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[補足] 上代特殊仮名遣の「黄泉」と「夜見」〜初夏出雲行(47)

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出雲二千年の謎が秘められた荒神谷遺跡~初夏出雲行(46)←(承前)

 

 


「「黄泉」と「夜見」の関係が気になりますから、今後もう少し調べてみようと思っています」と中海を渡り夜見の弓ヶ浜半島から美保関へ~初夏出雲行(37)で申し上げていた件なのですが、チョット恥ずかしながら、自分で一から調べるには手強すぎる課題とも思われ、どうしたものか思案していました。

 

『出雲国風土記』荻原千鶴(講談社/1999年)「出雲国風土記地図」アップ

 

 

そこでともあれ、図書館に丸1日こもって調べてみようかと考え、まず大阪府立図書館ホームページで語源、地名、歴史などの辞典類と上代特殊仮名遣い関連の書籍を検索し、およそ80冊近くのリストまでは作りました。

 

けれど、到底1日くらいでは調べ尽くせそうにありませんし、その1日でさえ中々都合が付けられない貧乏暇なしの日常です。
その上、府立図書館は我が家から遠いためそう簡単に通えず、かといって比較的近い市立図書館では蔵書の絶対数が違うためモノ足りません。

 

 

どうしたものか、PCモニターの前でボンヤリ考えていると、ずっと見ていた府立図書館ホームページのトップメニューにあった[調査相談]という文字が目に入りました。


何年にもわたり利用しているページですから、おそらくそのメニュー名はもちろん見たことがある筈ですけれど、特に興味を持ったことがありません。

 

けれど今回、あらためて、ん? と思いクリックし見てみましたら、

 

 

大阪府立図書館/調査相談(レファレンス)サービス

調査相談(レファレンス)とは

図書館では、所蔵資料を使って利用者の皆さんが必要とされる知識や情報を得ていただくためのおてつだいをしています。

 

どうぞお気軽にご相談ください。

 

「図書館の力!! あなたの「しらべる」応援します」

 レファレンスサービスをご紹介したパンフレットです。

 

 

 

とのことで、ジャンルにこだわらず何でも知りたいことや関連する資料を司書の方に調べて頂ける、というサービスでした。


「どうぞお気軽に」という言葉にもグッと来ましたし、もちろん、完全に無料です!(笑)

※ただし、近畿圏(大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、和歌山県、滋賀県、三重県)以外にお住まいの方は、次のご質問に限ってお申し込みいただけます。
大阪に関するご質問
大阪府立図書館で所蔵する古典籍、国際児童文学館の資料など、他館で所蔵していないような資料に関するご質問

 

 

当然ながら大阪府に限らず、どうやら公共の図書館なら大体どこでも受付しているサービスのようですが、詳しくは何も知りませんでした~。orz

 

今までもアレコレと検索で調べ物をした際、↓こちらの個別項目を何度か見たことはありましたけれど、あまり自分と関係するシステムだとは思えませんでしたし。
レファレンス協同データベース

 

しかしながら、もちろんご存知な方は多いと思いますし、利用された方も少なからずおられると思いますから、今さらなんですけれど(苦笑)

 


ということで、今回はこの調査相談へ頼ってみようと思い、懸念の「黄泉」と「夜見」について質問してみましたので、そこで頂いたご回答の内容をご紹介したいと思います。

 

図書館からの回答メールをほぼそのまま、不要な部分を少し削除し、改行や引用・リンク表記・文字の大小など分かりやすいよう調整した状態で、下に引用いたします。

 

なお、当ブログでこれを掲載することは、あらかじめ大阪府立図書館からご了承を頂いておりますので、その点どうぞご安心くださいませ(笑)

 

 

大阪府立図書館です。
ご質問されたレファレンスについて回答いたします。

 

 

 

【表題】

 

黄泉のヨミという読み方を示す万葉仮名は、何処に記され漢字は何ですか?

 

 


【質問・相談などの内容】

 

黄泉は一般にヨミと読みます。
そして、“日本でヨミを「黄泉」と書くのは、中国の「黄泉(こうせん)」に日本語のヨミを結びつけたものである”『暮らしのことば 語源辞典』とのことですから、そうならば、この「黄泉」をヨミと読むように万葉仮名で指示した注記なり訓釈が、古事記か、あるいは他の典籍である筈なのですが、それは何処に、どのような漢字で表音されたのか、知りたいと思っています。


と申しますのも、Wikipedia/黄泉ではこのようにあり、

語源
黄泉とは、大和言葉の「ヨミ」に、漢語の「黄泉」の字を充てたものである。漢語で「黄泉」は「地下の泉」を意味し、それが転じて地下の死者の世界の意味となった。 語源には以下のような諸説がある。
1.「夜」説。夜方(よも)、夜見(よみ)の意味、あるいは「夜迷い」の訛りともいう[1]。

 

出典・脚注
[1] 出雲地方に「夜見」とつく地名があるのでこれにこじつける説もあるが、黄泉のヨは上代特殊仮名遣いでは乙類なので「夜」(甲類のヨ)ではありえず、現在では完全に否定されている。


ここで、黄泉のヨは上代特殊仮名遣いでは乙類、とありますけれど、その表音を示す万葉仮名が何か分からないため、本当に夜見≠黄泉なのか腑に落ちないからです。

 

一方で、『出雲と大和のあけぼの』と『列島縦断 地名逍遥』では同様に、夜見=黄泉、という見解になっていますので。


なお、ブログでこの疑問を掲載しておりますので、質問の出典に上げておきます。
よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

【回答】

 

「黄泉」に関して、次の資料を調べました。

 

※資料内容の表記に関しまして、旧字体を新字体で記載している部分があります。[ ]内はルビを記載しています。ルビの位置に書かれていてもルビではないと思われるものは、[ ]に入れずにカタカナ表記にしています。

 

 

●『日本古典文学大系 1 古事記』(岩波書店 1958.6)


すでにご確認いただいている資料ではありますが、p.63「黄泉[よみ]ノ国」の頭注に「ヨモツクニ、ヨミツクニと訓んでもよい。死者の住む国で、地下にある穢れた所と信じられていた。黄泉の二字は漢語の借用で「地中之泉」の意。」とあります。

 

 

●『日本古典文学大系 67 日本書紀 上』(岩波書店 1967.3)


p.94「泉門」を「よみど」と読んでいます。「泉門」は頭注によればp.95「冥界の入口にあって、邪霊の侵入を防ぐ神。部落の入口に陽物の像などを立てて、その勢能によって、部落の安全を保った。それと同じく冥界の死神を防ぐ意。」とあります。

 

 

本居宣長は『古事記伝』において「黄泉国」について次のように書いています。

 

●『本居宣長全集 第9卷』(本居宣長/[著] 筑摩書房 1968.7)※中之島図書館所蔵資料


※【 】内は、この資料の底本の二行割注です。

p.237-239 「古事記伝六之巻」に「黄泉国」についての記載があります。


p.237「黄泉国は、【豫美能久爾[ヨミノクニ]とも、豫美都久爾[ヨミツクニ]とも訓べし、與美津[ヨミツ]と云ことは、祝詞式に見ゆ、されどなほ】豫母都志許賣[ヨモツシコメ]、又書紀に余母都比羅佐可[ヨモツヒラサカ]など、例多きに依て、豫母都久爾[ヨモツクニ]と訓つ、たゞ黄泉とのみあるは、豫美[ヨミ]と読べし、さて豫美[ヨミ]は、死[シニ]し人の往[ユキ]て居[ヲル]国なり」とあります。


また、p.238「名ノ義は、口決に夜見土[ヨミド]とある、土ノ字は非[ヒガコト]なれど、*夜見[ヨミ]はさも有リぬべし、下文[シモノコトバ]に燭一火[ヒトツビトモシテ]とあれば、暗處[クラキトコロ]と見え、又夜之食国[ヨルノヲスクニ]を知看[シロシメス]月読ノ命の、読[ヨミ]てふ御名も通ひて聞ゆればなり」ともあります。


また、別の記述の二行割注の中の記載ですが、「出雲ノ国ノ風土記に、伯耆ノ国ノ郡ノ内ノ夜見[ヨミ]嶋と云ことあるは、黄泉[ヨミ]に由あることありての名なるべし」とあります。

 

この資料には、「注釈が今日の語学研究から見て誤りと思われる場合など」に*をつけ、補注を加えたと凡例にあります。

上記、「夜見[ヨミ]はさも有リぬべし」の補注は次のとおりです。

 

p.545-546「上代特殊仮名遣によれば夜[ヨ]はヨ甲類 yo、見[ミ]はミ甲類 mi である。しかし、黄泉はヨモツシコメ、ヨモツヒラサカ、ヨモツヘグヒなどに、豫母都志許賣、余母都比羅佐可、譽母都俳遇比とあり、豫・余・譽は、いずれもヨ乙類 yö の音である。従って、夜見国の yo とヨモの yö とを関係づけるのは不適切である。ヨミノ国の古形は、ヨモツクニであるから、ヨミのミはミ乙類 mï である方が蓋然性がある。ただし、祝詞式の、鎮火祭に、「與美津枚坂」とあるが、これは平安時代の転写を経ているので、そのまま信じがたい。」

 

また、こちらも別の記述の二行割注の中の記載になりますが、

 

p.239「又世に十王経と云ものに、閻魔王国、自人間地去五百臾善那、名無佛世界、亦名預彌[ヨミ]国云々と云る、此経はもとより偽経と云中にも、此邦にて作れるものなり、預彌[ヨミ]国と云も、神典に依て作れる名なり、然るをかへりて、神典に豫美[ヨミ]と云る名は、此経より出たることかと、疑ふ人も有リなむかと思ヒて、今弁へおくなり」とあります。
※漢文の返り点などは記載していません。

 

国立国会図書館デジタルコレクションで『佛説地藏菩薩發心因縁十王經 1卷』((唐) 釋藏川 撰[他])がインターネット公開されています。

14コマ目に、上記の記載を見ることができます。
国立国会図書館デジタルコレクション『佛説地藏菩薩發心因縁十王經 1卷』(2016/3/1現在)

 

 

甲類・乙類の漢字については、次の資料に一覧を見ることができます。

 


●『万葉事始』(坂本信幸/編 和泉書院 1995.3)※中之島図書館所蔵資料


p.44に「特殊仮名遣表」があり、甲類、乙類の別に漢字がまとめられています。
「夜」が甲類、「豫・余・譽・與・預」が乙類となっています。
「美」「見」は甲類となっています。

 

 

●『小田切秀雄全集 1 戦時下の仕事』(小田切秀雄/著 勉誠出版 2000.11)


p.242-243に『古事記伝』の黄泉国の説明をまとめた記述を見ることができますので、一部記載します。


「黄泉国は「よみのくに」とも「よもつくに」とも読むが、『祝詞式』などという本を見ると「よみつ」という言い方もある。しかし『古事記』での他の部分などに「よもつしこめ」などといわれていたり『日本書紀』という本でも「よもつひらさか」などと言われているので「よもつくに」と読むことにしよう。ただ「黄泉」とだけ書かれていたら「よみ」と読む。以上は「黄泉国」の読み方について考えて見たのだが、こんどはその意味を考えるとそれは死んだ人の行っている国という意味である。」

 

 

●『本居宣長『古事記伝』を読む 1 講談社選書メチエ 461』(神野志隆光/著 講談社 2010.3)


p.94-97に黄泉国についての記載があり、「『古事記伝』には、黄泉=ヨミは「夜見」の意で、一つ火をともすとあるから「暗き処と見え」、「下方に在る国」(地下にある国)であって「死人の往て住国と意得[ココロウ]べし」というだけです」とあります。

 

 

●『新・古事記伝 1 神代の巻』(中山千夏/現代語訳・解説 築地書館 1990.2)


p.85-87に「黄泉国[よもくに]」の現代語訳があり、黄泉国の注釈にp.85「「黄泉」は漢語で「黄」が土の色を表し、総じて地下の泉の意味で死者の国を表す。読みのヨモは和語。ヤミ(闇)と同源の言葉かという。」とあります。

 

 

