

ということで、「冬至ぜんざい」を急いで頂き宇治橋前に戻ると、何とか間に合いました。
日の出直前です。

 

 

 


ひと息ガマンして、行列の崩れた瞬間に人波へと滑り込み、鳥居の中で朝陽を捉えました〜。

 

 

 


我慢強く長い時間をお待ちになっておられた方々は、さすが神宮へのご崇敬も篤いのか、ご自身が満足いく写真を撮られたら、スグに行列を離れ、他の方へと場所を譲られます。

 

そのご厚意に甘えて(乗じて?)、いつもこのように何とか写真を撮らせて頂けますことは、本当に有り難いことですね。
ありがとうございます。

 

お先にチャッカリ「冬至ぜんざい」頂いてしまいましたこと、誠に申し訳ございません(苦笑)

 

 

 


それでも、まだまだご来光を遙拝される方は後を絶ちません。
報道の脚立は、早々に片付けられていました。

 

 

 


そうして朝陽を振り返りながら駐車場へと戻り、次は五十鈴川のほとりに鎮座されている朝熊神社・朝熊御前神社と、鏡宮神社へ向けて出発します。

 

 

 

(つづく)




 

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五穀と水を守る朝熊神社と朝熊御前神社〜2016冬至伊勢行(8)

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冬至の朝陽は宇治橋の鳥居へと注がれる〜2016冬至伊勢行(7)←(承前)

 

 

 

 

内宮前から車で20分ほど走り、朝熊神社と朝熊御前神社の入口に到着しました。
これら二社は右手の杜の中、ひとつ境内に並んで鎮座されています。


写真の向こうを左から右に流れているのが五十鈴川、そこへ手前から流れ込むのが朝熊川です。
ここは五十鈴川下流と、その支流である朝熊川が合流する地点。

 

その朝熊川とは、志摩半島の最高峰で随一の霊山である朝熊山を水源とし、この豊かな朝熊平野を潤し続けてきた聖なる川ですから、かの五十鈴川と合流するこの地は、伊勢においても格別の聖地ということになります。

 

この地方の最高峰の朝熊山は古くから山岳信仰の対象となり、825年(天長2年)に空海が真言密教道場として南峯東腹に金剛證寺を建立したと伝えられている。
(中略)
室町時代には神仏習合から伊勢神宮の鬼門にあたる丑寅(北東)に位置する金剛證寺が伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、入山者が増えることになる。

 Wikipedia/朝熊山

 

 

 

 

目を左に移すと、朝熊川を挟んだ向こうには、これら聖なる川によって作られた三角州の上に、鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)が鎮座します。

 

この鏡宮神社は創建が不詳ながら、かつて朝熊神社の御前社だったという経歴を持ちます。

寛文3年(1663年)に朝熊神社の御前社として再建された後、朝熊神社の隣に朝熊御前神社が建てられ、鏡宮神社は朝熊神社から独立した神社となった。

 Wikipedia/鏡宮神社

 

 

 


いつもここへ来るのは、その日の〆になることが多いため、おおよそ夕方に近い時刻ばかりでしたので、この方向に太陽を見るのは初めてでした。

 

向こうに望む朝熊山が、後光で輝いている姿が印象的です。

 

 

 


そして、朝熊神社と朝熊御前神社の境内へと参入します。
なぜかここには、鳥居がありませんけれど…

 

 

 


小高い丘、というか小山の中腹へ向けて石段を昇っていきます。
この山の名は、残念ながら今もって分らないままです。


夏至にここへ訪れると、この石段には沢山の川ガニが群れており、人の気配を察すると、サササ〜と素早く左右に分かれ、石の隙間へ逃げ込みます。

大きさは拳大から指先くらいまで様々ですが、皆まさに、季節限定の神使といった感じです。

 

 

 

 

杜が朝陽を受け、輝いています。

 

 

 

 

仰ぎ見ると、参道を覆う鬱蒼とした高い木立の中へは、まだ光が届いていません。

 

 

 


そして神前へと出ました。
木漏れ日が強く照らしています。

 

 

 

 

右が朝熊神社で、左が朝熊御前神社となり、南西へ向いています。


朝熊神社(あさくまじんじゃ) 皇大神宮摂社 
祭神:大歳神
(おおとしのかみ)

苔虫神(こけむしのかみ)
朝熊水神(あさくまのみずのかみ)

祭神はこの土地を守る神で五穀と水の神の三柱、大歳神と苔虫神と朝熊水神。各祭典とも必ず神職が参向して奉仕される。朝熊御前神社と相並び、向かって右の神社。まずこの神社を参拝する。 

 お伊勢さん125社まいり/五十鈴川めぐり/朝熊神社

 

Wikipedia/年神

玄松子の記憶/苔虫神

 

『倭姫命世記』によれば、内宮の鎮座地を定めた倭姫命が垂仁天皇27年に石と化していた大歳神を祀る社を建てたのが朝熊神社の創始であるという。(中略)『皇太神宮儀式帳』にも記載があることから延暦23年(804年)以前から存在したことになる。

 Wikipedia/朝熊神社_(伊勢市)

 

 

朝熊御前神社(あさくまみまえじんじゃ) 皇大神宮摂社 
祭神:朝熊御前神
(あさくまみまえのかみ)

祭神は朝熊御前神。社名の通り、朝熊神社を本社とする御前にある付属の神社。向かって左(西)の神社で、朝熊神社に続いて参拝する。
朝熊は浅隅であり、隅は水の曲がり入った所という意で、浅い川の流れが曲がり入った五十鈴川の入江が、村口まで迫っていたのである。 

 お伊勢さん125社まいり/五十鈴川めぐり/朝熊御前神社

 

この「御前神」というのは、どういう意味なんでしょう?
本社の「御前にある付属の神社」って、どういうことなのか、よく分かりませんね。

 

おそらく、主祭神を守る、主祭神を祀る、という意味かとは思いますけれど、それなら本社と同格に横並びというのは、おかしいですから。

 

例えば、宇治橋を守る饗土橋姫神社は、宇治橋の延長線上で正面にあるわけですし、大神神社の神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)は、大物主の妻である倭迹々日百襲比賣命を祀って、社殿が三輪山を遙拝する位置に建てられています。

御前(みまえ・ごぜん)とは、そういう正中の位置関係で主従が明確なものだと思うのですが…

 

 

 


このように、ここで低い位置から強い太陽の光が差しこむ様子を、私たちは知らずに新鮮でしたから、サチエも思わず何枚か写真を撮っていました。

 

 

 


社殿にも、幾筋かの朝陽が横から直接あたっています。

 

 

 

 

この時すでに遷宮のなった本宮や別宮とは違い、こちらはまだ渋い趣のままでした。

 

 

 


両社の間から、杜を仰ぎます。

 

本来なら、先ず朝熊神社を参拝し、次に朝熊御前神社を参拝するというのが正式な作法ではありますけれど、私たちはいつも、この位置から両社を併せ、一度に参拝させて頂きます。

 

ちょっと手抜きと言えばその通りなんですが、それはそれで、実のところ広々と気持ち良い参拝になります。

 

こちらは内宮摂社の第一位と第二位なのですが、今まで他に誰かを見かけたことさえありませんので、遠慮なく大きな声で祝詞を奏上させて頂くことができ、この杜を仰ぎ見ながらノビノビと参拝させて頂けることは、何とも有り難いことかと思います。

 

 

 


正面から見た二社のお姿。
全く同じ大きさで同じ造りとなっています。

 

このように、瓜二つで二社並んでいる意味は、やはり何なのかが気になります。

 

朝熊神社とその御前社としての鏡宮神社は、1663年に神宮大宮司の尽力によって再建されたとのことですが、それから後、いつ頃かは不詳ですが、これら二社に遅れて朝熊御前神社が創建されたということで、このようなお姿になったのは、それほど古い時代のことではありません。

 

ですから江戸時代のことになりますけれど、朝熊御前神社とは、その頃この地で新たに権勢を握った何らかの人物が、その示威のために創建を指図したものかも知れませんね。

 

そう考えると、何だかチョット脂っこくてどうかとは思いますけれど、まあ神社とは、元々そのようなものですし、神宮の125社も、多くは歴代神宮神官それぞれの勢力分布図みたいなものらしいですから…

 

 

 

 

こちらは向かって右の朝熊神社。

 

 

 


こちらは向かって左の朝熊御前神社。

 

 

 

 

もしかして、Wでパワー倍増!ってことかな〜、などとバカなことを考えたりしている私の後ろから、お日さまがジッとご覧になっていました(苦笑)

 

 

 

 

ということで、謎はまったく解けませんけれど、次の鏡宮神社へと向かいます。

 

 

 

 

これは、鏡宮神社へと回り道しないで行き来できるよう、朝熊川に掛けられた人専用の橋。
朝陽に照らされながら、対岸に渡りました。

 

 

 

(つづく)




 

~いつも応援ありがとうございます~

鏡宮神社の聖なる双鏡へと神は降臨する〜2016冬至伊勢行(9)

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五穀と水を守る朝熊神社と朝熊御前神社〜2016冬至伊勢行(8)←(承前)

 

 

 

 

朝熊川の上を渡っていきます。

 

時刻は08:45ごろ。

まだまだ朝陽が降り注いでいました。

 

 

ちなみにこの橋、何という名前なのか調べてみましたら、「朝熊橋(歩道橋)」とのこと。

川を渡らないと朝熊神社、朝熊御前神社へは行けない。現在は神宮司廳が発注して建設した朝熊橋(歩道橋)があるから歩いて行けるが橋が架かる前は舟で渡っていたのだろう。神職が祭典で行き来するにも大変だったろう!