●『万葉ことば事典』(青木生子/監修 大和書房 2001.10)


p.415-416「よみ(黄泉)」の項目に、p.415「記には死んだイザナミの霊魂と肉体がともに住まう暗黒の汚れた世界として描写されるが、そこに描かれた「黄泉国」が古代人の普遍的な他界観であったかどうかは不明。紀本書にはみえない。出雲風には「黄泉坂」「黄泉穴」の地名があり、これは海辺の洞窟をさす。漢語「黄泉」は「地下の泉」を原義とするが、日本古代のヨミは必ずしも地下に限定されず、(略)水平的に遠距離の世界をいう場合もある。」とあります。
※記:古事記 紀:日本書記 出雲風:出雲国風土記

 

 

●『時代別国語大辞典 上代編』(上代語辞典編集委員会/編 三省堂 1990.1)


p.802「よみ[黄泉・泉]」(この[ ]は原文のものです)の項目に、「よみ」が出てくる資料として次の説明があります。
※漢文の返り点は記載しておりません。

 

「「与美津枚坂[よみツヒラサカ]に至り坐して思ほし食さく」(祝詞鎮火祭)「遠つ国黄泉[よみ]の界[サカヒ]に」(万一八〇四)「生けりとも逢ふべくあれやししくしろ黄泉[よみ]に待たむと」(万一八〇九)「夢至此礒窟之辺者、必死、故俗人自古至今、号黄泉[よみ]之坂、黄泉[よみ]之穴也」(出雲風土記出雲郡)」「所塞磐石是謂泉門[よみド]塞之大神也」<泉門与美奈止尓[よみナトニ]>(神代紀上・私記乙本)」(最後の、「与美奈止尓」は小さく書かれています。)

 

参考とすべき事柄や補足的な解説などとして、

 

「交替形としてヨモがある。上代の葬地は山坂・山上など山野に設けられることが多かった。後世も葬地・他界の意でヤマという語が多く用いられているが、ヨミはあるいは山[ヤマ]という語と関係があり、ア列音とオ列乙類音が交替して類義語を構成する一つの例ではないかと考える説もある。」と書かれています。

 

また、「一方、死後の世界はネノクニ・シタツクニともいい、地下の国とも考えられていた。交替形にヨモがあり、木[キ]―木[コ]の交替の例から考えて、ミの仮名は乙類と考えられる。第四例の、ヨミノ坂は山のヨミの、ヨミノ穴は地下のヨミの入り口として考えられそうである。」とあります。

 

 

『時代別国語大辞典 上代編』の説明より、「黄泉」以外の表記となっている次の資料を確認しました。

 


●『延喜式 上 訳注日本史料』(虎尾俊哉/編 集英社 2000.5)


「延喜式巻第八 神祇八 祝詞」のp.480-485「鎮火祭」を見ますと、その中に「與美津枚坂尓至坐弖所思食久」と書かれています。(尓、弖、久は小さく書かれています。)

 

 

●神代紀の分については、
・『日本古典文学大系 67 日本書紀 上』(岩波書店 1967.3)
・『国史大系 [1] 日本書紀 前篇 新訂増補 普及版』(黒板勝美/編 吉川弘文館 1977.6)
・『国史大系 第1巻 日本書紀』(経済雑誌社 1897)
を確認してみましたが、「与美奈止尓」については記載が見当たりませんでした。

 

 

「與」の甲類・乙類の別については、先に挙げました『万葉事始』で記載したとおりです。

 

なお、母音交替に関して調べるには、

 


●『古代日本語母音論:上代特殊仮名遣の再解釈 ひつじ研究叢書 言語編第4巻』(松本克己/著 ひつじ書房 1995.1)


といった資料があります。
記述としては少ないのですが、p.23に「黄泉」が載っています。

 


参考までに、次の資料の記載を紹介します。

 


●『日本古代地名事典』(吉田茂樹/著 新人物往来社 2001.12)


p.236「よみのしま[夜見嶋] 『出雲風土記』意宇郡に「夜見の嶋」で初見し、鳥取県米子市から境港市へ伸びる弓ヶ浜(夜見ヶ浜)をいう。「ゆみのしま(弓の島)」の意で、古代では弓状の細長い洲島であったが、現在では砂地の半島になっている。」
※この[ ]は原文のものです。

 

 

 

担当:大阪府立中央図書館人文系資料室

 

 

【参考資料】日本古典文学大系 1 岩波書店 1958.6
【掲載箇所】63

 

【参考資料】日本古典文学大系 67 岩波書店 1967.3
【掲載箇所】94-95

 

【参考資料】本居宣長全集 第9卷 本居/宣長∥[著] 筑摩書房 1968.7
【掲載箇所】237-239,545-546

 

 

【参考資料】万葉事始 坂本/信幸∥編 和泉書院 1995.3
【掲載箇所】44

 

【参考資料】小田切秀雄全集 1 小田切/秀雄∥著 勉誠出版 2000.1
【掲載箇所】242-243

 

【参考資料】本居宣長『古事記伝』を読む 1 神野志/隆光∥著 講談社 2010.3
【掲載箇所】94-97

 

【参考資料】新・古事記伝 1 中山/千夏∥現代語訳・解説 築地書館 1990.2
【掲載箇所】85-87

 

【参考資料】万葉ことば事典 青木/生子∥監修 大和書房 2001.10
【掲載箇所】415-416

 

【参考資料】時代別国語大辞典 上代編 上代語辞典編集委員会∥編 三省堂 1983
【掲載箇所】802

 

【参考資料】延喜式 上 虎尾/俊哉∥編 集英社 2000.5
【掲載箇所】480-485

 

【参考資料】国史大系 [1] 新訂増補 普及版 黒板/勝美∥編 吉川弘文館 1974

 

【参考資料】国史大系 第1巻 経済雑誌社 1897

 

【参考資料】古代日本語母音論 松本/克己∥著 ひつじ書房 1995.1
【掲載箇所】23

 

【参考資料】日本古代地名事典 吉田/茂樹∥著 新人物往来社 2001.12
【掲載箇所】236


【サイト名】国立国会図書館デジタルコレクション『佛説地藏菩薩發心因縁十王經 1卷』(2016/3/1現在)
【URL】http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542700

 

 


ご利用ありがとうございました。

 

大阪府立中央図書館 〒577-0011 東大阪市荒本北1-2-1
TEL 06-6745-0170(代表)
 
大阪府立中之島図書館 〒530-0005 大阪市北区中之島1-2-10
TEL 06-6203-0474(代表)

 


以上、これでもか、というほどの緻密かつ広範なご回答を頂戴いたしました。
たった2週間なのに、ここまで親身な調査を頂けるとは、本当に有り難いことだと感嘆いたします。

 

ただ、当然のことですが、これはあくまでも図書館の調査相談ですから、質問に対しズバリこれだ!という簡潔な解答を司書の方の判断によって提供してくれる、というわけではありません。
ひたすら質問者の参考になるよう、問題解決のヒントとなる資料とその箇所をご呈示頂けるというサービスです。

 

本当に素晴らしいことだと感動すら覚えてしまいます。

ありがとうございました。

 


さて、そのようなことですが、私の「黄泉のヨミという読み方を示す万葉仮名は、何処に記され漢字は何ですか?」という質問へのご回答で核心部分となるのは、本居宣長『古事記伝』のご紹介でした。

 

Wikipedia/本居宣長

 

それも、「書紀に余母都比羅佐可[ヨモツヒラサカ]」と「豫母都志許賣[ヨモツシコメ]」が、まさに解答となります。

 

 

一応、日本書紀および続日本紀、日本後紀、続日本後記、日本文徳天皇実録、日本三代実録という「六国史」全ての本文テキストが一括して掲載されている↓のページで、「余母」という漢字だけで検索してみたら1つだけヒットし、日本書紀巻第一神代上第五段一書第七に余母都比羅佐可がありました。
J-TEXTS/「六国史」入力:荒山慶一 

 

あと豫母都志許賣も、↓のページで「豫母」を検索すると、古事記上-2神代記にありました。
古事記(原文)の全文検索

 

ということで、黄泉のヨミという読み方を示す万葉仮名は、少なくとも日本書紀では「余母」、古事記では「豫母」と分かりました。

 


まぁこれは、もともと私が日本書紀と古事記をちゃんと読み込んでいれば最初から疑問に思うこともなかったようなことですけれど、その反省はともあれ、そのような漢字表記の一つ一つを覚えているわけもありませんし、本文検索しようにも新旧字体や使っている漢字そのものの違いがありますから、素人にとって調べることはそう簡単にいきません。

 

ともあれ、他の豫美能久爾や豫美都久爾などは出典が分からないままですが、日本書紀と古事記での2点が明確になれば、それでもう十分です。

 

 

そして、『本居宣長全集 第9卷』の補注で、

上代特殊仮名遣によれば夜[ヨ]はヨ甲類 yo、見[ミ]はミ甲類 mi である。しかし、黄泉はヨモツシコメ、ヨモツヒラサカ、ヨモツヘグヒなどに、豫母都志許賣、余母都比羅佐可、譽母都俳遇比とあり、豫・余・譽は、いずれもヨ乙類 yö の音である。従って、夜見国の yo とヨモの yö とを関係づけるのは不適切である。

とのことですから、夜見=黄泉は、もう完全にあり得ないことが分かりました。

 

Wikipedia/上代特殊仮名遣

 

 

ただそうなると、黄泉がえりの聖地に神留る揖夜神社~初夏出雲行(35)で考えていた妄想ですが、出雲で「往古には東方が「あの世」と意識されていたかも知れません」という可能性も、もはや風前の灯火になってしまいました(泣)

 


何より、その著書で夜見=黄泉としていた谷川健一と斎木雲州の両先生ですけれど、そのお立場はどうなるんでしょう?

 

両先生ともに大学教授の経歴がおありですし、特に谷川先生は私にとって『日本の神々』『白鳥伝説』『四天王寺の鷹』『神に追われて』『出雲の神々』など拝読し、大きな感銘を頂きましたので、とても残念で微妙です(号泣)

 

もしかしたら、上代特殊仮名遣いについては何か独自の見解をお持ちだったかも知れませんから、それもいずれ調べてみることにします…

 


ともあれ今回は、図書館の調査相談(レファレンス)サービスって素晴らしい!ということをお伝えしたいと思いましたので、ご参照くださいませ。


そこでご教示を頂いた様々な参考資料も、これからボチボチ紐解いてみたいと思っています。

 

 


(つづく)

 

 

 

 

~いつも応援ありがとうございます~

[補足] 全ルート地図と行程スケジュール〜初夏出雲行(48)

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[補足] 上代特殊仮名遣の「黄泉」と「夜見」~初夏出雲行(47)←(承前)

 

 

 

今回の初夏出雲行での訪問先と車移動によるルートを、ひとつの Google My Map にまとめましたので、公開させて頂きます。
どなた様でもログイン不要で自由にご閲覧を頂けますので、よろしければご利用ください。

 

Google My Maps/初夏出雲行~日々のさまよい

 

 

本来なら、そのマップをここに貼り付ければ簡便だったのですが、アメブロは未だ Googleマイマップの貼り付けに対応していませんので、上記リンクにてよろしくお願い申し上げます。

 


▼Map には下記のレイヤがあり、閲覧の際ご自身で表示か非表示をお選び頂けます。

 

□1日目・・・・・・・・・・・・・1日目訪問先・番記

□須佐神社→出雲大社→阿須伎神社移動ルート-1/2

□→湊神社→鷺浦→日御碕→玉造・・移動ルート-2/2

□2日目・・・・・・・・・・・・・2日目訪問先・番記

□→熊野大社→奥宮→須賀神社→玉造移動ルート-1/3

□→佐太神社→賣布神社→八重垣神社移動ルート-2/3

□→神魂神社→揖夜神社→美保関・・移動ルート-3/3

□3日目・・・・・・・・・・・・・3日目訪問先・番記

□→長浜→朝山→神立→御井→荒神谷移動ルート-1/1

□未踏(順不同)・・・・・・・・・今回行けなかった所

 

※デフォルトでは、□1日目、□2日目、□3日目の3レイヤのみ表示させています
※訪問順の番記で複数回訪れた場所は、最初の番記を2回目以降も踏襲しています
※神社の境外社はマークしていますが、境内社はマークしていません
※徒歩ルートは記載していません
※□未踏(順不同)レイヤの内容は未整理で、今後も変更・追加していく可能性があります

※設定可能なレイヤ数とルート目的地数に上限があるため、至らぬ点多々ございますこと何卒ご了承ください
※何か間違いや不明点、Mapの不具合などございましたらブログのコメントでお知らせ頂けますと助かります

 

 


■初夏出雲行~日々のさまよい [表示例] ※地図の縮尺はそれぞれ違っています

2015年6月3日(水)・4日(木)・5日(金)
夜明04:18/日出04:55/日入19:20/日暮19:57

 

1日目

全体図

 

□須佐神社→出雲大社→阿須伎神社

04:00須佐神社04:50→05:20稲佐の浜(潮汲み)05:40→05:50神門通り交通広場駐車場~祓社~06:10出雲大社~境内各社~三歳社~09:00祈祷10:00神祜殿/宝物殿~命主社~真名井の清水10:40~やしろや(蕎麦朝食)~11:00古代出雲歴史博物館12:40~12:50神門通り交通広場駐車場→みせん広場→13:00出雲井神社13:10→13:20乙見神社13:30→13:40阿須伎神社(阿式社)


□→湊神社→鷺浦→日御碕→玉造

阿須伎神社(阿式社)14:00→14:10JR旧大社駅14:30→14:40湊神社14:50→15:00かねや(蕎麦昼食)15:20→15:30稲佐の浜~因佐神社~屏風岩~上宮~大歳社~下宮~稲佐の浜16:30~16:50伊奈西波岐神社17:10~17:30日御碕神社~日御碕遊歩道~日御碕灯台/夕陽遙拝18:50→出雲IC▶山陰自動車道▶松江玉造IC→19:50玉造温泉 千代の湯(朝食付)~若竹寿し(夕食)~千代の湯

 

2日目

全体図


□→熊野大社→奥宮→須賀神社→玉造


千代の湯03:50→04:10熊野大社05:00→05:20須賀神社奥宮05:50→06:10須我神社06:40→07:00千代の湯(朝風呂・朝食)


□→佐太神社→賣布神社→八重垣神社


千代の湯09:00~玉作湯神社~09:30→09:40いずもまがたまの里 伝承館10:30→11:00佐太神社~田中神社11:40→11:50神代そば(蕎麦昼食)12:20→12:30賣布神社12:50→13:10八重垣神社


□→神魂神社→揖夜神社→美保関


八重垣神社14:00→14:20神魂神社14:50→15:20揖夜神社15:50→16:00黄泉比良坂16:30→ベタ踏み坂→17:20美保関温泉 美保館(夕朝食付)

 

3日目

全体図

 

□→長浜→朝山→神立→御井→荒神谷

美保館04:00→04:10美保関灯台~沖之御前・地之御前遙拝所→客人社~天王社→美保神社~筑紫社・和田津見社~07:00美保館(朝風呂・朝食)~08:30美保神社(端午の節句粽献上・朝御饌祭)~桝谷鮮魚店~太皷醤油店~美保館10:00→弁慶の里道の駅本庄→川津IC▶松江だんだん道路▶山陰道▶山陰自動車道▶出雲IC→11:20長浜神社12:20→12:50朝山神社13:30→14:00羽根屋本店(蕎麦昼食)14:30→14:40立虫神社/万九千神社15:10→15:20御井神社15:40→15:50荒神谷博物館~荒神谷遺跡17:00→

 

未踏(順不同)

真名井神社、熊野大社上の宮跡、粟嶋神社、八上姫神社、平濱八幡宮武内神社、野見宿禰神社、大神山神社、大神山神社奥宮、剣神社、比婆山久米神社、山辺神社、北島國造館、温泉神社、八口神社、河辺神社、韓竈神社、白兎神社、三屋神社、阿太加夜神社、佐香神社、六所神社、斐伊神社、阿太加夜神社、實巽神社、能義神社、物部神社、母儀人基社、加賀神社、神代神社、加賀潜戸、朝日山(神名火)、茶臼山(神名火)、大船山(神名火)、仏経山(神名火)、八雲山、船通山、天狗山、琴引山、花仙山、比婆山久米神社奥宮、大山、真名井の滝、雲井滝、天の真名井、八雲の滝、鳥上滝、潮搔島、天が淵公園、猪目洞窟、鰐淵寺、一畑薬師、大山寺、加茂岩倉遺跡、和鋼博物館、出雲弥生の森博物館、青谷上寺地遺跡展示館、鳥取県立むきばんだ史跡公園、出雲玉作資料館、八雲立つ風土記の丘資料館、鉄の未来科学館、奥出雲多根自然博物館、小泉八雲記念館、ひかわ美人の湯、荒木屋、田中屋、手打ちそば本家大梶、平和そば本店、八雲庵、中国山地蕎麦工房ふなつ、一色庵、上田そば店、一福 松江、東風、etc.

 

 

 

以上、何かのお役に立つことができましたら幸いでございます。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

~いつも応援ありがとうございます~

あとがき㊤ 出雲に思うこと〜初夏出雲行(49)

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[補足] 全ルート地図と行程スケジュール~初夏出雲行(48)←(承前)

 

 

 

10年ほど前から、ずっと出雲へは行ってみたいと思っていました。

 

ただ、平成の大遷宮が2008年に始まってしまいましたから、それが落ち着いてからにしようと思っていると、なかなか行く機会が作れないままでした。

 

そうしてようやく一昨年の2014年初頭、具体的に少し調べ始めたのですが、いったん計画を立ててみるも行けないままでした。

 

 

 

 

 

 

そのため翌2015年の年明けからは何としてもという思いが募り、やっとその6月に、この度の出雲行となりました。
4月までにはおおよそのルートを決めて、5月初旬に日程を確定し宿泊予約を入れています。

 

ですから、昨年の取っ掛かりから今のブログ連載まで数えると、もう1年以上も心身ともに何かしら出雲にとらわれている状態が続いていることになります(泣笑)

 

その上、ブログは(1)の投稿が2015年9月中頃でしたから、実際に行った6月初頭から3か月以上も経って後、何とか1回目の記事にできたという超スローな咀嚼進行で今に至っています。

 

もう出雲熱とでも名付けたいほどの微熱が身中にこもっているようで、出雲は手強い、ということがあらためて実感されています。

 

 

 

 

 

 

なぜ出雲が手強いのかについては、はじめに(1)(5)で書かせて頂きました。

 

そのモヤモヤした不可解さみたいなものを、先に吐き出して纏めておかないことには、紀行を書くにも居心地わるいような気がしていたからです。

 

多少はそのお陰によって、遅いペースではありましたけれど、何とか大きな躓きもないまま、全ての行程を記事にすることができました。

 

それでも、その場所ごとに遭遇する謎は絶えることなく、記事にしようとする度に湧き起こる新たな疑問には難儀しましたけれど、どうにか個別に、もちろん解決などありませんが、素人なりの考察だけはしてみることができたように思っています。

 

 

 

 

 


この出雲の手強さとは、今まで見て感じ、考えて来たことから推測すると、やはり人々の複雑に交錯した連鎖、ということかと思われます。

 

それも長い歴史で培われ積み重なった人々の繫がりが、現在においても消えないまま奇怪な矛盾を孕み続けて生きている、その混沌ということではないでしょうか。

 

生き神様としての出雲国造、各地で祀り続けられる荒神さま、神在祭を御忌祭として捉える風習、ウミヘビを龍蛇神とする信仰、小泉八雲が描いたような風土、などなど。

 

これらは、例えば有力な神社などにより一元的に管理継承され保存されている〝遺産〟というものではなく、今も市井に生きる人々の心身に現役で脈動しているエネルギーのようなものです。

 

例えば、神魂神社の祷家神事で立てられる「お柴」と名付けられた神籬、あるいは荒神さまの藁蛇、それらはあまりにも地元の氏子さん方々にとって当たり前のものであるため、わざわざそこへ説明看板を設置することさえ思いつかないことなのだと思います。

 

また、荒神谷遺跡が2,000年もの長きに渡り知られることがなかったことは、古来よりその神聖な埋納物を守り続ける口伝が村の中で語り継がれ、いつしか何を守っているのか分からなくなったままでも言い伝えを固く遵守して来た結果ではないかと思われます。

 

 

 

 

 

 

そもそも、最初に問題とした出雲大社の主祭神が本来と違っていたという件でさえ、もしかしたら出雲としての本音では、それがオオクニヌシであろうとスサノオだろうとどちらでも構わない、というスタンスではないかと思えてきました。

 

もちろん、そのどちらでも構わない、というのは、当然ながらイイ加減な思いではなく、どうあろうとどちらも大事だから、という強い思いではないかと考えてみました。

 

どちらも大事な神さまなら、時代の要請や事情に応じて、そこは柔軟に対応するという姿勢が主祭神の変遷に現れているのではないでしょうか。

 

ですから出雲大社に限らず、出雲では他の代表的な神社でもその多くが主祭神を歴史の中で入れ替えて来ているようですが、これもまた、人々の頑強な連鎖によって守られてきた聖地のサバイバルではないかと思えます。

 

神官と氏子共々の誰もが元々の祭神を忘れることなく、遷座もしくは後の主祭神に配祀、合祀、習合などさせることで祭礼の厚みを増しながら、今に至っているように感じます。

 

 

 

 

 

 

そのように、時代ごとの人々の思いや願い、政情の変遷や天変地異、それにまつわる神や仏などが縦糸と横糸になって織り綴られ、幾重にも折り重なって静かに波打つ国、それが出雲ということかも知れません。

 

ただ、そのような歴史の経緯は他国でも同様であることは当然ですが、出雲が特異である点は、大昔の記憶や風習が未だ廃れず今へと受け継がれている伝承力だと思います。

 

出雲では、格段に歴史の記憶が濃厚で、かねてよりの風習が他で見られないほど現役のまま生き残っているのではないかと思われてなりません。

 

もし本当にそうであるなら、それはやはり古代から頑なに言い伝えの風習が守られて来たことによるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 


国として、また郡ごとに、そして郷、ひいては村々や家々にも、それぞれにそれぞれの口伝が今に至って遺されているとしたら、出雲はまさに歴史の坩堝(るつぼ)、これこそ混沌の王国です。

 

そのようなことがありそうな、多分あると思われれてならないのが出雲です。

私の仕事上の先輩で、親しい友人でもある人物が松江は白潟の出身で、色々と故郷の話しを聞いてみますと、それはもう実家から近隣一帯は言い伝えだらけとのことでした。

 

お化けやら神さまやら、松平公にお茶や蕎麦の話もありますが、暗いとこには必ず何かが潜み、あれがあった、これがこうだ、化かされたとかひどい目に遭ったとか、そのような伝説に町が充ち満ちているということです。

 

 

 

 

 

 

その上、その先輩は故郷の人々を「田舎者」と呼びます(笑)

 

まあ、確かに自身の出身地を「田舎」と呼ぶことには何の不思議もないんですけれど、よくよく話しを聞いていると、彼に思い出される故郷の家族・親戚・友人・知人らのありようとして、どこか客観性に欠けるというか、他国からの目線で自らを振り返ることがないというか、まあ良く言えば唯我独尊、悪く言えば井の中の蛙のような、そのような印象を持っているようでした。

 

つまり、いわゆる一般的な「田舎者」というイメージなんですが、松江の市街地はそれほどの田舎ではなく、むしろそこそこの都市ですし、それはおそらく昔からそうだったと思いますから、ちょっと卑下しすぎなんじゃないかと思いましたが、どうなんでしょうか?

 

私はむしろ、その「田舎者」的な頑固さというより、あえて一家言を持ち余所者の視点を意に介さない生き方というか、自らの共同体に固く根ざして裏切らないというか、そのような気質の特異性が、出雲には強靱にあるのではないかと思われました。

 

 

 

 

 

 

もちろん、コメント欄で安来市ご在住の大黒天さんからご教示を頂きました『出雲弁』の地域差から、少なくとも出雲は4つの地域に分類できるようで、

 

『出雲弁』と呼ばれる山陰中部で遣われる言葉も微妙な地域差がありまして
①出雲地域西部(出雲市周辺)

旧平田市地域は、更に独特のきつい訛りがあるのでは?という私の個人的見解

②出雲地域南部(木次・三刀屋)
③出雲地域中部(松江市周辺)

信州松本から越前松平家が江戸時代初期に、堀尾家、京極家に変わって領主になって、松平家の家臣の信州言葉が入っていて、訛りはあるけれど、ちょっと上品な印象?