 神宮巡々/鏡宮神社、朝熊神社ほか

 

 

 

 

朝熊橋の上から、五十鈴川の方を望みます。

 

右が先にお参りした朝熊神社の杜、左が今からお参りする鏡宮神社の杜。

足元を向こうへ流れる朝熊川は、この先に見えている五十鈴川へと合流しています。

 

 

 

 

同じ場所から、今度は後ろを向いて朝熊川の上流方面。

太陽の下に、霞んで聳えている遠くの大きな山が朝熊山です。

 

 

 

 

橋を渡ると、川に沿って農耕地をグルリと巡る幅広い地道に出ます。

おそらくこの道は、その農耕地を川の氾濫から守る堤防の役割もあるのかと思われます。

 

 

航空写真で見ると、一帯はこんな↓感じの地形。

 

 

 

 

その道を右手にほんの少し進むと、鏡宮神社への入口があります。

堤防から降りる感じで石段を下ると、参道は社殿へ向け真っ直ぐに続いています

 

 

 

 

鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ) 皇大神宮末社 

祭神:岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)

 

祭神は朝熊神社の御前神、岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭する。域内の右手奥(東北)に大きな岩があり、この岩の上に二面の神鏡がまつられていたと伝えられる。木柵を設け神聖視されている。五十鈴川と朝熊川の合流点の三角州にあり、三方を川に囲まれた風光明媚な神社である。 

 お伊勢さん125社まいり/五十鈴川めぐり/鏡宮神社

 

社名「鏡宮」は元来、朝熊神社の異称の1つであった。朝熊神社で白と銅の2面の鏡を奉安していたことに由来する名で、寛文3年(1663年)に朝熊神社の御前社として鏡宮神社が再興された。

 Wikipedia/鏡宮神社_(伊勢市)

 

 

この「朝熊神社で白と銅の2面の鏡を奉安していた」とある朝熊神社の2面の鏡とは、上で「岩の上に二面の神鏡がまつられていた」と説明される鏡宮神社の二面の神鏡と、同じ鏡なんでしょうね。

だとすれば、鏡宮神社の岩上で祀られた二面の鏡に神が憑依し、それをそのままご神体として朝熊神社に奉安した、と考えられます。

 

そして、鏡がなぜ2面なのかということへ思いを馳せれば、ひとつに、五十鈴川と朝熊川という2つの聖なる川、ということがあるかも知れません。

 

また、鏡が2面ということは、これはそのまま合わせ鏡として存在しますから、互いに互いを写し合うことで、そこへ無限の豊穣を生み出すこととなります。

 

さらに、「五十鈴」という語感からイメージされるのは女性、「朝熊」からイメージされるのは男性、かと思われます。

そうすると、「朝熊は浅隅であり、隅は水の曲がり入った所という意」ということもあり、この地は本流である五十鈴川へと朝熊川が曲がり入っていますので、それはまさに男女交合をも象徴していることになります。

 

つまり、2つの聖なる川の合流=交合とは大地豊穣の産出を現しており、のみならずこれらの川はひとつとなって伊勢湾へと至り、海産をも育むことになるわけですから、この地における2という数字には、大きな意味が込められていると思われます。

 

ということで、朝熊神社と朝熊御前神社とが瓜二つで二社並んでいることの意味も、もしかしたら「2面の鏡」ということを、その姿で表しているのかも知れませんね。

 

 

 

 

社殿の背後には、河口の近くとなりその流量を増している五十鈴川が流れています。

 

 

 

 

社殿への参拝が完了すると、今度は「域内の右手奥(東北)に」鎮座する「大きな岩」こと「虎石」へと向かいます。

 

 

 

 

正面から右手の奥に進みます。

この突き当たりに見えている境内の端から、川辺へと降りる石段が組まれています。

 

 

 

 

ここが降り口。

 

初めてここへ来た時、まったく予習をしていませんでしたので、境内をウロウロしていたらこの降り口を発見してしまい、恐る恐る降りてみたことが思い出されます(苦笑)

 

 

 

 

ギリギリ端に立って、石段を上から見ています。

下まで降りた砂地の左側に、「虎石」を囲む柵が見えています。

 

 

 

 

水辺の「虎石」。

ただ、どうしてこの岩が「虎石」と呼ばれるのか、今のところ私は知らないままですが…orz

 

ともあれ、おそらくここは、かつて自然にできた三角州の先端で、いま社殿の建つ境内地は、社殿を作る際にその三角州上へ盛り土して造成されたのではないかと思われます。

 

もしそうならば、太古の時代、この三角州に元から存在したのか、他から持って来られたのかは分かりませんけれど、この「虎石」が、五十鈴川と朝熊川によって成された三角州の先端に屹立し、鏡とともに神の依り代として祀られたのではないでしょうか。

 

そうすると、鏡宮神社の元々は、今は境内地の土台となっている三角州そのものであり、2つの聖なる川によって自然に形成されたその三角州そのままを祭祀場としていたのではないか、と思われます。

 

しかしそうなりますと、気候の変動や天候の具合によって祭祀は思うように催行されづらくなり、三角州も川の流れや潮の加減で時に水没したり消滅したりもしたでしょうから、次第に神社として廃れてしまい、1663年の再興時にようやく盛り土を行って、今に至ることになったのかも知れません。

 

 

 

 

「虎石」の前から、朝熊川を挟んた対岸の朝熊神社と朝熊御前神社が鎮座する小山を望みます。

その頂上に建つ送電鉄塔を見る度に、少し痛々しく思ってしまいますけれど…

 

 

 

 

これは「虎石」の前から見た朝熊川の上流方向。

水がほとんど流れていませんから、ちょうど海が満潮の頃だったようです。

 

 

 

 

石段に立つサチエを、朝熊川とともに記念撮影。

向こうに見えている橋が、先ほど歩いて渡ってきた朝熊橋です。

 

 

 

 

境内へと戻り、再訪を期して別れのご挨拶を。

 

 

 

 

立ち止まるサチエ。

何となく、離れがたい気持ちのようでした。

 

 

 

 

サチエがなかなか前に進みません。

ボンヤリと空を仰ぎ見ている模様。

 

 

 

 

ようやく参道の石段を上がって境内を出ました。

振り返って一揖します。

 

 

 

 

朝陽と朝熊山。

目の前には、朝熊平野が広がっています。

 

この右手向こうには、広さ約99,000平方メートルの神宮神田もあります。

 

 

 

 

朝熊橋へ向かう途中、サチエが立ち止まり、何かを撮ろうとしています。

 

 

 

 

ググッとかがみ込んで、これはセイタカアワダチソウ、かな?

 

 

 

 

多分、そのようですが…

 

 

 

 

まだ撮ってます(苦笑)

 

 

 

 

これは、ススキですね。

 

 

 

 

朝陽と朝熊山、そして朝熊川。

 

朝熊山へは未だ登ったことがありませんので、いずれこの朝熊川を遡行して、登拝してみたいと思います。

 

 

 

 

朝熊橋を渡っていると、サチエがいないのに気付いて振り返ると、向こう岸に留まったまま、こちらを撮っていました。

 

 

 

 

スマホを構えたサチエをトリミングでアップ。

 

 

 

 

サチエの撮った写真は、こんな感じ。

 

 

 

 

そして、この地を去る際にもう一枚、五十鈴川と朝熊川の交合写真を…(笑)

 

 

 

(つづく)




 

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参宮街道に馬を返して食す名物へんば餅〜2016冬至伊勢行(10)

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鏡宮神社の聖なる双鏡へと神は降臨する〜2016冬至伊勢行(9)←(承前)

 

 

 

 

へんばや商店本店。

 

伊勢に数多ある名物餅の中でも、おそらくトップ3に入ると私たちが勝手に思っているのが、今回ご紹介するへんばや商店の「へんば餅」です。

 

 

 へんばや商店/名物 へんば餅

 

本店は伊勢市小俣町明野、宮川店は伊勢市西豊浜町にある。餅は丸く平らに潰した形で、両面に焼き色があり、餅の中に漉し餡が入っており、餅は独特の食感である。

 Wikipedia/へんば餅

 

 

まあ、トップ3とか言いながら、実のところ昔ながらの本店にて頂いた名物餅が、今までに「赤福」と「二軒茶屋餅」しかありませんので、少なくとも私たちにとってのトップ3、ということでは間違いありません(笑)

 

2013夏至伊勢行【後編】

 

 

これらトップ3の比較については、↓こちらもご参照ください。

開運!インド風水を使って運気を上げるサイト/サミット伊勢志摩 ぜひ食べたい 開運 名物餅

 

 

 

 

昔ながらの風情を残した本店の佇まい。

この時、朝の09:30ごろですが、開店は08:00からなので助かりました。

 

へんばや商店/名物 へんば餅/店舗案内

 

 

ここへ来ることになったキッカケは、たまたまTVで「へんば餅」が紹介されているのを見ていたら、サチエが珍しく「食べてみたいニャ〜」とつぶやいたことです。

 

普段あまりお菓子類に興味を持たない二人なんですが、その番組で見た店の様子が、赤福本店や二軒茶屋餅に負けず劣らず渋い感じで、私もいたく気を引かれました。

 

そのお陰で、いつか行ってみたいと思いながら少し離れた位置にあるため訪れることのなかった斎宮跡方面へ、初めて足を運ぶこととなりましたから有り難いことです。

 

 

 

 

店内、右が販売所。

奥へとコの字になった小上がりで、お茶とお餅を頂くことができます。

 

ここで頂けるメニューは、こんな感じ。

へんば餅・1皿2個入160円

・・・・・・・5個入400円

 

さわ餅・・・・5個入 700円

・・・・・1皿2個入 280円

 

赤飯弁当・・・・・・・450円

黒砂糖餅・・・・・・・450円

 

私が事前にこのお店を調べている際、この中で最も気になったのは赤飯弁当でした。

それは、赤飯をお店で食べられるなら、お餅屋さんでちゃんとした食事を取れる、ということになるからです。

 