④出雲地域東部(安来市~鳥取県西部)

言語学の方々には、雲伯方言(うんぱくほうげん)と呼称される分類になっているようです。

 

それぞれの特徴や歴史など、まだまだ私などには全く分かりませんし、たかだか2泊3日だけ初めて訪問した経験では何も知らないのと同じではありますけれど、今後の取っ掛かりとして、やはり(5)で考えてみた出雲の「生真面目」について、これからも考察してみたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

それでは、どうしてここまで出雲に気が引かれ、こだわってしまうのでしょう?

 

その魅力というか魔力というか、不思議な力の源泉は何なのか、思いを巡らしてみれば、やはりその混沌が混沌として濃厚かつ芳醇に、ありのまま平然とあの広大な地域に根強く存在?棲息?していることなのかと思い至ります。

 

かつて、朝鮮半島や中国大陸へと開かれた日本の玄関のひとつであり、越国から九州、果ては南島を往き来する海運の基地ともなって、半島を経由した樹木や穀類がもたらされ、精銅・製鉄技術により大きく発展した王国でしたが、いつしか奈良に中央集権が確立されて以降、首都が京都から江戸、そして東京へと遷移する中で他国との陸路が中国山脈に阻まれている地形もあり、出雲平野は次第にガラパゴス状態となって行ったのではないでしょうか。

 

しかしそのお陰なのか、今も人々の中には古来よりの伝統と風習が淘汰されず生き残り、それらが様々な混沌の綾となって息づいているのだと思われます。

 

 

 

 

 


あと、単に観光地としても、出雲は本当に風光明媚な素晴らしいところだと思います。

 

山奥の方は行けていませんから分からないのですけれど、島根半島と出雲平野周辺、宍道湖や中海など、海と湖、山と川と田園など、どこも自然が豊かで心地よく、魚貝類に蕎麦などグルメも豊富です。

 

また、神社、寺院、灯台、博物館、美術館、松江城、旧大社駅など見所も充実していますし、温泉や旅館も申し分ありません。
それでも島根県は、「自分とは無縁だと思う都道府県はどこ?」アンケートで No.1 だそうですが(苦笑)

 

この、何となく自己アピールのあまり上手でない様子も、まさに出雲らしいと言えばその通りかと思いますし、あまり人気観光地にはなって欲しくないという気持ちも、勝手ながらあります。

 

 

 

 

 


今回、色々と調べていましたら、出雲関係の資料は結構ネット上に公開されており、島根県や松江市のホームページでは参考になるPDFが沢山あるのですけれど、どうしてかトップページからはおそらく誰も辿り着けません。

 

この初夏出雲行でも何点か引用させて頂きましたから、ご覧になった方もおられるかと思います。

 

それらはいつも先ずGoogleで気になるワードを検索し、ようやくその資料の存在を知ることになるのですが、どうして興味ある人がトップページから入って分かりやすく閲覧できるようにしないのか、折角の資料ですからもっと活用しないと勿体ないと思うのですけれど、いかがでしょう?

 

また、神魂神社の[補足]で引用させて頂いた書籍『松江の民俗芸能』ですが、これは「日本の古本屋」に在庫があり入手できましたけれど、後で調べると実はその改訂増補版が、島根県教科図書販売株式会社ホームページ郷土出版物目録の中で、普通に販売されていました。

 

しかしこれは、検索でも簡単にヒットせず探し出すのにひと苦労でしたから、どうせ出版したなら販売の委託を地元の教科書販売会社だけに頼らず、自らアマゾンへも出品しておけばイイのにと思わずにはいられませんでした。

 

さらに、(45)で引用させて頂いた河原城風土資産研究会のブログに『出雲の源郷 斐川の地名散歩』との書名がありましたので、どのような本か調べてみたところ中々見つからず、ようやく出雲市立図書館出雲市ガイドブックというページにあるPDFデータで確認できました。

 

これも、もっと分かりやすく公開すればと思うのですけれど、やはり自己完結ならぬ地元完結としか評価できない埋没情報となっています。


このように、広く他都道府県へと発信できない自己アピールの下手さ加減は、出雲の気質なんでしょうねぇ…

 

 

 

 

 

 

私などが考えるとしたら、全国に出雲へ関心を持つ人は多いと思いますし、その情報を求めている人も多数おられると思いますから、このような資料や書籍の情報は埋もれたままにせず、県などで一括総覧したリンクページなどを作って公開すれば、たったそれだけでアピール力が格段に増大する、と思ってしまいますけれど。

 

何も新しいことを始めるというわけでなく、既存の情報資産を収集し、分かりやすくまとめるだけでイイんですが。

 

 

…とは言え、もしかしたら、そのような不特定多数の余所者を対象とした自己アピールこそが、出雲ではそもそもあり得ない行為であり、どうしても馴染めないのかも知れません。

 

元来、その村々、その家々で伝えられてきた口伝や伝承など、そう易々と一見の余所者に教えるわけにはいかない、そのようなことを思いつきさえしないという流儀が今でも強く存在するとすれば、それはやはり仕方のないことかとも思われます。

 

何より、そのように「生真面目」な気質が根付いているからこそ、荒神谷遺跡が2,000年もの間、誰にも暴かれず守られて来たのであったとしたら、それはそれで出雲らしい〝美風〟と言えるのかも知れませんから…

 

 

 

 

 

 

ということで、とりとめないままではありますけれど、出雲について思うところを綴らせて頂きました。

もし何か失礼や至らぬところがございましたら、何とぞお知らせを賜りますようお願いを申し上げます。

 

 

そして次の、今シリーズ最後となるあとがき㊦では、この出雲行を機会として、ごく私的な事々につき思ったことなど書き留めておこうと思っています。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

~いつも応援ありがとうございます~

あとがき㊦ ごく私的な動機について〜初夏出雲行(50・最終回)

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あとがき㊤ 出雲に思うこと~初夏出雲行(49)←(承前)

 

 


この度、出雲の地を初めて訪問した私が、どのような経緯でそこへ至ったのかという、ごくごく私的な事柄を綴っておこうと思います。

 

自分勝手な事々ですから、どうかなとも思いますけれど、ともあれシリーズ最後ということで、何とぞご容赦くださいませ。

 

 

 

 

 


まず、とても異例なことだったのですが、今回ほど旅行前に下調べをしたことがありませんでした。

(1)でご紹介した主な参考図書ですが、これらは出雲へ行くことに決めてから読み始め、行くまでにはほとんどを読んでしまいました。

 

いつもなら、どこかへ行こうと決めればネットで必要情報を集めるくらいで、本をガッツリ読んで予習するなど、あまりしたことがありません。


なぜなら、行ってみないことにはそこが好きになるかどうか分からないため、分からないことに対し、そこまで予習する意欲が湧くということのない性分だからです。

 

 

 

 

 

 

もともと、実は歴史などにあまり興味がありません。
学校の教科でも、歴史は苦手なもののひとつでした。

 

それは、ほとんどが自分に興味ない事柄のオンパレードであって、ごく一部の興味ある事とも実は全てが密接な関係を持つことは分かっているのですが、どうしても面倒な気分になり記憶や理解がついていきません。

 

そのため、好きか嫌いか分からないことのために調べごとをするのは苦手なのです。

 

ただ、旅行はもともと好きですし、地図を見るのも交通機関や道路を調べることも好きですから、旅行の計画を立てることに苦はありません。

 

そこで、どこか気の引かれる神社仏閣の評判を目にすれば行ってみたいと思うわけですが、事前にはその祭神や本尊と最低限の由緒、境内の配置や見所、境外社の有無、そして周辺に他の訪問すべき候補があるかどうかなどを確認するだけです。

 

後はひたすら行程作りに集中するのが、いつもの旅行準備ということになります。

 

 

 

 

 


それでは、なぜ出雲に関しそこまで例外的に予習へ熱中したか、よくよく考えてみましたら、どうやら気付かぬ間に、出雲への興味が私の中で超巨大化していたようです。


実際に行くことが決まると初めて、それが一気に表面化しただけのことでした。

 

2006年、初めて三輪山へと登拝して三輪に魅せられ、次に翌年、伊勢へもその流れで行くと伊勢も好きになりましたから、もちろん関連する出雲への興味もいや増しに湧いてきたのは確かですが、出雲へすぐに行けないまま出雲大社の大遷宮が2008年に始まって、本殿修造中のまま人出も多くなっていたため、長らく行く機会が得られませんでした。

 

この間、様々な聖地へと赴くことが主要な楽しみになって行きますと、彼の地や此の地のどこでも出雲が関連することを思い知るにつけ、自分では中々ハッキリと自覚できませんでしたけれど、出雲へ行けないストレスが、次第に身中へ貯まり続けていたようです。

 

 

 

 

 


そもそも私は三輪へ初めて行くまで、神社や仏閣などにほとんど興味がありませんでした。

 

観光や散歩のついでに立ち寄ることはあったにしても、だからどうしたという感慨もありません。
初詣くらいは、年越しのイベント気分で行くこともありながら、それはそれだけのことでした。

 

もちろん記紀神話など、小さな頃に絵本で因幡の白兎を読んだ程度のことです。

 

ところが、その頃に親しくなった友人から強引に三輪へと誘われて、一度目は春頃、急な日程で平日でしたからさすがに仕事の都合もありお断りましたが、二度目は7月、何とか都合もつき、あまり気乗りしないままでしたけれどお付き合いすることにしました。

 

 

 

 

 

 

「そんな、そうめんしか無さそうな田舎の神社へ、何しに行くの?」と私。

「あんた、三輪の大神神社知らんのかいな、今行けへんかったら縁なくすで~」と友人。

 

けれども私には、「縁」と言われたところで何のことか分かりませんし、そのように強要されても、あずかり知らぬそのような「縁」に必要など露ほども感じません。

 

さらに友人は、四柱推命での占いを生業にしていたため、こちらの都合などお構いなしに日時を指定して来ます。

その上たまたま私と同い歳で、自分の吉日と吉方は、私も同じなんだと荒っぽいことを言いますから、出生の日時は違うのでそんなわけないでしょう、と反論しても聞く耳を持ちません(苦笑)

 

まあ、もともと面白くて情の厚い人物ですから、そのように漫才みたいな遣り取りをした後、ともあれ2度目のお誘いには乗ってみた、という状況でした。

 

そこで私はサチエとともに三輪へと向かい、現地で友人とその家族に合流します。

 

 

 

 

 

 

その日の詳しい次第は別の機会に譲りますけれど、そこで私とサチエそれぞれにとって三輪山が特別な存在であると感じられた理由は、このようなことでした。

 

小雨の降り続いたその日、私が安物の雨合羽で汗だくとなり、運動不足のため息も絶え絶えに泥だらけでようやく山頂近くまで辿り着いた頃、あれ? とあることに気付きます。

 

もちろん初めて登る山の筈ですが、ずっと昔から知っているような気がしました。

 

この感覚は? とその場で考えてみますと、既視感でもなく、単に似た経験を覚えているということでもなく、どうやら生まれる前の大昔からずっとこの三輪山に居て、今までもこの三輪山に居て、だから今もこの三輪山に居る、という感覚です。

 

そうなると日常の全てが幻のようにも感じられ、何故かしら心底から、懐かしい感情が湧き出て止まりません。

 

 

 

 

 

 

一方サチエは、山頂近くで、とある人に出会ったということです。

 

それは、すれ違っただけで声も掛けられなかったそうですが、長い間できることなら会いたい、一目でいいから元気な姿を見せて欲しいと思い続けていた人に会えた、と言っていました。

 

まあ、これらは単に思い込みだけのことでしょうし、おそらく、雨中の登拝で疲れた脳に何か変調が起こったのであろうと考えますけれど、それはもしかしたら、いわゆる変性意識状態だったのかも知れません。
Wikipedia/変性意識状態

 

ただ、本当の客観的な事実はどうであれ、私たちがそのように何の準備も訓練も予備知識もなく思ってしまったことは現実ですから、希有な感覚的体験としてそのように思わせて貰えたと思えば、この三輪山ってスゴイね、ということになる他ありません。

 

 

 

 

 

 

あと、神という概念について、私にとって何より決定的だったことは、三輪山とはあくまでも自然の山でしかなく、それはそのまま眼前に聳えるままに存在し、それこそが神であるとする認識が単純明快で分かりやすく、私の心に違和感なく受け入れられたことです。

 

それまで神社といえば、祭神はおおよそ神話における人格神ですから、基本的に人間の作り上げた権力・権益の象徴と思っていましたし、今でもその考えは変わりません。

 

ですから、自然崇拝というものへ実際に初めて触れることで、おお!これだ!!的な感動がありました。

 