伊勢ではいつも、日中は参拝の進行で一杯一杯になって時間に余裕がほとんどなく、車移動で駐車場も必要になるため、昼食を上手く取ることが難しく思っていました。

もちろん、コンビニやファストフードで済ませれば簡単ですけれど、それは折角の伊勢で避けたい所ですし、かといって伊勢うどんは、あえてもう…

 

ということで、へんば餅もさることながら、私にとって赤飯は重要なターゲットとなりました(笑)

 

 

 

 

注文はまず「へんば餅」、そして店員さんに他のオススメを尋ねてみたら「さわ餅」ということでしたので、それらを1皿2個入で。

赤飯弁当も、ここで頂けることを確かめてからお願いし、奥へと進みます。

 

 

 

 

小上がりの正面に置かれているのは、三宝荒神と名付けられた馬の鞍(くら)です。

 

 

 

 

三宝荒神(さんぽうこうじん)

 

参宮街道で用いられた独特の乗り物で、

馬の鞍の上に一人がのり両側の格子枠(こうしわく)には

子供や荷物をのせるように工夫したもので、

馬には鈴やかざりをつけて参宮客を運んだといわれます。

 

この三宝荒神を使う様子の分かる絵が、へんばや商店の包装紙や説明書にあるようですけれど、私たちはお土産を買って帰りませんでしたので、↓こちらをご参照くださいませ。

 

 おいしいなごや/伊勢神宮おはらい町の名物へんば餅をおみやげにどうぞ

 

 

 

 

へんば餅由来

 

今を去る二百四余年前安永四年(一七七五年)に私より九代前の先祖が、

参宮街道宮川のほとりで茶店を設け餅をひさぎ始めました。

当時駕籠(かご)や三宝荒神(さんぽうこうじん)(馬上に三つの鞍を置いたもの)で参宮する人達がこの店に憩はれて、

ここから馬を返し参宮せられたため何時しかへんば(返馬)餅と名づけられました。

美味とは申しませんが、風情ある田舎の名物としてご賞味願い上げます。

へんばや 主人敬白

 

この「美味とは申しませんが」というのが、奥ゆかしくてイイですね。

もちろん、とて美味しいですから〜

 

伊勢参宮街道の最終宿場町「小俣」

 

へんばや商店本店がある伊勢市小俣町は伊勢志摩の入り口の町、清流「宮川」を挟んで伊勢と接し、旧参宮街道に沿いながら伊勢参宮街道の最終宿場町として知られてきました。

(中略)

当地は、古くから伊勢神宮とのかかわりが非常に深く、今から約1200年前には伊勢神宮領として離宮院がおかれ、伊勢地域の政治・文化・交通の中心地であったと考えられています。

 へんばや商店/名物 へんば餅/へんば餅の歴史

 

 

 

 

興味深げに店内を眺めながら、名物餅の到来を待つサチエ。

 

 

 

 

そうしてほどなく、お盆に乗った品々がお茶とともに登場しました〜

サチエが小食なため、私たちにとってはこれで二人前です(苦笑)

 

真ん中にへんば餅、右は冷やされて袋に入ったままのさわ餅。

さわ餅は、四角に切ったのし餅に餡を挟んだもので、白とよもぎの2種類あります。

 

左の赤飯弁当には、これも商品として売られている昆布佃煮が付いていますから、それによって弁当ということですね。

ほんのり温かくボリュームもあって、とても美味しく頂けました。

 

 

 

 

満腹になってくつろぐサチエ。

三宝荒神と記念撮影です。

 

 

 

 

季節の花、白い水仙が生けられていました。

ホッコリとする空間です。

 

 

こうして、ようやく満足たっぷりの腹ごしらえもできましたので、次は斎宮跡に建つ斎宮歴史博物館へと向かいます。

 

 

 

(つづく)




 

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館1〜2016冬至伊勢行(11)

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参宮街道に馬を返して食す名物へんば餅〜2016冬至伊勢行(10)←(承前)

 

 

 

 

広い駐車場から、石段を上がって三重県立斎宮歴史博物館の入口へと向かいます。

 

斎宮歴史博物館ホームページ

 

斎宮歴史博物館(さいくうれきしはくぶつかん)は、三重県多気郡明和町竹川にある斎宮遺跡(国の史跡)に設置されている三重県立の博物館である。テーマ博物館であると同時に、埋蔵文化財センターとしての機能を有する。

 

開館までの経緯

伊勢斎宮の遺跡は、南北朝期以降荒廃し、その遺跡も不明だったが、1970年(昭和45年)頃からの宅地造成に伴い、三重県多気郡明和町古里地区に斎宮遺跡の存在することが明らかとなり、1979年(昭和54年)には史跡指定を受けた。

(中略)

博物館予定地自体が遺跡であるため、慎重な発掘調査を経て、1988年(昭和63年)1月に起工、1989年4月より業務を開始し、10月に開館した。

Wikipedia/斎宮歴史博物館

 

 

そして斎宮(さいくう)とは、このようなことです。

 

斎宮と斎王 さいくうとさいおう

 斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。

  古くは、伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命(やまとひめのみこと)など伝承的な斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。

  制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています。

斎宮歴史博物館/斎宮とは?

 

 

 

 

博物館の正面に鎮座する塚山2号墳。

 

この博物館が建っている一帯は、斎宮以前の古墳時代に小さな古墳が群集して造られた地域で、塚山古墳群と呼ばれているそうです。

 

斎宮にも古墳があるの?

史跡北西部にあたる古里・塚山地区には5世紀後半から7世紀にかけて築造された塚山古墳群が所在し、現在47基の古墳が確認されています。斎宮歴史博物館の西側にある1号墳と正面にある2号墳は、昭和62年(1987年)、博物館の建設に先立って古墳の規模や形状・築造時期を確認するための調査が行われ、1号墳は直径21メートルの円墳、2号墳は一辺18メートルの方墳で幅約5メートル、深さ約1メートルの周溝が四方を巡っていたことがわかりました。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

斎宮のあったこの地は、遠く北西の果てに平城宮と平安宮を望み、神宮からそれら都へと向かう方角に直線で15kmほどの距離となります。

史跡斎宮跡東部整備基本計画書 平成22年3月 三重県生活・文化部/表紙 赤色はマルデン


 

そして、斎宮から離宮を経由し、外宮正宮を経て内宮正宮へと至る徒歩でのルート↓。

 

まあ、これはあくまで現在の道路に沿ってのものですけれど、17kmほどになりますから、普通の人が休みなくスタスタと歩いても4時間ちょっと、輿に斎王を乗せ行列を組んでゆっくり行進したとしたら、正味で8〜10時間はかかるでしょうから、一日で斎宮から神宮へ辿り着くのは無理だったようです。

 

そのため斎宮と神宮の中間地点に離宮院(りきゅういん)を建立し、斎王の神宮参詣における宿泊施設としたそうですが、やがてその離宮へと斎宮本体が移された時期もあったとのこと。

 

離宮院(りきゅういん)

度会郡にあった斎宮の離宮のこと。本来は斎王が伊勢神宮に参詣する際に宿泊場所として利用した施設であるが、神宮の事務を司る太神宮司や、神宮への天皇の使が利用する勅使房なども同じ所に置かれていた。斎宮と内宮のほぼ中間に立地し、天長元年(824年)には斎宮本体がここに移され、承和6年(839年)に火災により多気郡に戻るまで、ここに斎宮があった。現在のJR宮川駅南側一帯がその遺跡で、八脚門跡が確認されている。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

斎王のつとめ

 斎王が伊勢神宮へ赴くのは、6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭の3回に限られていました。これを三節祭と呼び、外宮では15・16日、内宮では16・17日に行われます。

 斎王はその前月の晦日に祓川や尾野湊(大淀浜)で禊を行い、15日に斎宮を出て離宮院に入ります。翌16日には外宮、17日には内宮に赴き、まつりに奉祀して、18日に再び斎宮に帰るのです。

 

斎王参宮の行程(神嘗祭の場合)

斎宮歴史博物館/斎宮とは?/斎宮の日々

 

 

けれど、わざわざ都から遙か遠い伊勢へと斎王を神宮に仕えさせるため派遣しているにもかかわらず、これほどまで参詣に不便な地へ、なぜ斎宮を建てたのでしょう?

 

どうしてこの場所(現明和町)に斎宮が置かれたの?

どうしてかは、歴史史料に記されてはいません。現在の斎宮は、伊勢神宮の勢力範囲「神郡」の西端に位置します。そして、奈良時代の官道に接して設けられています。ですので、伊勢神宮へ三節祭のため向かう際、神郡内をより長く行列してその斎王あるいは天皇の威儀を示したのではないかと推定されています。もしくは、伊勢神宮のすぐ近くでは、神宮側の反発が大きく、そこで神郡の端に設けられたのではないかとも考えられます。いずれも、仮説に過ぎません。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

もしかしたら、上のQ&Aにある「神宮側の反発が大きく」ということから考えてみますと、そもそも神宮の神官たちは、いずれも地元伊勢の有力豪族となりますから、その本来の祭神であったサルタヒコなどを否応なくアマテラスへと変えさせられ祭祀を行っていたと思われますので、当時はいつ中央政権へ謀反を起こすか分からない存在だったと思います。

 

そうだとすれば、そのような獅子身中の虫ともなりうる者らの掌中となる神宮至近に斎宮を建てたとしたら、いついかなる時に斎宮が地元豪速に蹂躙やら籠絡されるか分かりせんから、あえて少し離れた地に斎王をお目付役として立てたのかも知れません。

 

またその上で、今度は遠くの他国から、まつろわぬ勢力が伊勢へと攻め入った場合、内宮に祀っている八咫鏡など万一にも奪われたりすると大変なことですから、武官に守られた斎宮を神宮より少し離れた伊勢の入口といえる地に、その防波堤として設けておくことも必要だったかと考えられます。

 

またもちろん、斎宮の地はいわゆる「太陽の道」東端となりますので、そのような意味でも、ここが重要な要衝として意識されたこともあろうかと思われます。

古代探訪/伊勢斎宮

 

まあ、これらは単なる思いつきでしかありませんけれど、まだまだ国情の安定しない時代のことですから、色々な思惑があったのではないでしょうか。

 

 

 

整備計画地位置図

斎宮歴史博物館/今回の史跡整備計画の概要

 

これは史跡斎宮跡の全体図となります。

様々に整備が進められ、見どころも多いようですが、今回は時間の都合で歴史博物館しか行けなかったため、次の機会にリベンジを期したいと思います(泣)

 

 

 

明和町観光サイト/日本遺産認定「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」パンフレット

 

また、斎宮跡のある明和町では、「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が文化庁「日本遺産」として認定されており、斎宮にまつわる文化財群が総合的に整備されています。

 

↑は、そのパンフレットにある「日本遺産 構成文化財マップ」です。

斎宮跡のみならず、興味深い場所が多いですから、↓でご紹介いたしますと、

 

 

 

文化庁/これまでに認定された「日本遺産(Japan Heritage)」/祈る皇女斎王のみやこ 斎宮

 

 

ということなんですが、これを見て、アレ? と思うことがありました。

 

それは、この後で私たちが向かう、ここから近くの内宮所管社である神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)と神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)が一覧に入っていないことです。

 

上のGoogleMap「斎宮と神宮」でも、地図の左上にこれら2社をオレンジ色でマークしていますけれど、斎宮跡から本当に近いですし、そもそも斎宮との関係にはとても重要な意味がありますから、いくらなんでも変だな〜、あり得ないよね〜と思っていたら、理由が分かりました。

 

この日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」とは、あくまでも明和町が申請したもので、神麻続機殿神社と神服織機殿神社の所在地は、残念ながら惜しくも明和町の外、西側に隣接した松阪市だったんです。orz

 

その2社、僅かほんのチョットだけ境界線から西へ外れているだけですから、いっそのこと明和町と松阪市は協力し、ひとつの日本遺産とできなかったんでしょうか、ねぇ…

 

まさに、画龍点睛を欠く、というような構成となっていることが残念です。

 

 

 

 

博物館の正面、ここが入口。
 

このように↓、一般の観覧者はエントランスホールから受付前を通って展示ホールへと入り、展示室Ⅰ・展示室Ⅱ・映像展示室を巡ります。

 

斎宮歴史博物館/施設概要/平面図

 

 

 

 

『斎王』中村麻美氏寄贈

 

 

 

 

須恵器(すえき) 瓦鉢(がはつ) 奈良時代(8世紀)後半

 

須恵器(すえき)

古墳時代に朝鮮半島を経由してわが国にもたらされた、窖窯(あながま)で焼成された無釉の焼き物。高火度の還元炎で焼成されるため、青灰色から白色を呈する。斎宮跡には愛知県猿投窯産、岐阜県美濃須衛窯産のものが多量に出土する。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

 

 

 

女房?女官?人形

 

調べても、この人形のハッキリとした名が分かりません。

 

 

 

 

やはりこれをやらずにはおられないサチエ(笑)

 

 

 

 

蹄脚硯(ていきゃくけん)奈良時代

 

この蹄脚硯が、斎宮の存在を確たるものにした最初の物証だそうです。

幻の宮とされた斎宮への扉を開く、これが最初の鍵になったということですね。

 

斎宮の発掘調査はいつから始まったの?

史跡斎宮跡の西部にあたる斎宮歴史博物館の敷地及び南部のふるさと広場一帯はかつて古里遺跡と呼ばれていました。そこに団地開発計画がもちあがり、昭和45年(1970年)、事前の遺跡範囲確認調査を行ったところ、試掘坑のすべてで中世の遺構・遺物のほかに奈良時代の堀や竪穴住居、土器なども確認されました。そこで翌年、面的な発掘調査が実施され、奈良時代の大溝(おおみぞ)、土坑、掘立柱建物や蹄脚硯(ていきゃくけん)、大型朱彩土馬が確認されました。特に蹄脚硯は、当時平城宮跡や大宰府でしか見つかっておらず、斎宮の存在を確たるものにした最初の物証となりました。というわけで古里遺跡も斎宮の一部であったということがわかり、発掘調査で最初にメスが入った昭和45年の範囲確認調査を斎宮の第1次調査としています。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

ここまでがエントランスホールの展示で、次の展示ホールではこの斎宮歴史博物館を象徴する「祈る斎王像」があった筈なんですが、全く気づかないまま通り過ぎてしまったため、その写真がありません(号泣)

 

ということで、次回は見落とさないことを固く心に誓い、ここに謹んで引用させて頂きます…

斎宮歴史博物館/斎宮とは?

 

 

またこのホールには、他に蹄脚硯と並ぶ代表的な出土遺物の朱彩大型土馬もあったそうですが、これもまた見落としていましたので、残念無念です。

その写真は博物館ホームページにも記載されていないため、何らご紹介できず申し訳ございません。

 

 

 

 

ここから展示室Ⅰへと入りました。

 

葱華輦(そうかれん)

葱華輦(そうかれん)

人力によって運行する輦輿という乗物の一種で、天皇が神事や臨時の行幸に用いる輿で、天皇以外では、東宮や皇后、斎王も乗用が許されていた。屋上の葱坊主方形の吉祥飾りから葱華輦と呼ばれる。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集


 

 

 

武官人形

 

 

 

 

童女人形

 

 

 

 

童男人形

 

 

 

 

「歴代斎王プロフィール」

 

 

 

 

斎王が神宮の三節祭で行う祈りの様子を復元したマジックビジョン

 

この神宮の模型の中で、斎王が祈りの所作を行う姿を3Dで再現するそうです。

残念ながらこの時、私たちにはそれを見る余裕がなかったため、これも次の機会のお楽しみとなりました。

 

 

 

 

(左から) 鉄人形 人面墨書土器 土馬

 

これらはどれも、宮域内での祭祀に使われた道具のようです。

 

寮内でのまつり

 斎宮では、斎王自身が清らかであることはもちろん、寮の官人および寮内各所が常に清浄であることが求められ、都に準じた様々なまつりや年中行事が行われました。

 宮域内各所から土馬(素焼きの馬)や人面墨書土器(人の顔を墨で描いた土器)、ミニチュア土器など、まつりに用いられたと考えられる遺物が出土しています。

斎宮歴史博物館/斎宮とは?/斎宮の日々

 

土馬(どば)

土馬は古墳時代から奈良時代を中心に祭祀に用いられたと考えられている。形態はさまざまあるが、大まかには馬具を粘土紐などで表現した飾り馬から簡素な裸馬へと変化していくようである。土馬は馬の形代として、雨乞いなど水に関わる祭祀に用いられたと考えられ、溝や井戸など水に関わる遺構からの出土例が少なくない。また、疫神の乗り物にみたてて、これを破壊することで疫神の到来を防ごうとしたとする説もある。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

 

 

 

(左から) 白黒玉石(平安時代) 記号を線刻した土器(奈良時代)

 

これらも祭祀に使われた道具なんだと思われます。

けれど今、詳しい資料もスグには見当たらず、展示を見ていた際の記憶が完全に失われているので、スミマセン。

 

 

 

 

小型模造品(奈良〜平安時代)

 

そしてこれらも、祭祀道具かと思われます…

 

 

 

(つづく)




 

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館2〜2016冬至伊勢行(12)

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館1〜2016冬至伊勢行(11)←(承前)

 

 

 

 

「斎王の卜定」

 

卜定(ぼくじょう)

斎王を占いにより選ぶこと。斎王は、天皇の即位後、未婚の内親王(いなければ女王)から選ばれ、神祇官によって、その合否を卜い定められた。その卜いは亀卜と呼ばれ、亀の甲羅を焼き、その割れ具合によって判断したとされる。斎王卜定の初見は、天武2年(673)年4月己巳、大来皇女の卜定。なお、その儀式次第は『北山抄』『西宮記』に詳しいが、これらの儀式書では斎王決定後に斎王家で執り行われる神事なども卜定として扱っている。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

 

 

 

卜甲(ぼっこう)、卜骨(ぼっこつ)

 

 

 

 

「斎王卜定から野宮まで」

 

野宮(ののみや)

9世紀、斎王が伊勢に下る前に一年ほど暮らす仮の宮をいう。8世紀以来、伊勢に下る前に斎王は隔離されていましたが、その宮が「野宮」と呼ばれるようになったのは、場所が嵯峨野に定着してきた9世紀後半のことのようである。黒木の謡曲現在、その遺跡は確認されていないが、野宮神社、斎宮神社など数カ所の神社が伝承地として知られていて、野宮神社周辺では10月に斎王行列も出る。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

 

 

 

「発遣の儀」「江家次第」

 

発遣の儀(はっけんのぎ)

斎王が野宮での潔斎生活を終え、都を出発する時に宮中で行われた儀式。天皇は、この儀式の中で斎王に別れの御櫛を授けた。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

江家次第(ごうけしだい)は、平安時代後期の有職故実書。著者は大江匡房。全21巻(現存は19巻)。この時代の朝儀の集大成として評価が高い。

Wikipedia/江家次第

 

 

 

 

「別れのお櫛」

 

別れの御櫛(わかれのおぐし)

斎王は都から伊勢に赴任するにあたり、大極殿にて出立の儀式「発遣の儀」に臨んだ。

天皇は大極殿中央の御座所から平座に降り、参入してきた斎王を御前に呼び寄せて、手ずから斎王の額髪に黄楊の櫛を挿す。これが「別れのお櫛」と呼ばれるもので、この時「都のかたにおもむきたもうな」と別れのことばを告げる。この時斎王は振り返ってはならない決まりだったようである。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

 

 

 

(くし)と櫛箱(くしばこ)

 

 

 

 

群行 都を出る斎王

 

行列の前方から。

先に見た葱華輦に乗って、斎王は伊勢へと出立します。

 

 

 

 

群行の行列、横から。

 

 

 

 

「都を出る斎王」

 

青い地色の部分が、上の模型で再現されているようです。

 

 

 

 

餌袋(えぶくろ)(「斎王群行」小道具)

 

「斎王群行」の映像で出てくる金の菓子が入った銀の餌袋について詳しく教えて。お菓子の中身は?