また、自然崇拝を受け入れて基軸へ据えることにより、それまで何だかよく分からなかった宗教とか歴史とか、興味のなかった事々へも俄然と好奇心が湧いてきたのです。

 

 

 

 

 

 

縄文期以前、人はそもそも今とは比べものにならないほどピュアであったでしょうから、どうして現代がこのような状況に陥ってしまったのか、自然崇拝とのブレ幅から考えると何か見えてくるような気がします。

 

さらに、宗教以前の哲理として初期仏教の経典などにも興味が湧いて読んでみますと、思っていた価値観とは全く違って目から鱗がバラバラと落ちるようでしたし、記紀神話を現代語訳で知ってみれば、そのエグい内容と不可解だらけのストーリーに驚きの連続でした。

 

そのような混乱の中、40代も後半を迎えたオッサンの価値観は大きく転換して行くことになり、三輪山のお陰をもって、「まあ人生、色々あるけどカンナガラでエエんとちゃうかな」と思えるようになります。

 

以降、私は三輪フリークとなって様々な関連資料を探し読み始めました。
また月に1~2回は三輪山へと登拝することが1年ほど続き、今でも年に4~5回は通わずにおられません。
以来、三輪山のことを強く思うと、手の指先が痺れるようになってしまいました(笑)

 

 

 

 

 

 

神社参拝の基本も、月次祭への参列や祈祷によって実地に知ることとなり、神社というものへの知識も三輪と伊勢に関する資料で得ていくことになります。

 

特に三輪をもとにした出雲への興味は、ひとつに大神神社の主祭神である大物主(おおものぬし)、ひとつに三輪山の東端へ連なる巻向山に坐すダンノダイラという聖地によって強く喚起されるものでした。

 

オオモノヌシとは、オオクニヌシの別名でその幸魂奇魂であり、オオクニヌシ自身によって三輪山に祀られたとされます。
Wikipedia/大物主

そうなれば、オオモノヌシのオリジナルであるオオクニヌシのことが気になりますし、私にとって出雲大社は早々に是非行ってみなければならない一社となりました。

 

そしてダンノダイラは、三輪山頂へと繋がる尾根のツボ的な位置に坐す巨大な磐座を擁した山中の聖地です。

そのダンノダイラは古代の出雲ムラであり、古代出雲の人々が暮らしたという集落地で、時代とともに人々は里へと下って暮らすようになりますが、明治の初めごろまで年に一度、桜井市出雲の村民はこのダンノダイラへと登って出雲の先祖を祀って偲び、一日中、相撲をしたり宴会で盛り上がったとのことです。
日々のさまよい/大和の出雲

 

三輪に出雲、となれば、やはりどうしても遙か出雲の地へと行ってみなくてはなりません。

 

 

 

 

 


ちなみに、私にとって神社や仏閣で大事となるのは、社殿や伽藍ではなく、その「地」そのものとなります。
それは自然崇拝の観点から、どのような聖地なのか、ということが自分にとって最も重要と思われるからです。

 

そのため、例えばご神体とかご本尊とか、それが何であれご開帳の有無などあまり関係がありません。
ただし、祭神や本尊が何とされているか、その変遷があれば時期や理由など、とても気になります。

 

それは、何が祀られて来たかということによって、その聖地における神仏と人間の関係およびその歴史が表されると思うからです。

 

もともと数ある聖地のほとんどは、縄文期より以前から人々に聖地と認識されて来たことと思われます。
そこを神聖視したことには、自然崇拝に基づく確たる理由があった筈です。

 

そしてそれ以降の変遷は、自然と人間とのコラボレーション、あるいは人間による聖地の濫用、もしくは冒涜かも知れませんけれど。

 

 

 

 

 

 

例えば京都の清水寺は、その本堂裏手が巨大な自然ままの磐座であり、その磐座を神体とした地主神社があったところへ磐座の横へ取り付くように本堂と舞台が建造されています。

 

つまり、本尊の千手観音を拝すということは背後の磐座を拝すことになっており、逆に見れば、千手観音が磐座の霊力を背に受けて遍く衆情へと慈悲を施す、という仕組みになっています。

 

これは中々に素晴らしい自然と人間とのコラボレーションかと思っていますけれど、いかがでしょう。
あの清水寺が、開創1,200年を越えてあれほどの人気を今に持続させ繁栄している理由のひとつが、この聖地の力を最大限に活かした仕組みだとしたら、スゴイことです。

 

初めて三輪山にそのような自然崇拝の素晴らしさを教えられ、各地の聖地へと足を運ぶようになった今、出雲行での眼目も、そのような聖地探訪となります。

 

しかし、まだまだ通り一遍の巡回しか出来ていませんから、本当の探訪はこれからの課題となりました。

 

何より山々へと登ってみなくては、その聖地である所以は何も分かりません。
また、斐伊川も遡上してみなくてはと思いますし、島根半島へはその両端と真ん中の佐太神社しか訪れていません。
雲南や奥出雲へも未踏のままですし、周辺の鳥取や太田市も気になります。

 

まあ、どれほど日程を取ったとしても切りがないとは思いますので、またまたストレスが貯まりそうで心配になりますが(泣)

 

 

 

 

 


あと、このブログについて、これほどまでに後ほどアレコレと調べ直して考えてみたことは、ほとんどなかったことです。
その量も全50回ですから、よくもそこまで続けられたものだと、自分のことながら感心してしまいます。

 

これも、なかなか出雲へ行けなかったストレスがさせたことかと思いますけれど、そうせざるを得なかったプレッシャーも、出雲の濃密な「生真面目」を思う気持ちからあったと思えます。

 

手を抜かずシッカリお書きなさい的な圧力を、いつも何処かから感じていました(笑)

 

それはやはり、私自身の中で無意識に思う気持ちが現れていることですから、私が出雲をそのように捉えているという証左かも知れません。

 

まあ、これも祈りみたいなことなのかと思いました。

 

あちらこちらの聖地へと赴くことばかりが巡礼というわけでなく、時には写経をするようにジックリとひとつひとつの聖地へ思いを馳せて過ごすことも、また違った拝礼の有り様であるかもと思えます。

 

 

 

 

 

 

ともあれこの1年、休日もあまり外出せず仕事はそこそこに出雲の調べ事とブログに時間を費やしてしまいましたから、公私ともかなり偏った状態になりましたので、ここらでちょっと巻き戻しが必要となりました。

 

ということで、これにて一旦、初夏出雲行の満願ということにさせて頂きます。

 

なお、最後となりましたけれど、あらためまして、色々と引用させて頂いた記事や写真の引用元各位へ、本当にお世話になり厚く御礼を申し上げます。
勝手ながらそのほとんどが無断引用であります失礼を、どうか何とぞご容赦くださいませ。
万一何か問題がございましたら、いつでもご連絡を賜りますようお願いを申し上げます。

 

 

ありがとうございました。

 

 


(おわり)

 

 

 

 

 

~いつも応援ありがとうございます~

駅前から滝道へ入り落合谷橋へ〜新緑の箕面公園(1)

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先のゴールデンウィーク最終日、天気も快復しましたから、お気楽に近場の箕面公園で新緑の森林浴を楽しみました。

箕面公園は明治の森箕面国定公園の一角で、日本の滝百選のひとつ箕面大滝(みのおおおたき)へと至る滝道の基点が、箕面駅前となります。

川沿いに約2.7kmで徒歩40分ほど、標高差約123mのなだらかな坂道が続く滝道は、紅葉の名所として知られています。

そのため秋には人混みが苦手なため来たことがありませんけれど、その代わり新緑の季節には、その滝道を覆う青々としたカエデが太陽光を透過して美しく映えるため、爽やかな散策にお奨めできる癒やしのスポットです。

今回なぜか調子に乗って写真を撮り過ぎてしまいましたので、コメントや引用はなるべく控え、新緑の様子をできるだけ多くご覧頂こうと思っています。

そこで先に、主な参照サイトをリンクさせて頂きます。

 

箕面公園 公式サイト
箕面市/観光案内

 

箕面観光ボランティアガイド/箕面滝道こぼればなし(第1集)
箕面観光ボランティアガイド/箕面滝道こぼればなし(第2集)

 

箕面山瀧安寺ホームページ
聖天宮西江寺ホームページ

 

なお、↓こちらのブログでもかなり詳しく紹介されていますので、ご興味ございましたらぜひご参照ください。

情緒纏綿 大阪 箕面逍遥①箕面公園<前編>
情緒纏綿 大阪 箕面逍遥②箕面山瀧安寺
情緒纏綿 大阪 箕面逍遥③聖天展望台・聖天宮西江寺
情緒纏綿 大阪 箕面逍遥④箕面公園<後編>エピローグ

 

 

 

 

 


箕面駅、朝の7時半ごろ。
阪急箕面線の終点となります。
梅田駅から26分ですから、都心から近くて便利です。






ここが滝道の入り口。
かつては箕面大滝まで馬車がありました。



大阪府営公園デジタルアーカイブス/箕面公園/観光馬車




















 

箕面観光ホテル箕面スパーガーデン
高度経済成長期には根強い人気を誇りながら次第に衰退するも、今は大江戸温泉物語グループの一員となって再生復興中のようです。










 

「右翼のドン」笹川良一の銅像。
笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表している、とのこと。

ここと、笹川記念会館、船の科学館、全国の競艇場、競艇関係の施設に、この孝子像(こうしぞう)が存在するそうです。
笹川さんは、箕面市名誉市民。

後ろには、CMでもお馴染みだった「世界は一家、人類は皆兄弟」の石碑。

Wikipedia/笹川良一





 

滝道を少し登った右手に、これも駅方面へと降りる中の坂がありますが、これが滝へ向かう途中の瀧安寺へ至る元々の参道。

中の坂はここから少し登って町へと下るのですが、そのピークに聖天宮西江寺があります。
今回はここへの参拝は後回しにし、帰りに寄ることとしました。





 

滝道の脇を流れる箕面川。

Wikipedia/箕面川

































































 

野生の藤。



















































































































 

瀧安寺の鳥居。

修験道の一派である本山修験宗ということで、お寺ですが完全なる神仏習合の姿を今に伝えており、本堂の弁天堂も、奥殿と拝殿から成る神社形式を守っています。

ここへの参拝も帰路にて後回しとなりますが、滝道に沿って境内がありますので、ご無沙汰の気持ちもあるためチラチラとのぞき見しながら進みます。










 

こちらは正面の山門。
左の建物は寺務所となります。





 

こちらは川向こうの、庫裏、客殿、鳳凰閣、学問堂などだそうですが、入れないため詳しく知りません。





 

まるでお城のような瀧安寺の石垣。





 

滝道の上に朱塗り欄干の瑞雲橋が渡されて、左右の境内を繋いでいます。















 

鳥居の奥には護摩壇、左の階段を上がると本堂の弁天堂へ至ります。
ここから滝道を逸れて、境内へと入ります。





 

石段を登って奥の境内へと入り、来た方を振り返ります。
ちょっと珍しい妙音天の仏像が祀られています。





 

正面が、本堂の弁天堂。
それを紹介するポーズのサチエ。

手前の百度石にご注目ください。





 

百度石の裏には、施主として「正司歌江・照枝・花江」のお名前が。
もちろん、言わずと知れた「かしまし娘」師匠です~(笑)

 


かしまし娘(c)松竹芸能
イザ!ニュースまとめ/若手が挑戦!真夏の道頓堀角座に松竹レジェンド芸人ネタ集結

 









 

大黒天堂。
大黒天と恵比須天が祀られています。

























 

左へ上がっていく階段は、野口英世像へと続きます。



































 

このトンネルというか短い隧道の先に、落合谷橋が見えています。
その道を進めば、池田市の五月山へ至るとのことですが、未だ行ったことはありません。

実は正面に祠があり、何を祀っているのか分かりませんしちょっとコワイ感じです。
トンネルの両側に、縦長の葉っぱみたいな彫刻がありますけれど、これはもしかしたら、お不動さんの持つ倶利伽羅剣(くりからけん)でしょうか?