これは原資料『春記』に、「銀の餌袋(えぶくろ)に金の菓子を入れた物」として出てくる物を再現したものです。餌袋とは本来、鷹狩に使う鷹の餌を入れるために鷹飼が腰につけた袋です。斎王は鷹狩はしないでしょうから、形を真似た銀の細工物と考えられます。とすれば金菓子も細工ものと思われます。この時代に菓子、というと普通は果物なので、金の果物の、ということで、熟した橘(ミカン)をイメージしました。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

都から斎宮への群行路と、斎宮から都への帰京路を示すジオラマ。

上が群行路で下が帰京路です。

 

群行・帰京の路

 発遣の儀式を終えると斎王は葱華輦(そうかれん)という輿に乗り、伊勢へと旅立ちます。群行(ぐんこう)と呼ばれるこの旅は、斎王に仕える官人・官女に加え、京極まで見送る勅使など500人を越える壮麗なものでした。

 一行は、近江国の勢多(せた)・甲賀(こうか)・垂水(たるみ)、伊勢国の鈴鹿(すずか)・一志(いちし)に設けられた仮設の宮、頓宮(とんぐう)に宿泊し、5泊6日の行程で伊勢に赴きました。途中6ヶ所の堺川での禊など、様々なきまりのある旅でした。

 斎王がその任を解かれるのは、天皇の譲位・崩御、斎王の病、肉親の不幸などの場合に限られていました。そのため、天皇一代に斎王一人が原則でした。解任された斎王の帰京時は、天皇譲位の場合は往路と同じ鈴鹿峠・近江路を通りました。しかし不幸な理由(凶事)の場合は、伊賀・大和路を通るきまりでした。いずれの場合も難波津(大阪湾)で禊を行った後、密かに入京しました。

斎宮歴史博物館/斎宮とは?

 

 なぜ、群行と帰京のルートが異なるの?

平安時代の斎王の群行ルートは京のある山城国から、近江国を通って伊勢国に入るというものでしたが、帰京の際には、天皇の交替の時には同じく近江路を通り、天皇が亡くなったり、斎王の身辺に不幸があった際には、伊賀、大和を経るルートを取っていました。このルートだと平城京の跡を通過することになります。凶事の際には、奈良時代以来の伝統ある路を、より格式を保って帰京することが望まれたのではないでしょうか。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

「斎宮寮の組織」

 

斎宮寮(さいくうりょう)

斎王が伊勢在任中おかれた令外の官。『続日本紀』の大宝元年(701年)には「斎宮司」が「寮」に準じると見える。また、大宝2年(702年)には「斎宮頭」補任のことが、養老2年(718年)には斎宮寮の公文書にはじめて公印を使用したことが見え、律令体制が確立された時期には設置されていたと考えられる。本局の下に、司と呼ばれる下部組織が13あり、『延喜式』によれば、職員数は総計510人を数え、独自の財政基盤を持つ、地方に存在する官司としては、大宰府と並ぶ大官司である。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

 

 

 

(左から) 斎宮寮印 墨書土器「寮□」

 

この斎宮寮印が、上の斎宮関連用語集にある「養老2年(718年)には斎宮寮の公文書にはじめて公印を使用した」という公印、なのでしょうか?

 

 

 

 

「斎宮寮組織図」

 

これでは役職名が読めないと思いますので、下に斎宮歴史博物館ホームページから引用させて頂きます。

 

斎宮寮 さいくうりょう

 斎宮寮は、斎王に仕えるため、斎王が群行するたびに置かれた臨時の役所です。

 事務を総括する斎宮寮を中心に、神事を司る主神司、財政・食事・警備・医療などの特定の役割を担う13の司で構成されます。寮の官人たちは、都から斎王に伴ってきた人々を含め500人余りから成り、地方の国府などよりはるかに大きな組織でした。また、斎王の身の回りの世話をする女官が多いのも特徴で、命婦(みょうぶ)や乳母の他、女孺(にょじゅ)たちがいました。

 文献史料によると、斎宮は、斎王の住む内院、斎宮寮頭(長官)が執務する中院、その他の寮の建物がある外院の3区画に分かれていました。そのうち内院と中院は檜皮葺き、外院は萱葺きや板葺きで、寮のまわりには大垣と溝が巡り、松や柳が列植されていたようです。

 斎宮は、平安時代前期の15年間、度会郡の離宮院(現伊勢市小俣町JR宮川駅付近)に移った時期を除いて、南北朝時代に廃絶するまでこの地に置かれました。

斎宮歴史博物館/斎宮の様子/斎宮寮 さいくうりょう

 

 

 

 

官司名を書いた墨書土器(奈良〜平安時代) 

(左から) 墨書土器「薬」 墨書土器「蔵長」 墨書土器「酒」

 

「薬」は薬部司(くすりのつかさ)、「蔵長」は蔵部司(くらのつかさ)長官、「酒」は酒部司(さけのつかさ)、それぞれの備品ということでしょうか?

 

 

 

 

(左から) 墨書土器「驛」 ヘラ書き土器「殿」 墨書土器「少允殿」 墨書土器「膳」 ヘラ書き土器「水司鴨」

 

「驛」の字は組織図にありませんが、意味は「馬屋」ということですから、馬部司(うまのつかさ)でしょうか?

「殿」は殿部司(とのもりのつかさ)、「少允殿」は少允(しょうじょう)の家?、「膳」は膳部司(かしわでのつかさ)、「水司鴨」は水部司(もひとりのつかさ)の鴨ってことかな?

 

 

 

 

「斎宮寮の財政」

 

 斎宮の財源は?

斎宮の財政は、奈良時代の天平2年(730年)、神宮の財政から自立します。『延喜式』からそのあり方をみると、斎宮寮の財源は、調・庸などの税物で、主に東海道・東山道18か国から貢納されていました。また、伊勢国内にあった供田・外供田や墾田からの稲・地子稲も寮に納められました。蔵部の管理のもとで、祭祀の経費、人件費、物品費などに使用されました。この仕組みは、中央財政を圧縮した「ミニチュア版」ともいうべきものでした。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

「美濃」施印須恵器(「みの」せいんすえき)平安時代 「美濃」印(「みの」いん)奈良時代.

 

斎宮で使用された品々

 祭祀に必要な品々、斎王の身の回りに必要な品々、斎宮寮の維持に必要な品々は諸国や伊勢国内から税として集められました。これらの中には、発掘調査により出土したものもあります。

 美濃国で焼かれ、斎宮寮に納められた「美濃」施印土器などはその例です。その他にも、土師器・緑釉陶器・灰釉陶器をはじめとする種々の土器、役所の事務運営に欠かせない硯、官人が正装の際に帯びた石帯(ベルト)に付けられていた飾り石、役所名の記された墨書土器など、さまざまな資料が出土しています。

斎宮歴史博物館/斎宮の様子

 

 

 

 

「王朝の暮らし」

(左から) 唐櫃(からびつ) 唐櫛笥(からくしげ) 角盥(つのだらい)

 

 

 

 

原寸大の斎王居室復元模型(十二単姿の斎王と命婦の人形や調度)

 

左が命婦(みょうぶ)で、右奥が斎王。

 

命婦(みょうぶ)

一般には従五位下以上の位階の後宮女官のこと。斎宮においては、斎王の秘書的な役割を果たし、他の女官たちの管理を担っていたと考えられている。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

そして命婦の向こう、斎王の横にある四角いテントみたいなのは御帳台(みちょうだい)。

ここが斎王の寝所、ということです。

帳台(ちょうだい)とは、平安時代に貴人の座所や寝所として屋内に置かれた調度のこと。御帳台(みちょうだい)、また御帳(みちょう)ともいう。

Wikipedia/帳台

 

最初、これが斎王の寝所とは知らないまま、誰か他の貴人のための座所かなと考え、けれど斎王より格上といえば天皇しかいませんし、天皇は明治まで伊勢へ参詣していませんから、この御帳台は誰のためのものなのか? などと思っていました(苦笑)

 

 

 

 

斎王人形

 

ほとんど白い着物なので分かり辛いですけれど、これも十二単。

 

 

 

 

命婦(内侍)人形

 

こちらは色違いの着物を重ねた、まさに十二単姿です。

裾が後ろに広げられていますけど、長いですね。

 

 

 

 

斎王御殿復元模型

 

中央の居室で、畳の上に立てられた几帳の後ろにある座布団が、上の原寸大斎王居室復元模型で斎王が座っている所になると思います。

 

 

 

 

斎王御殿復元模型の説明書

 

 

 

 

正月の食事(歯固)

 

歯固め

一般には元日に歯の根を固めて一年中健康であることを祈念して固い食物を食べる行事。くり,かや,大根,串柿,かぶ,するめ,昆布など,地方によってさまざまであるが,平安時代から「歯固めの具」として,長寿を祝って大根,獣肉などを口にしてきた。

コトバンク/歯固め(はがため)

 

 

 

歯固式の料理

ピントが甘く読みにくくてスミマセン。

 

 斎宮の人たちはどんなものを食べていたの?

『延喜式』には諸国から斎宮へ次のような食材が運ばれてきたことが記されています。それによると、米・大麦・小麦・粟・大豆・小豆などの穀物、塩、ごま油などの食用油、アワビ・カツオ・サケ・アユ・フナ・タイなどの魚貝類、鳥肉、海藻類、あまずらという甘味料・けしの実・わさびなどの調味料です。ここにあるもののほとんどは干物など保存食ですが、斎王のために贄を買うための稲も計上されており、「はやにえ」という言葉から考えれば、地元産の新鮮な魚貝類や野菜類も調達されたのでしょう。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

干鯛(ひだい)

 

 

 

 

身取鰒(みとりあわび)

 

 

 

 

志摩式製塩土器(しましき せいえんどき)

 

 

 

 

斎宮で使われていた薬の一例

(左奥から横へ) 芍薬(しゃくやく)、大黄(だいおう)、防風(ぼうふう)、細辛(うすばさいしん)

 

 

 

 

(左奥から横へ) 芎藭(きゅうきゅう)、(この写真からは読めませんでした)、呉茱萸(ほんごしゅゆ)、桔梗(ききょう)、黄連(おうれん)、人参(にんじん)、半夏(はんげ)、蜀椒(しょくしょう)

 

 

 

 

「斎宮の年中行事」

 

 

 

 

資経本斎宮女御集(すけつねぼん さいくうのにょうごしゅう).

 

 斎宮女御集のことを教えて

斎宮女御集とは、斎宮女御と呼ばれた徽子女王の家集です。徽子の歌だけでなく、徽子との贈答歌、夫である村上天皇や娘の規子内親王の歌なども載せています。この家集は、徽子の死去(985年)の後、側近の女房たちによって編まれたと考えられています。配列や歌数が異なる、大きく4系統に分類される写本が伝わっています。当館では2冊の写本を所蔵しています。うち一冊は、資経本『斎宮女御集』と呼ばれる鎌倉後期の貴重な写本です。。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

これにて展示室Ⅰ「文字からわかる斎宮」の観覧を終了し、次に映像展示室へと移動しました。

 

 

 

(つづく)→ 幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館3〜2016冬至伊勢行(13)



 

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館3〜2016冬至伊勢行(13)

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館2〜2016冬至伊勢行(12)←(承前)

 

 

 

 

映像展示室へと入りました。

壁面には、平安時代の装束・調度の模型などが展示されています。

 

そしてここでは、ハイビジョン画像の大画面で『斎王群行』と『今よみがえる幻の宮』の映像が、1日に5回ずつ交互に上映されます。

 

A映像:斎王群行(18分)

 斎宮についての総合的な紹介と、斎王をより身近に感じていただく映像です。

(中略)

 時代は宇治の平等院の出来たころ、斎王は後朱雀(ごすざく)天皇の皇女、良子(ながこ)内親王で、年はまだ十才。初めて都を離れるその肩には、重大な使命が課せられています。彼女はどんな想いで都を離れていったのでしょう、そして彼女を見守る藤原資房の心は…。

 

C映像:今よみがえる幻の宮(約13分)

 昭和45年以来、現在もつづく斎宮跡の発掘調査は、総面積137ヘクタールにおよぶ史跡の地下に眠る「幻の宮」の実態を明らかにしつづけています。

(中略)

文献史料から斎王の日常生活や勅使の訪問のようすを可能なかぎり再現した実写により、具体的な斎宮像とともに斎宮の発掘の理解を深めることができます。

斎宮歴史博物館/常設展案内/映像の内容と上映時間

 

私たちは、時間の都合で『今よみがえる幻の宮』だけを観せて頂きましたので、次の機会にはぜひ『斎王群行』をと思っています。

 

 

 

 

斎王の装束、なんでしょうか?

着物の右下に置かれた説明書にピントが合ってないため読めません。

 

というか、斎宮歴史博物館ホームページにある所蔵品情報データベースには写真のないものが多く解説もほぼ全て空欄ですし、そもそも展示品の目録さえ発行されていませんから、観覧者としてはチョットどうか、とも思いますけど…

 

まあ、職員の方々は発掘と研究に追われそれどころではないんでしょうが、後で調べようと思っても手掛かりがありませんので、もっとしっかり写真を撮っておくべきだったと反省です。orz

 

 

 

 

根古志形鏡台(ねこじがた きょうだい)

 

 

 

 

桧扇(ひおうぎ) 懸守(かけまもり)

 

 

 

 

美麗几帳(びれい きちょう) 三彩陶器薬壺(さんさいとうき やっこ)※右下

 

 

 

 

左の壁面には、斎王群行の大きな絵が貼られています。

この絵の出典は分かりません(泣)

 

 

 

 

その左壁面の奥にも装束が展示されています。

これも、斎王の装束、なんでしょうかね?

 

 

 

 

あと、映像展示室の観覧席後部には、斎宮跡出土の土器を時代順に並べた編年展示があります。

(右から) 飛鳥時代(7世紀) 奈良時代前期(8世紀前葉) 奈良時代中期(8世紀中葉)

 

 斎宮の発掘調査では、主にどんなものが出てくるの?

斎宮跡から出土する土器のほとんどは土師器(はじき)と呼ばれる素焼きの土器で、全体の約90パーセント以上を占めています。それ以外に須恵器(すえき)や灰釉陶器(かいゆうとうき)、緑釉陶器(りょくゆうとうき)などがあります。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

上の写真で真ん中あたりに掲げられた写真をアップ。

斎宮跡発掘作業に尽力された、地元の姉さん方々です。

 

おそらくですが、掘立柱の立っていた柱穴ひとつに一人、立っておられるのだと思います。

だとしたら、これこそまさに生きる〝人柱〟ですね〜(苦笑)

 

 斎宮の発掘調査ではどれぐらいの深さを掘るの?

場所や遺構によって様々です。深いものでは数メートルも掘ることがあります。しかしながら斎宮跡の発掘調査は、遺構の情報を得るための最小限の調査しか行いません。ですから多くの遺構は底まで掘らずに途中まで掘って遺構を確認すると、そのまま埋め戻してしまいます。これは遺跡を保存していくためと、将来再び発掘調査ができるようにするためです。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

飛鳥時代(7世紀)

 

 

 

 

奈良時代前期(8世紀前葉)

 

 

 

 

奈良時代中期(8世紀中葉)

 

 

 

 

(右から) 奈良時代後期(8世紀後葉) 平安時代初期(9世紀前葉) 平安時代前Ⅰ期(9世紀中葉) 平安時代前Ⅱ期(9世紀中葉〜後葉) 平安時代中期(10世紀前半)

 

 

 

 

「斎宮跡の土器編年」

 発掘調査で出土した土器は、それぞれのやきものの焼成や用途の違い(器種)、形の違い(器形)により分類されます。それらが含まれる地層の順や遺構の重なり合いの順、判定の基準になる遺物の共伴状況により、時間軸の上に整理する作業を編年といいます。

 この土器の編年作業の成果は、文字資料の少ない斎宮跡では、遺構の時期を決定する重要な根拠のひとつとなっています。

 

この編年表は、右端の飛鳥時代に始まって、左端の鎌倉時代で終わっています。

そこで最も広い面積を占めているベージュの地色は土師器を示しており、斎宮の歴史でも一貫して主に使われていたことが分かります。

 

土師器(はじき)

土師器は、弥生土器の流れをくむ素焼きの土器で、古墳時代以降長きにわたって使用された。一般には、赤褐色ないし黄褐色を呈する。斎宮で使用された土器の95%以上は、この土師器であり、圧倒的な出土量を誇る。主な器種に、杯・皿・椀・高杯といった供膳具のほか、甕・鍋といった煮沸具がある。斎宮跡周辺には、土師器を野焼きした二等辺三角形の窯跡が多数確認されており、旧有爾(うに)郷一帯は、斎宮ならびに伊勢神宮に土師器を供給していた一大生産地であった。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

そのベージュ色の左下、平安時代中葉あたりからオレンジ色が出ていますけれど、これはロクロ土師器を示しており、その頃からロクロが使われるようになったようですね。

 

 

 

 

奈良時代後期(8世紀後葉)

 

 

 

 

(右から) 奈良時代後期(8世紀後葉) 平安時代初期(9世紀前葉)

 

 

 

 

(右から) 平安時代前Ⅰ期(9世紀中葉) 平安時代前Ⅱ期(9世紀中葉〜後葉) 平安時代中期(10世紀前半)

 

 

 

 

(右から) 平安時代後I期(10世紀後半) 平安時代後Ⅱ期(11世紀前葉〜中葉) 平安時代末期(11世紀後葉〜12世紀後葉) 鎌倉時代(12世紀末〜13世紀頃)

 

 

 

 

平安時代後I期(10世紀後半)

 

 

 

 

(右から) 平安時代後I期(10世紀後半) 平安時代後Ⅱ期(11世紀前葉〜中葉) 平安時代末期(11世紀後葉〜12世紀後葉) 鎌倉時代(12世紀末〜13世紀頃)

 

 

 

ということで、土器について特にコメントできるような素養が私にはありません(泣)

次は、展示室Ⅱ「ものからわかる斎宮」へと進みます。

 

 

 

(つづく)




 

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館4〜2016冬至伊勢行(14)

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館3〜2016冬至伊勢行(13)←(承前)

 

 

 

 

斎宮寮復元模型(400分の1)

 

展示室Ⅱ「ものからわかる斎宮」へ入ると、先ずこの復元模型が迎えてくれます。

 

発掘でよみがえった斎宮

 昭和45年(1970)、現在博物館の建つ古里地区(ふるさとちく)で発掘調査が行われ、長い間埋もれていた斎宮が再びその姿を現しました。昭和54年には、東西約2キロ、南北約700メートル、面積約137ヘクタールが国の史跡(しせき)に指定され、現在も計画的な発掘調査が続けられています。

 これまでの調査の結果、斎宮では、奈良時代後期になると史跡東部で、区画道路により碁盤目状に区切られた方格地割(ほうかくちわり)が造営され、建物が整然と建ち並んでいたことが判明しています。この地割は、約120メートル四方の区画が東西7列・南北4列並んで構成されるという大規模なものでした。

斎宮歴史博物館/斎宮の様子

 

 

 

 

上の写真の真ん中あたりをアップ。

 

中央の左側に大きめの建物が密集しているのが寝殿で、ここが斎王の居宅ということです。

その右、道を挟まず隣接するのが配膳を司る采女司(うねめのつかさ)。

 

そして寝殿の真後ろに神殿、その左隣は寮頭館で右隣が神まつりを司る主神司(かんのつかさ)、さらに右隣が膳部司(かしわでのつかさ)で調理を司りますますから、これらは斎王を中心として斎宮内での神まつりを考慮した配置かと思われます。

 

また、手前の正面には警備を司る門部司(かどのつかさ)が並んで配置され、斎宮を堅く守っていた様子が伺えます。

 

 

 

 

先ほどの逆側から見た斎宮寮復元模型。

 

斎宮寮復元模型には、斎宮の中を擬似的に歩き回ることができるプログラム「斎宮バーチャル探訪」が楽しめるディスプレイも2台設置されています。

斎宮歴史博物館/常設展案内

 

とのことなので、模型の向こう側に引っ付いている2つの四角い木の箱がそのディスプレイだと思いますが、その時そのような機能のあることを知りませんでした(泣)

 

展示室にある400分の1の斎宮の模型で、瓦葺きの建物が全くないのはどうして?