 




 

今回はちょっと勇気を出し、くぐって向こうを見てみることにしました。





(つづく)→ 落合谷から滝道を滝見橋へ~新緑の箕面公園(2)

 
 
 
 
 
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落合谷から滝道を滝見橋へ〜新緑の箕面公園(2)

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駅前から滝道へ入り落合谷橋へ~新緑の箕面公園(1)←(承前)








落合谷は、鬱蒼とした森に覆われています。






落合谷橋。
この先に見えている小振りな五輪塔の右横に、瓦屋根でコンクリート製と思われる小さいながら立派な祠があります。
いったい何が祀られているのか、分かりません。













トンネルの方を振り返ります。
やはりサチエは、少し気乗りしない様子。







とはいえ、せっかくですから、上り坂を少し奥へ進んでみます。












砂防ダムがありました。
道は、左奥へとつながっています。
人の気配は全くありませんけれど、ちょっとボンヤリしていると、その道の奥からトレイルランニングしている方が出てきました。
時刻は08:30ごろでしたから、もう山を一巡りして降りてこられたようで、チョットびっくりでした。




































砂防ダムの前からもと来た道を戻ると、落合谷橋の下を流れる箕面川の支流沿いに、滝道へと出る道がありました。
ということはどうやらトンネルは、砂防ダム用の車両が通れるように掘られたもののようです。






落合谷橋を見やりながら、支流沿いの道を下ります。


















後から続くサチエ。
その右側に見えているのが、正体不明の祠。
















































滝道へと戻りました。
これは落合橋で、向こうの右手がトンネルの入り口となります。






無事に滝道へと帰還できてVサイン。

















































右が来た方向で、左がこれから向かう大滝。
左下へは谷底の箕面川に沿って地獄谷へと降りて行く山道です。












サチエ曰く、ヒメツルニチニチソウ(姫蔓日々草)、別名ビンカマイナーという脳の機能改善に効果がある薬草だそうです。














































































木に止まった大きな蛾をサチエが発見。
半透明です。
以下、苦手な方はご注意ください(笑)






アップして撮ってみました。






さらにアップ。
オナガミズアオ、もしくはオオミズアオという種だそうです。
きれいですが、ちょっとコワイ(泣)
蛾色灯/【0088】オナガミズアオ 本土亜種






















































先を歩いていたサチエが、巨大な岩に取り付いています。
まさか、登るつもりなのか…?












無謀にも、唐人戻岩が転んで落ちないよう、支えているポーズとのこと(笑)












この戻岩橋を渡れば、箕面大滝はもうすぐです。












橋の上で、日向ぼっこをして微動だにしない黒猫。
ピクリとも動かずにこの状態ですから、行き倒れかと心配して近づいても反応しません。
しばらく見守っていると、気持ちよさそうにモゾモゾしたりしていましたから、日光浴に没頭しているようで安心しました。
人に慣れて唯我独尊の境地です。






















































河鹿荘別館ほととぎす。
まさに昭和の観光地そのままの趣です。
なお、名前にある河鹿荘はすでに廃業しており、今はイタリアンダイニング箕面かじかそう、となっています。
ともあれここで、復路に温かいうどんとそばを頂きました。






大滝の上にある駐車場へと至る上り坂。






朱い滝見橋が見えて来ました。


















チラッと、箕面大滝が見えています。
ということで、ようやく次にその大滝をご紹介いたします。





(つづく)

 
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箕面大滝を満喫して滝道を下る〜新緑の箕面公園(3)

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落合谷から滝道を滝見橋へ~新緑の箕面公園(2)←(承前)


 



普通なら40分ほどの道のりを、ウロウロノロノロとやって来ましたから、100分ほどかかってようやく箕面大滝へ到着です。



















大滝の前にはベンチが設置されていますので、人出が少なければノンビリとマイナスイオンを満喫できます。


















滝音に耳を澄ませるサチエ。

2007年に開通した箕面トンネルの湧き水をこの滝上流へと放流しているため、一時は人口滝との噂も流れました。
しかしその水量は全体の一割にも満たず、箕面の自然水であることはもちろんですから、心ない風評だったと思います。
箕面観光ボランティアガイド/①ガイドの嘆き(滝についてのあらぬ噂)










































パノラマ用に何枚か撮って、合成してみました。






30分ほどゆっくり過ごし、滝道を戻ります。






































































 

瀧安寺に釣鐘がないのは箕面川に落ちたから?
箕面川の唐人戻り岩と箕面大滝の中間に「釣鐘渕」という深い渕があります。ここは昔、箕面寺(現瀧安寺)に納める釣鐘を牛の背に乗せて通りかかったところ、余りに急な道だったので牛もろともに転げ落ち、牛も釣鐘も二度と浮上しなかった、と言われています。今も瀧安寺に釣鐘や鐘楼がないのはこのためだという伝説があります。

箕面滝道こぼればなし/第1集/第十話















































































サチエがスマホを手にしているのは、写真を撮る私を撮っていたそうですが、私はいまだにその写真を見ていません(苦笑)




























































往路で出会った半透明の蛾が、復路でもまったく同じ位置に止まっていました。
夜行性なのでしょうか?(笑)
























光を透かしたカエデの葉。
これぞ新緑、ですね。
























カエデや蛾のように、何だか少し半透明になったサチエ。


















変なウロの木。






変なウロの木と記念撮影。
























トンボ。






調べてみましたら、アサヒナカワトンボ(カワトンボ、ニシカワトンボ)のようです。
昆虫エクスプローラ/昆虫図鑑/アサヒナカワトンボ​






アップ。






























赤い椿が咲き残っていました。






瀧安寺本堂、弁天堂の真裏へと着きました。
この境内奥から山門へと逆行しながら、参拝していきます。

サチエがさらに半透明のようです(笑)





(つづく)


 
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役行者を助けた弁財天を祀る瀧安寺〜新緑の箕面公園(4)

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箕面大滝を満喫して滝道を下る~新緑の箕面公園(3)←(承前)

 






しばらく来なかったら、弁天堂は小綺麗に修造されていました。
ここは本堂の裏手。

箕面山 瀧安寺
箕面山は古来より瀧を中心に山嶽の修行の道場として発展し、日本でもっとも古い修行地の一つです。658年役行者が大瀧のもとで苦行を重ね弁財天の助法を受けて悟りを開き、その報恩のため弁財天を祀り箕面寺と称したことが龍安寺の起源です。

箕面山瀧安寺ホームページ

本堂(弁天堂):後水尾天皇の寄進で、奥殿と拝殿から成る神社形式になっている。本尊に弁財天、脇尊に毘沙門天と大黒天を安置する。

Wikipedia/瀧安寺






弁天堂の拝所に、猫が寛いでいました。
私がそれに気付かないまま正面へ歩いて行くと、後ろからサチエがキャッと小さな悲鳴を上げるので、どうしたのか振り返ったら、足下に猫、と言われ見てみると、今にも踏んづけそうになっていました。
猫はそれでも悠然としたままです(笑)






どう近付こうとも、微動だにしません。






こうしても…






何としても動きません。
往路の戻岩橋で日向ぼっこしていた黒猫と同様、箕面の猫は泰然自若の境地です。






この境内区域で一通りの参拝が終わったため、私が写真を撮り始めると、サチエは猫に遊んで貰う~と言って本堂前に戻ります。






妙音天像。
弁財天は、『大日経』で妙音天、美音天と呼ばれるそうです。
Wikipedia/弁才天






役行者(役小角)を祀る行者堂(開山堂)の拝殿。






この時すでに、猫は後で来た参拝客の連れた子供に追われ、どこかへ退散してしまっていたそうです。











行者堂(開山堂)奥殿。
主尊に役小角、脇尊に不動明王と蔵王権現。

699年に伊豆島へ流罪となっていた役行者(役小角)は、701年の大赦により生誕地の大和国葛城上郡茅原へ帰るも、その年、箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わるそうです。
Wikipedia/役小角







神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)とは、光格天皇が役行者御遠忌(没後)1100年に際して贈った諡(おくりな)です。






役行者の像と、右の小屋には確か井戸があるのだったと思いますが、記憶が曖昧です。












大黒天堂。
エビスダイコクが祀られています。












左右両脇に水墨画。















左から、白龍大明神、箕面山神社、熊野三所権現社。






本堂横に、開運出世地蔵尊。






本堂(弁天堂)の拝殿。


















拝殿内部。
お賽銭用の大きめに開いた格子にレンズを突っ込んで、撮らせて頂きました。
向こうが奥殿(本殿)。






猫を蹴散らしたチビッ子が、祖母ちゃんに手水を教わっています(笑)



























































次はこの階段をくだって、山門方面へと向かいます。






本堂を振り返り、再訪を期して一揖。






左の石垣の上が、先ほどの境内。
こちらは護摩壇です。






護摩壇の奥に、五所明神社。
この五所とは、どこのことなんでしょう?
おそらく三所は、熊野権現かと思いますが












役行者と、それに従う前鬼・後鬼。



   



















滝行場。
お不動さんがおられますけど、見えますでしょうか?






不動明王。






写ってないながら細い滝水が落ちており、バケツはそれを受けるため置かれています。
























2002年に再建された観音堂の裏手までやって来ました。
左手の下に滝道が通り、箕面川が流れています。
朱い橋は往路でも見た瑞雲橋。






観音堂。






燈籠の台に刻まれた「聞か猿」と、そのポーズを猿真似するサチエ(苦笑)






さらに「言わ猿」。












奥の角に鎮座するのは、如意宝珠。











Wikipedia/如意輪観音


智証大師
Wikipedia/円珍
千観上人
Wikipedia/千観


真言宗弘法大師の両脇侍に天台宗の高僧という取り合わせが、なかなか妙です。







観音堂から山門を望む。
この右手に、いつも〆でお参りするお地蔵さんがおられるのですが、何故か写真を撮り忘れました(泣)






この山門は、京都御所内にあった桜町天皇の御座所の門を光格天皇により賜って移設したとのこと。
情緒纏綿 大阪 箕面逍遥②箕面山瀧安寺



































箕面公園昆虫館です。

大阪府/箕面公園昆虫館の紹介ページ







連休ということもあって、昆虫館は賑わっていました。







滝道延命阿弥陀如来。


















































次の最終回では、箕面における役行者もうひとつの聖地、聖天宮西江寺をご紹介いたします。




(つづく)

 
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役行者が歓喜天と出会った西江寺〜新緑の箕面公園(5・最終回)

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役行者を助けた弁財天を祀る瀧安寺~新緑の箕面公園(4)←(承前)








滝道をくだって行きます。






また、カワトンボです。






アップしてみました。
羽根にピントがきてますが、肝心の目玉がピンぼけでした。






さらにチャレンジ。






こちらも惜しいながら、やはり顔がピンぼけです。






そして、再チャレンジ。






ようやく目玉にピントがきてますが、羽根はボケボケです。
私は撮影に一眼レフを使っていますが、基本的に絞り優先オートで絞りは開放値のため望遠だと特に被写界深度が浅く、小さなものを撮ってアップすると、大方こんな感じになります。











サチエが、川辺に咲くシャガの花を見つけました。

Wikipedia/シャガ































大正15年建築の邸宅を改装した寿司会席の料理旅館、音羽山荘が見えてきました。
その正面で箕面川にかかった聖天橋を左へ渡り、聖天山緑地へ入っていく上り坂に向かいます。






聖天橋の上から上流を望む。






Google Mapによると、左が西江寺の「みのお聖天写経場」、右が「みのお聖天歓喜庵」だそうです。
前は右の建物が写経場で、左の建物はなかったように覚えていますから、西江寺もそれなりにご隆盛の様子です。






来た坂道を振り返ります。











不動明王。
ここから西江寺の参拝が始まります。

といっても、ここから丘を越えて西江寺の境内へ入るのですが、それは本堂の裏手ですから、瀧安寺でもそうだったように、滝道の上流から下る方向へお参りすることになり、真っ当に正面からお参りするのと全く逆方向になります(苦笑)







ここから聖天山の遊歩道を上っていきます。






























箕面川をはさんだ向こう側に、往路で見た箕面観光ホテルが望めます。












西江寺の裏口?
境内の一番奥に建つ本堂の横へと入る坂道。












大黒天は西江寺の本尊ではありませんけれど、阪急沿線(宝塚線)西国七福神集印めぐりで西江寺の大黒天が選ばれているため、大々的にフューチャーされています(笑)






境内へと入りました。
左が本尊の大聖歓喜天を祀る本堂。






ここから降りてきました。





本堂。

聖天宮 西江寺
聖天宮西江寺は修験道の開祖である役行者によって建立された大聖歓喜天霊場の根本道場です。天平年間より聖武天皇の勅願を受け摂津国神宮寺として信仰を集め、明治時代の末期頃より現在の聖天宮西江寺に改称しました。