斎宮で発掘調査をしていると、ほとんど見つからないのが瓦です。建物を取り壊す時には破損した瓦はたいていその場所に埋めますから、斎宮の建物には瓦が葺かれていなかった、と考えられます。また、平安時代後期に編纂された『新任弁官抄』という文献には、斎宮の内院は檜皮葺き、中院、外院は板葺きや萱葺きとしており、瓦は使われていなかったことは文字記録からも裏付けられています。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

展示室Ⅱの全景。

その真ん中に、斎宮跡発掘調査の様子が原寸大で再現されています。

 

 

 

 

手前に割れた土器が沢山埋められているのは「土器溜り」。

 

土器溜まり(どきだまり)

斎宮の中心部である内院と呼ばれる区画では、建物の隅にあたるような場所から土器を大量に棄てた穴や溝がしばしば発見されます。出土するものは、その大半が土師器の杯・皿で、儀式や饗宴に使われたと考えられています。内院地区で出土する土器の90%以上が土師器で、この傾向は平安宮の内裏などとも共通します。

斎宮歴史博物館/Web版斎宮今昔/国史跡斎宮跡(南東部)

 

その右上は「掘立柱建物の柱穴」、その向こうに長細く掘られている溝が「雨落ち溝」。

さらにその右向こうの穴が、「柵列(さくれつ)の柱穴」。

 

 

 

 

発掘作業中の女性パネル前にこんもりと盛り上がった土が、遺跡を覆っていた包含層(ほうがんそう)で、その表面はさらに耕作土などで覆われていたそうです。

 

左の台形に切り出された地層の上が耕作土で下が包含層を示していますが、その手前にあるモニターの付いた四角い箱は、何か子供向けのゲームみたいなもののようですが、何なのか分かりません…

 

向こうの壁面にも、椅子があって何かゲーム的なものだったと思いますが、これも記憶に残っていません。orz

 

 

 

 

「斎宮ゆかりの史跡」

三重県は旧国でいえば、伊賀・伊勢・志摩・紀伊東部の四ヶ国からなり、南北に長い。

斎宮のある多気郡明和町は県の中央やや南部、伊勢市と松阪市の中間に位置している。

旧伊勢国の南部で、志摩にも近く、伊勢神宮を中心とした地域の西の端にあることがうかがえる。

 

 

 

 

羊型硯(ひつじがたすずり)奈良時代

 

このクルリと輪になった角はアモン角と呼ばれるそうですが、まったく日本的なイメージではありませんね。

 

羊は羊?

 斎宮跡出土の代表的な遺物の一つに「羊形硯」があります。別に写真も公開しているので、ぜひご覧いただきたいのですが、わりあいに印象の強いものですので、ああ、あれか、と思われる方も少なくないのではないでしょうか。

 さて、羊の頭の飾りをつけた硯は非常に珍しく、平城京で2例あるほか、全国で5例とない「貴重品」だとされます。こういう動物などをかたどった硯のことを「形象硯」といいますが、割合に多いのは鳥形、それも首の長い水鳥の形をまねたものです。水鳥はまさに池や川に浮いているから、硯にして水を張っても「サマになる」のです。そして古墳時代の鳥形埴輪以来造形としてはずっと好まれているので、硯にもそのデザインが使われるのは納得できます。では、羊はなぜ硯になったのでしょう。

(後略)

斎宮歴史博物館/斎宮百話/第7話

 

このお話し、かなり面白いのでお奨めですけれど、けっこう長くなりますのでリンク先にてお読みくださいませ〜

 

 

 

 

「斎宮の起源」

斎宮跡で斎宮に関係する最も古い遺跡は、七世紀末期、飛鳥時代の終わり頃の柵の跡で、たしかな最古の斎王、大来皇女の頃のものと見られている。

八世紀、奈良時代になると様々な遺物が見られ、斎宮の整備がうかがえるが、規模などはそれほどわかってはいない。

斎宮跡の近くでは、北野遺跡、水池土器製作遺跡など、六世紀から八世紀にかけて土師器を作った工房の跡が数多く確認されており、斎宮との関係が指摘されている。

 

「見つからない木簡」

斎宮跡は台地の上にある。

斎宮が廃絶して後も、もっぱら畑になっており、今でも水田は少ない。

こういう水にとぼしい土中では、木の札に書かれた文字情報、木簡はほとんど残らないのである。

斎宮木簡の第1号の出土はいつのことだろうか。

 

 

 

 

「斎宮を支えた官人たち」

斎宮に仕える斎宮寮の、組織や位が定められたのは、奈良時代の初めごろのことである。

斎宮跡ではこのころから、硯や文字を書いた土器(墨書土器)が見つかるようになる。

器に文字を書く目的はよくわからないが、字の書ける人、つまり官人が増加したことや、彼らの活動の終わりごろには、整然とした区画(方格地割)が作られ、斎宮は安定して運用される組織になったようである。

 

 

 

 

円面硯、などなど。

この写真からでは説明書が読めません…

 

どうか、展示品の写真付き目録を、ホームページか出版物で完備して頂けたらと思います(泣)

 

 

 

 

緑釉陶器(りょくゆうとうき) 陰刻花文稜椀(いんこくかもんりょうわん) 平安時代

 

緑釉陶器について教えて?

緑釉陶器とは、釉薬(うわぐすり)に鉛と銅を用いて焼かれ、表面が緑色をした焼き物です。通常の釉薬が1200度で焼かれるのに対し、鉛釉は800度で焼成できることから、日本で最初の施釉陶器には鉛釉が用いられました。奈良時代には唐三彩を模して緑・白・茶色を配した奈良三彩が生産されましたが、平安時代になり越州窯(中国浙江省)系青磁が輸入されるようになると、これを模した単彩の緑釉陶器が生産されるようになりました。緑釉陶器は、当初京都の洛北地域や愛知県の猿投窯で生産され、次第に丹波や近江・東濃地域などへ広がっていきました。斎宮跡からは、各地で生産された緑釉陶器が7000点以上出土しています。美しい色彩と光沢を放つ緑釉陶器は高級品であり、斎宮跡から東日本でも突出した量の緑釉陶器が出土していることは、斎宮がいかに重要で平安文化の栄えた場所であったかを物語っています。

斎宮歴史博物館/斎宮Q&A

 

 

 

 

「斎宮の儀式」

斎宮の生活についての具体的な様子は、発掘調査からはほとんどわからない。

しかし、まれに見つかる金銅製品や櫛などの木製品は斎宮の雅びの時代のありさまをしのばせ、地鎮祭のようなまつりに使われたらしい土器などは、記録には出てこない日々の生活の中のまつりや儀式について、新しい情報を提供してくれる。

 

「文字文化の開花」

墨書土器は平安時代になると更に数が増え、官司の名や縁起のいい文字を記したもののほか、十世紀にはひらかなも現れる。

ひらかなは女手ともいわれるので、斎王の身近に仕えた女性の書いたものと考えられる。

硯も、現代のものに近い形になる一方、陶器の破片を硯とした転用硯なども見られ、使う人が増えていたことがうかがえる。

 

 

 

 

「斎宮をめぐる土器の流れ」

平安時代、九世紀になると、斎宮では、緑のうわぐすりをかけた緑釉陶器、溶けた灰を使った灰釉陶器などが見られるようになる。

これらの陶器は、愛知県の猿投窯や京都周辺の窯の製品が多く、生産地と消費地のネットワークが作られていたらしい。

平安時代中頃になると、美濃東部(今の岐阜県)、近江(今の滋賀県)などの緑釉陶器も見られるようになる。

 

「斎宮寮の建物」

斎宮では地面に残された穴から建物の位置を確定する。

礎石を置かず直接地面に柱を立てていたので、柱穴が残るからである。

また、瓦はほとんど出土せず、屋根に瓦を置いていなかったと見られている。

これらは当時の役所の建物としては異例なことで、伝統的な住居建築に近い形だったと考えられている。

 

 

 

 

歩いてきた方を振り返ります。

 

…というのはウソで、実は順路の逆に時計回り=右回りで見ていました(苦笑)

もちろん、このご紹介では順路通りに写真を並べかえていますけれど、この逆回り、よくやってしまいます。

 

それは、いつもあまり考えないまま、どこでも右回りで巡ろうとするクセがあるからですね。

右繞(うにょう=みぎめぐり)の礼、ということもありますので…

 

 

 

 

『幻の宮・発掘』

 

解説映像(約6分)とのことですが、残念ながら見る余裕がありませんでした。

 

そのモニター手前には、映像と連動した発掘調査区模型(20分の1)ということで、多分ですけれど、映像で映される位置に、いま見えている小さな人たちが歩いて移動するんじゃないかと思います。

 

次の機会には、ぜひ拝見したいと思います。

 

 

 

 

正面の上段に並ぶ3つの大きな陶器は灰釉陶器。

 

灰釉陶器(かいゆうとうき)

平安時代初期に愛知県の猿投窯で生産が開始された高火度施釉陶器。釉薬に植物灰を用いており、淡緑色に発色する。椀・皿を主な器形とし、それまでの須恵器に替わって、日常什器として使用された。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

 

手前下の透明ケースに収められているものは、初期貿易陶磁ということです。

この写真では読みにくい説明書ですが、何とか青磁と白磁の文字が読めました。

 

貿易陶磁器(ぼうえきとうじき)

国外で生産され、わが国に輸入や貢納などによりもたらされた陶磁器。特にわが国で磁器が生産されるのは17世紀以降のことであり、それまではすべて中国・朝鮮からもたらされている。奈良・平安時代にはその輸入量も僅少で、硬く質の高い磁器は緑釉陶器にもまさる高級品だった。斎宮跡からの出土で確実なものは9世紀から10世紀の白磁までさかのぼり、10世紀から11世紀の越州窯系青磁や11世紀~12世紀の北宋系の白磁などとともに、都城や、当時の貿易の玄関口である九州北部を除き、突出した出土量を誇っている。

斎宮歴史博物館/斎宮関連用語集

 

斎宮にゃいなかった・・・かにゃ

(前略)

 平安時代には遣唐使の廃絶により大陸との交流が途絶え、一種の鎖国のような状況下で日本独自の貴族文化が栄えた、というのは、これまでの歴史・国文学界の共通理解でした。ところが近年、歴史学の方からは、遣唐使が廃絶して以降、むしろ大陸との交易が盛んになっていたことが大阪大学の山内晋次氏に代表される研究で、歴史学の側からは次第に明らかにされてきました。

(中略)

 斎宮跡の出土資料で、貴重品、といえば緑釉陶器がよく知られていますが、それより高級な貿易陶磁と称される、青磁や白磁の破片もまた出土するのです。河添氏によると、斎宮女御の父親である重明親王の日記『吏部王記』の天暦5年(951)6月9日条には、宮中で「秘色」とよばれる越州窯青磁が使われていた記録があります。同じ時代を生きた斎宮女御なども、あるいは青磁を使っていたのかもしれません。

(後略)

斎宮歴史博物館/斎宮千話一話/第3話

 

 

 

 

灰釉陶器(かいゆうとうき)平安時代

 

これまで見てきた土器に比べたら、かなり凝った造りになっています。

 

 

 

 

墨書土器「目代」(平安時代)

 

高台の中に「目代」と墨で書かれています。

目代(もくだい)とは、日本の平安時代中期から鎌倉期に、遙任国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のことである。

Wikipedia/目代

 

 

 

 

神都名勝誌(しんとめいしょうし)(長元託宣之図(ちょうげんたくせんのず))

 

これって有名な、長元託宣事件のことでしょうね?

とすれば、この絵の女性は斎王の嫥子女王で、畏まってその託宣を受けているのが斎宮寮頭の藤原相通、ということになりますね。

 

1016年、嫥子(せんし・よしこ)女王は斎王に卜定され、1018年に伊勢へ群行しました。

そして1031年(長元4年)、嫥子女王は自らを伊勢神宮の荒魂と称し託宣を下してしまいます。

この時、斎王は酒乱状態のまま、斎宮寮頭であった藤原相通夫妻の不正を糾弾し、朝廷の斎宮軽視を天皇の失政であると非難して、これが斎王託宣事件と呼ばれます。

Wikipedia/嫥子女王

 

神がかりして託宣を下した斎王

平安時代の斎王 嫥子女王(よしこじょおう)

 

 村上天皇の皇子・具平親王の娘で、後一条天皇の斎宮として12歳で卜定され、32歳で任を解かれるまでの21年間の長きにわたって斎王の位にありました。

 

 長元4年(1031)、月次祭に出席した嫥子女王は、折からの暴風雨の中でにわかに神がかりし、自分は皇大神宮(内宮)第一の別宮荒祭宮(あらまつりのみや)であると叫び、続いて斎宮寮頭夫妻やその家来たちが悪事をはたらいていることや政治の乱れなどを激しい調子で告発する託宣を下したと記録されています。

 

 嫥子女王はこの時27歳。真実、神が斎王の身を借りて託宣したのか、長年生まれ育った都を離れていた憂鬱が爆発したのかはさだかではありません。あるいは漢詩文の才に秀でていた具平親王の血を引いた嫥子女王が、狂気を装って不正を告発したのだとも考えられます。

 

 そののち、後一条天皇の崩御によって帰京し、47歳で藤原教通と結婚。77歳の長寿で亡くなりました。

明和町観光サイト/斎王紹介その4

 

 

 

 

青磁椀、だと思います。

 

 

 

 

「中世斎宮の変容」

平安時代後期は、斎王制度が次第に衰退する時。

この時期の斎宮の様子は、発掘からまだあまり分かっていない。

建物は数が少なくなり、規模も小さくなっていたようである。

造物としては、この時代の高級な焼き物である青磁や白磁のほか、山茶碗とよばれる愛知県産の土器も見られるようになる。

十二世紀後半には十五年にわたる斎王不在の期間があり、この頃に歌人として有名な西行法師が斎宮を訪れ、その衰退のありさまを目にしている。

 

 何事のおわしますをば知らねども

   かたじけなさに涙こぼるる

           『西行上人集

Wikipedia/西行

 

コラム 歴史の道から探る王朝人の想い(2)

 

(前略)

西行は斎宮を訪れ、こんな一首を残しています。

 

 いつかまた いつきの宮のいつかれて

   しめの御内に ちりをはらはむ

           『山家集(さんかしゅう)

 

(大意)いつになったら斎王が神に奉仕なされて、 注連のめぐらされた御内に塵を払うことでしょうか

 

 この歌から作歌時期に斎王が斎宮にいなかったことと、斎宮が荒れるほど人の手が入っていなかったことがわかります。

 斎宮は斎王がいなければ、女官などの官人も全員都に帰ってしまいます。斎王制度が続いた六六〇年間、斎宮に誰かが常駐したわけではありません。

 この歌が作られた時期は文治二年(一一八六)頃と考えられています。この頃は源氏と平家の騒乱が続いており、斎王が斎宮に在任していない期間が一五年余りもありました。西行はおよそ一五年放置された斎宮を訪れ、斎宮の荒れ果てた姿を見、嘆いて歌を詠んだようです。

(後略)

明和町/さいくうあと通信/第15号

 

 

「斎宮の落日」

承久三年(一二二一)の承久の乱で京方が敗北してからは、天皇が即位してもすぐに斎王を選べなくなる。

鎌倉時代中頃には、斎王を置かない天皇が現れ、文永九年(一二七二)を最後に、斎王は伊勢に来なくなり、建武元年(一三三四)ごろ、後醍醐天皇の時代に完全に消滅する。

この時期の斎宮の遺跡は農村的になり、特徴のある遺物や遺構はほとんど見られなくなる。

 

 

 

 

ひらかな墨書土器(平安〜鎌倉時代)

 

 

 

 

中世墓出土遺物(鎌倉時代)

 

 

 

 

山茶碗(やまぢゃわん)

 

愛知県地方において俗に行基焼あるいは藤四郎焼と呼ばれている硬質・無釉の碗、皿類で、高台端に籾殻痕があるため、一部の地域ではもみがら焼とも呼んでいる。山茶碗の名称は山中の古窯跡に廃棄された碗、皿類の不良品が数多く散在しているところから出たものと思われる。《延喜式》にみえる山坏、小坏を指すとみる場合には、白瓷(灰釉陶器)碗・小碗のセットに当たるが、通常、白瓷碗類が11世紀末葉に無釉の民間雑器に転化した白瓷系陶器のことを指している。

コトバンク/世界大百科事典 第2版/山茶碗

 

 

 

 

「斎宮発掘マップ」

 

平成28年度速報展示

斎宮寮庫・下園東区画の出土品

 

 斎宮にあった役所「斎宮寮」で使用する物品や宝物などを貯蔵するための施設が「寮庫」と考えられています。「寮庫」は、方格地割がつくられた当初(今から約1200年前、奈良時代のおわりから平安時代のはじめごろ)、下園東区画の東隣の「西加座北区画」に位置していました。西暦824年に斎宮を一度、度会郡の離宮院(現伊勢市小俣町)へと移転した際、「西加座北区画」の寮庫は放棄されます。

しかし839年に、その離宮院が火災により焼けてしまい、再び多気郡明和町へと斎宮が戻ってくることとなり、その際に新しく寮庫区画として選ばれたのが「下園東区画」であることが、近年の発掘調査と研究により明らかになってきました。

 

 

 

 

そうしてようやく、博物館の観覧を終えて外へと出ました。

ちょうど丸一時間かかって11:30ごろです。

 

目の前に「ふるさと芝生広場」の風景が広がって、ホッと一息。

正午が近いというのに、さすが冬至ですから太陽もかなり低い位置にとどまっています。

 

 

次は近くの神服織機殿神社と神麻続機殿神社を巡り、そこから奥伊勢は大紀町の瀧原宮へと進んで、その後は一気に和歌山街道を辿り高見峠を超えて、奈良県桜井市の三輪を目指します。

 

この日、三輪での日の入りは16:50ですが、標高1,000mを超える金剛山地の方へと陽は沈みますので、それより少しでも早く到着しないと夕陽を遙拝することができません。

 

いつものことながら、伊勢で朝陽を遙拝し、そのまま太陽を追いかけて元伊勢の桧原神社で夕陽を遙拝することが私たちのテーマとなっていますので、まだ午前中ですが、早くも少し焦ってきました(苦笑)

 

そこで、行ってみたかった斎王の森などは割愛することとして、急ぎ神服織機殿神社へと向かいます。

 

 

 

(つづく)




 

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