聖天宮西江寺ホームページ

寺伝によれば、658年に役小角(役行者)によって開山されたという。ある日、光の中から老翁に化身した大聖歓喜天が現れ、役小角はこの箕面山を日本最初の歓喜天霊場としたという。

Wikipedia/西江寺(箕面市)

 

Wikipedia/歓喜天



















大聖歓喜天と十一面観音の真言。






靴を脱いで外陣まで入室可です。






座布団もあって、ほっこりとお参りさせて頂けます。
机の上には、境内各堂での真言一覧と、般若心経も自由に頂けますので、何ともご親切なお心配りです。



























石段を降りると、授与所と手水舎があります。






























そこからさらに石段を降りると、大黒堂と寺務所、そして役行者と歓喜天の化身である老翁が対談したとされる「対談石」があります。












新緑の中に、紅いカエデが華やかさを添えます。






大黒堂。
大日如来、不動明王、大黒天、弘法大師が祀られています。
















































2つある「対談石」の間にニョッキリと二股に伸びた杉。
もちろんご神木です。






歡喜天 役小角
出現對談石






日本で初めて大聖歓喜天がこの「対談石」に出現し、役行者と向かい合って話しをした、ということです。



















ということで、さらに石段を下ります。
























石段途中に、弁天堂。
弁財天と役行者を祀ります。












弁天堂の横に、白龍歓喜天の祠。
オオデマリが純白の可憐な花を咲かせていました。


















石段を挟んだ弁天堂の向かい側には、神さまが祀られています。
左から、天満大自在天神、吉野大明神・吉竹大明神、金比羅大権現。
その向かって右手にはお地蔵さまが並びます。






この鳥居が、西江寺の正面となります。












無事にお参りを終え、意気揚々のサチエ。












ここにも二股の神杉。












往路でチラッと覗き見た滝道からの道を下ります。
とここで、休憩した境内の東屋へ私がカバンを置き忘れていることに気付いたため、サチエだけこの道を行きました。
私は忘れ物を取り返すと、うろ覚えながら滝道へと至る最短の裏道を使ってサチエを追います。






そしてようやく滝道の入り口、箕面駅が見えてきました。
実は、箕面参りで最大のお楽しみとなる特別な直会が、ここにあります。






梅原酒店。
大阪名物ともいえる酒販店での立ち飲みが、私たちにとってサイコ~の直会となります(笑)
サチエが意気揚々としてしまうのも致し方ありません。

食べログ/梅原酒店


まだ15:00前ですが、すでに店内は大盛況でした~





(おわり)





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列車を乗り継ぎ福知山の大江へ〜冬至丹波丹後元伊勢行(1)

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今から1年半前、2014年の冬至に丹波丹後の元伊勢へ行って来ました。


それまで長らく夏至と冬至に合わせ伊勢へと通っていましたので、ちょっと趣向を変えてみようと思いついた次第です。

 

行程は以下の通り。

 

2014年12月(夜明06:29/日出07:04/日入16:50/日暮17:25)

 

21日(日)
大阪駅06:43JR丹波路快速(福知山行)→08:57福知山駅09:16北近畿タンゴ鉄道宮福線*(宮津行)→09:44大江高校前駅…豊受大神社…大江高校前駅11:29→11:36大江山口内宮駅…元伊勢観光センター/そば処いわと(昼食)…皇大神社天岩戸神社…大江山口内宮駅15:22→15:55天橋立駅…天橋立桟橋16:00天橋立観光船→16:12一の宮桟橋…坂元家…お食事処おぐら(夕食)

*2015年4月1日より、北近畿タンゴ鉄道宮福線・宮津線の鉄道運行事業はWILLER TRAINS株式会社に移譲され、現在は京都丹後鉄道の名称で鉄道運行事業が行われています。そのため運行時刻にも若干の変更がありますのでご了承ください。

 

22日(月)
坂元家06:00…眞名井神社籠神社…コーヒーハウスブレス(休憩)…府中駅09:15ケーブルカー→09:19傘松駅…冠島沓島遥拝所…10:00成相寺登山バス→10:06成相寺山門前…成相寺11:30→11:37傘松駅…AmaTerrace(昼食)…12:30ケーブルカー→12:34府中駅…天橋立(天橋立神社磯清水・廻旋橋)…智恩寺…天橋立駅前16:45高速乗合バス大阪線→19:25大阪

 

 

 


大阪から乗った福知山行のJR丹波路快速が兵庫県三田市を抜けて篠山市の南矢代駅を過ぎ、篠山口駅へと近付いた辺り。
北へ向かう列車の右手、篠山盆地の南端に聳える槙ケ峰から冬至の朝陽が出ました。

 

 

 

 

篠山口駅を出ると、列車は次第に進路を西方へと向けるため、朝陽は徐々に後方へと遠ざかります。

 

 

 


もうすぐしたら、篠山盆地に朝陽が届きます。


Wikipedia/篠山盆地

 

 

 

 

それから約1時間後、兵庫県の篠山市から丹波市を縦断し、京都府の福知山市へと入りました。


この福知山盆地は、京都府北西部の丹波高地北端に広がる断層盆地で、由良(ゆら)川の沖積平野をその周辺の広い洪積台地がとりまいている、とのこと。

 

また福知山市は、廃藩置県以前は丹波国・丹後国であり、唯一丹波国と丹後国にまたがる基礎自治体であったとのことです。

 

Wikipedia/福知山市

 

 

 

 

JR福知山線の終点福知山駅で、北近畿タンゴ鉄道(現在は京都丹後鉄道)の宮福線(宮津行)へ乗り換えます。
外観はちょっとレトロな雰囲気ですが、内装はこざっぱりと現代風に改装されていました。

 

 

 


「福知山→宮津」の表示。


宮津市は京都府北部に位置し、日本海の若狭湾西端に面して日本三景の天橋立がある今回の最終目的地となります。

 

Wikipedia/宮津市

 

 

 


宮津行の列車を大江高校前駅で下車し、豊受大神宮(外宮)元伊勢のひとつに比定される豊受大神社へ徒歩で向かいます。

 

この川は、丹波高地から福知山を経由して若狭湾へと注ぐ由良川の支流となる宮川。
地図で見てみると、その流れは豊受大神社の境内地を包むように湾曲しており、さらに遡上すると皇大神社の参道に並行して、天岩戸神社にまで至っています。

 

つまり、ここ福知山の元伊勢三社(豊受大神社・皇大神社・天岩戸神社)は、この宮川によって繋がれているということになります。

    
神社と古事記/福知山市大江町の元伊勢三社 - 皇大神社、天岩戸神社、豊受大神社 京都の伊勢神宮の元宮

 

 

 


温かい缶コーヒーで暖を取りながら歩きました。

 

 

 


ようやく「元伊勢外宮」の看板を発見。
燈籠もありますし、ここが入り口なのでしょうか…?

 

 

 

 

道に入ってみると、「豊受大神社」の石標もあります。


しかし、舗装された歩道は左へと折れていますが、正面には杜の中へと入る地道があり、もしかしてそこが参道なのかとも思えますけれど、どうしたものか分かりません。

 

 

 


これが参道とおぼしき地道。
けれど、いきなりこれもないかなと考えます。

 

 

 


ともあれ、舗装された道の方を行ってみることにしました。

 

 

 

 

これはこれで、どこへ向かっているのか見当がつきません。

 

 

 


弓道場のようです。

 

 

 

 

どうやらようやく、一般的な正面の表参道へ出たようです(苦笑)
となれば、先ほどの杜へと入って行く地道は裏参道か、あるいは元々の表参道かも知れません。

 

こちらの石標はより大きく、先ほどと同様に「豊受大神社」とあります。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

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宮川に浮かぶ舟岡山の豊受大神社〜冬至丹波丹後元伊勢行(2)

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列車を乗り継ぎ福知山の大江へ~冬至丹波丹後元伊勢行(1)←(承前)




境内へと向かう参道の石段。
小高い丘の頂上に豊受大神社は鎮座します。

けれど実のところこれは丘でなく、平地に孤立する舟岡山と呼ばれる小山で、一説には全長200m前後の巨大古墳であるかも知れない、とのこと。

その上、この舟岡山は宮川の流れに浮いている舟(!?)だということです。

《大江町風土記2》(1959・大江町教育研究会編)
出船入船
外宮さんの山はふねになっているので、ふなおか山といいます。この山は舟のようにういているので、流れないように、たて石というとがった石につないであると言われています。たて石は二俣の田の中にあり、お正月にはおかざりをするそうです。前に若い人たちがその石をほろうとしたが深くてほれなかったそうです。 (俊明小6 加藤道子)
 内宮は入船のかたちをしているといいます。ここにもつなぎ岩というのがあって、その田には牛を入れず、まやごえなどもやらないそうです。
丹後の地名/元伊勢外宮:豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)福知山市大江町天田内


航空写真で見ると、↓こんな感じ。

Google Map/元伊勢外宮 豊受大神社



山が舟のように浮いているため「たて石」もしくは「つなぎ岩」へ繋いで流されないようしている、というのはなかなか意味深な伝説です。


たて石との詳しい位置関係は、↓こちらでどうぞ。

悠遊夢想/風変り遺跡探訪/丹後の元伊勢周辺伝承




社務所前。
時刻は10時を過ぎていますが、シャッターは閉まっていました。

朝、というにはちょっと遅い時刻ですけれど、そこは冬至ですから陽の昇るペースはゆっくりと、今までの曇り空にようやく燦々とした朝陽らしい太陽の光が出てくれました。




石段を昇ります。




鮮烈な木漏れ日のお出迎え。




そろそろ最上段。




石段を昇りきって左を見れば、手前に手水舎、その向こうの建物は神楽殿か斎館と思われますが、詳しくは分かりません。
その左横に建つ鳥居は、皮がついたままの杉の木で組まれた黒木鳥居。

この黒木鳥居をくぐって右に折れ、突き当たりを左に向けば本殿の正面です。

長い石段を上がって直角に左、そのまま進んで鳥居をくぐり直角に右、そして突き当たりを直角に左、と幾重にもクッキリと折れる参道の経路は、まるで戦国における山城のようです。




そうして正面中央が、本殿の拝殿。
向かって左横に多賀之宮、右横に土之宮。

これらを後ろから居並ぶ末社が左右へコの字で取り囲み、その社列の中、向かって左後方に月読宮、右後方に風之宮があります。


豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)
本殿
神:豊受姫命(とようけびめのみこと)
殿神:日子番能邇邇芸尊(ひこほのににぎのみこと)
・・・・・・天児屋根命(あめのこやねのみこと)
・・・・・・天太玉命(あめのふとだまのみこと)
摂社 (別宮):多賀之宮・土之宮・月読宮・風之宮
・・・社:計37社


Wikipedia/豊受大神社
玄松子の記憶/豊受大神社
凡海郷/元伊勢外宮豊受大神社~社地の船岡山は巨大古墳か?~




ひととき空から雲が消え、一面の青空となりました。




この日最初の参拝を終えて、ほっと一息のサチエ。




朝からの曇天が一転晴れ渡り、カラリと爽やかです。




威容を誇る杉の巨木。
龍燈の杉と呼ばれるそうです。




龍燈の杉
御由緒
節分の深夜、龍神が燈火を献ずると言い伝えられている。
樹齢千五百年を越える御神木。




立ち並ぶ杉の巨木。




船岡山に、冬至の太陽の光が降り注ぎます。




青空で一気に気が晴れたのか、サチエも思わず天に向けバンザ~イ!
ヒミコの気分でしょうか?(笑)



(つづく)





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青空に照らされた杜の参道を下る〜冬至丹波丹後元伊勢行(3)

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宮川に浮かぶ舟岡山の豊受大神社~冬至丹波丹後元伊勢行(2)←(承前)

 

 

 

 

青く澄んだ上空を、しばらく仰ぎ見ました。

 

 

 


白い雲が流れ出ては消えて行きます。

 

 

 


雲は同じ姿を長く留めず、風に流されながら悠々と変化していきます。

 

 

 


杜の木々も、冬至という季節に拘わらず、空の青に映えていました。

 

 

 


雲の動きは速いのですが、地上の風は穏やかで、木々も静かなままです。

 

 

 


舟岡山での穏やかで雄大な空模様を堪能し、ようやく境内を出ることとしました。
おそらく正月に向けて掛け替えられた、真新しい注連縄をくぐります。

 

 

 

 

いつも通り、再訪を期して一揖。

 

 

 

 

『福知山十景』

元伊勢三社
Motoise Sansha

 

元伊勢三社とは、元伊勢外宮豊受大神社、元伊勢内宮皇大神社、天岩戸神社の総称です。
ここ元伊勢外宮豊受大神社は、丹後地方へ天下った農業の神様「豊受大神」がまつられた神社で、伊勢神宮外宮の本宮と言われています。

 

福知山十景めぐり
大原神社と産屋~約23km~福知山城と福知山踊り~約1km~由良川と音無瀬川と花火大会~約10km~天寧寺~約25km~小倉の玄武岩~約23km~長安寺~約7km~三段池公園~約1km~元伊勢三社(外宮~約3km~内宮~約0.4km~天岩戸)~約5km~二瀬川渓流~約6km~大江山連峰・ブナの原生林・雲海

 

福知山観光協会/ドッコイセ観光ガイド/福知山十景

福知山市観光振興課

 

 

 


石段の上にまで戻ってきました。
燈籠の手前、右下の方へ石段は下っています。

 

けれど向こうには地道の参道がありました。
これは多分、来る時に見かけた杜の中へと入る地道↓に繋がっていると思われましたから、こちらから行ってみることにします。

 

 

 

 

 

何だか不安げなサチエ。
右手にある来た道の石段を降りたいようでしたが、それはつまらないので、未知の参道へと促します(笑)

 

 

 


地道の参道へ入って、後ろを振り返ります。
左下が、登ってきた石段となります。

 

 

 

 

杜の中をイイ感じの地道が続きます。
地図で見ると、大体このようなルートで↓舟岡山の尾根を緩やかに下っていました。

 

 

 

 


本当にこの参道で思ったところに出るのかどうか、少し不安なままのサチエですが、明るい木漏れ陽に足取りも軽くなったようです。

 

 

 


けれど中々先が見えません。

 

 

 

 

参道はまだまだ続きます。

 

 


(つづく)

 

~いつも応援ありがとうございます~

杜を抜けて宮川を渡り駅へと戻る〜冬至丹波丹後元伊勢行(4)

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青空に照らされた杜の参道を下る~冬至丹波丹後元伊勢行(3)←(承前)

 

 

 

 

さらに参道を下って行きます。

 

 

 


鬱蒼とした杜の中へ、太陽の光が柔らかく届いていました。

 

 

 

 

木々は生い茂っていますけれど、明るい木漏れ陽が参道を照らしています。
よく踏み固められ、手入れされた下り道ですから、サチエもご機嫌な様子。

 

 

 

 

サルノコシカケ的なキノコ。
もしかして、煎じて飲めば霊験あらかたかも知れませんが、もちろんここは境内ですから眺めるだけです(笑)

 

 

 

 

苔むした巨木が立ち並んでいます。

 

 

 

 

枯れ枝など落ちていませんでしたから、こちらも正月前ということで、きれいにお手入れされていたのかもです。

 

 

 


空はちょっと雲模様となって来ました。

 

 

 

 

そろそろ麓近く。
雲で陽射しも弱まって、さすがにちょっと冷えて来たようです。

 

 

 

 

思っていた場所へ杜から無事に出ることができました。
そこから来た道を戻り、宮川を渡る橋のたもとから上流方向、豊受大神社の鎮まる舟岡山の杜を望みます。

 

 

 


こちらは宮川の下流方向。
空が高く、雲が幾層にも浮かんでいます。

 

 

 


大江高校前駅ホーム。
この駅の愛称は「元伊勢外宮駅」だそうです。

 

こちらは宮津方面へのトンネルで、次は、大江山口内宮駅へと向かいます。

 

 

 


大江高校前駅近辺の案内看板。
なかなか魅力的な地域であることが分かります。

 

丹後の地名/川守郷(こうもり)福知山市大江町河守

 

 

 


猫の目のように目まぐるしく雲の様子が変わって行きます。
手前に低く垂れ込めた黒っぽい雲は雨雲でしょうか。

 

 

 


西の山向こうからグイグイと雲がダイナミックにやって来ます。
青空が高い分、その対比で雲がまさに生き物のごとく蠢いていました。

 

 

 


列車の到着。
次に目指す皇大神社は、ここから二駅目の大江山口内宮駅で下車となります。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

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大江山口の元伊勢内宮皇大神社へ〜冬至丹波丹後元伊勢行(5)

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杜を抜けて宮川を渡り駅へと戻る~冬至丹波丹後元伊勢行(4)←(承前)

 

 

 

 

大江山口内宮駅に着きました。

案内看板が3つ、ホームから見えています。

 

真ん中上(駅の案内)
KTR北近畿タンゴ鉄道
大江山口内宮駅
Oeyamaguchinaiku Sta.

 

左(交差点名)
内宮
Naiku

 

右(神社の案内)
←元伊勢三社
内宮0.5km・外宮3.4km・天岩戸1.2km
大江山・二瀬川渓流→
大江町観光協会

 

駅から少し行くと、写真は撮っていないんですけれど、宮福線に並行する県道9号線沿いに元伊勢観光センターがありました。
時刻もお昼前と丁度良い加減で、そこに「そば処いわと」とありましたから、ここで昼食を頂く事にしました。

ぐるなび/そば処いわと(元伊勢観光センター)

 

 

 

 

お腹も満ちて皇大神社へ向かう途中、県道沿いの空き地に朽ち果てたバスが置かれていました。
これは、物置がわりなんでしょうか?
何とも古色蒼然とした凄まじい色あいに育っていますから、現代アートのようにも思えてしまいます(苦笑)

 

 

 


右手が、皇大神社への道。

 

看板に「食堂・売店」とありますが、営業していませんでした。
おそらく、特に人出の多い日だけ開店されるシステムのような気がします。

 

 

 


道の途中、民家と思われる小屋の壁に掲げられた看板。
何だかスゴイことが書かれています。

 

けれど後で分かるのですが、これはどうやら皇大神社のものでなく、その皇大神社境内に何故か社務所や社殿を持つ「天皇神道」という新興宗教によるもののようです。

 

地球終末の時、全人類救済の神として降られました天ノ御中主大神、岩長姫命、八岐大龍神(やまたのおろち)鎮座の元伊勢皇大神宮にようこそ御参拝おめでとうございます。
鳥居の三歩手前で心鎮めて天皇陛下の御偉徳に感謝。
御祭神の天照皇大神の御神霊は天皇陛下の御魂です。

 

とは火水でこの地球のことです。(+核体)
とは地球の中に燃えているマグマの事で、岩の中に秘められたエネルギー
・・・即ち岩長姫命の事。(いわほ)マグマがなければ地球は氷河になります。
・・海の事を、天照大神と申し、太陽も地球熱の反射体です。
・・・地球も、人体も八割は水です(みづほ)


マグマと水を岩がしっかりかゝえ、岩の磁力で星のイオンを集めた大気圏のお陰で人も呼吸し、引力で立っていられます。月も岩です。
四十五億年昔、地球から月が飛び出して以来、地球と月に遠芯力、求芯力の作用が起きて月は銀河のイオン電子を地球に送り、その無形の柱が富士に立っています。
その火電子の柱を髙天原と申し地球を廻しています。

 

八岐大龍神とは
一秒間地球七廻り半の光の事で有り水流、気流、電流となって宇宙根源の銀河(天ノ御中主大神)から地球をつくられた神(降地オロチ)で、地球を常に清々回復させ、人体には白血球を降し(降血オロチ)、すべての生物に吹息をかける働きの神であり、般若心経、ノストラダムスの予言もこの神から降りました。

昔から天皇陛下が朕と申されるのは、月の代辨者の意味であり、御龍顔と申すのは八岐大龍神の龍から来た言葉です。


陛下が日嗣がれている光の事を法と申し、法がつくった晝夜、春夏秋冬を法則と申し、この元伊勢は崇神天皇の御偉徳によって、富士に降った法いんねんに結ばれる御聖地なのです。


看板白地の左端、本文が終わった後へ微妙に余白が空いていますけれど、多分かつてはここへ、看板掲示者のお名前があったものと思われますが、今は消されちゃったのでしょうか。

 

 

 

 

皇大神社への参道とその石段。
元伊勢案内図の下には、竹の杖もご用意されています。

 

 

 

 

元伊勢案内図。
こちらでは名称が皇大神社でなく皇大神〝宮〟とされています。

 

 

 

 

元伊勢内宮皇大神社の石標。
比較的に新しそうですから、かつて皇大神〝宮〟と称していたものを皇大神社へ変更したものと思われます。


第二次大戦後に神社本庁へ参加したということですから、それから次第に神宮という名称を使う事へ差し障りが出て来たのかも知れません。

 

 

 

 

天候は、相変わらずの二転三転。
抜けるような青空と黒い雨雲が共存しています(泣)

 

 

 

 

石製の鳥居。
脇に立つ石標には「神明鳥居」とあり、「平成御大典記念」と彫られています。

 

 

 

 

参道脇に立つ社務所。

天皇神道
授与所 社務所

実はこれが、先のスゴイ看板を掲げられたであろう「天皇神道」の社務所です。


詳細は不明ですが、ここを皇大神社の社務所と間違え御朱印を頂いてしまった方のブログがありましたので、ご紹介しておきます。
龍水御朱印帳・裏ばなし/御朱印を2度もらう(元伊勢・皇大神社)

 

このブログによりますと、参道の上にある皇大神社の社務所で宮司さんらしき方が、

あそこは うちが貸してるだけの新興宗教や

と仰られたそうです…

 

 

 


参道の石段が続きます。

 

 

 

 

少しグロッキー気味のサチエ。
ガンバって石段を踏みしめながら昇ります。

 

 

 

 

一息ついて、杜の巨木を仰ぎ見る。

 

 

 

 

苔むした巨木の根元。

 

 

 


石段の参道中央に立つのは、麻呂子親王お手植の杉だそうです。
かつては古木が三本並んでいたそうですが、そのうち二本は台風のため倒れ、今は切り株だけが残っています。

 

Wikipedia/当麻皇子

 

 

 


麻呂子杉を取り囲む杜の木々。

 

 

 


真名井の池。
由緒は不明です。

 

 

(つづく)


 
~いつも応援ありがとうございます~

多様な崇敬を顕す内宮境内を巡る〜冬至丹後元伊勢行(6)

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大江山口の元伊勢内宮皇大神社へ~冬至丹後元伊勢行(5)←(承前)

 

 

 

 

参道の石段から左へ入ると、元伊勢の厄神さんが坐します。
左奥のベンチみたいな横長の石には、「カネのなる石」との看板があります。

 

 

 

 

元伊勢の厄神さん
・・
御門(みかど)神社

 

元伊勢の厄神さんは、天岩戸で天照大神をお護りしたトヨイハマドの神で、わが国の厄除神の本宗です。八方除の神。御社殿は、天地根元造、竹の御柱という古式造です。
節分に厄除祭を行い、三鬼打、カワラケ割り神事などを行います。
金のなる石は、石で打つと金の音が鳴る奇石(くわいし)です。

 

元伊勢内宮 皇大神社

 

天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神である

Wikipedia/天石門別神

 

 

 

 

御門神社の向かって右には、注連縄の張られた岩戸(横穴式石室)。
その奥のこんもりとした土手も気になります。

 

 

 

 

境内の案内看板。

 

元伊勢内宮 皇大神社

 

(御祭神) 天照皇大神 (あまてらすすめおおみかみ)
(御由緒)
人皇第十代崇神(すじん)天皇三十九年(紀元前五十九年)に 「別に大宮地(おおみやどころ)を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠(とわ)にお祀りする聖地を求め、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)御杖代(みつえしろ)となり給い、それまで奉斎されていた倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)を出御(しゅつぎょ)されたのが、いま(平成二年)を去る二千四十九年の遥かな昔であった。

そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸(ごせんこう)になり、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、諸所(二十余か所)を圣て、五十四年後の人皇第十一代垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川上(いまの伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、ひき続いて当社を伊勢神宮の元宮(もとみや)として「元伊勢(内宮ないく)さん」などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰が続いている。

 

(例祭日)
四月二十六日

 

(恒例祭事)
元旦祭一月一日
節分祭二月三日
立春祭二月四日
八朔祭九月一日

 

 

 


豊受大神社と同様の黒木鳥居。
おそらく、全く同じ仕様かと思われます。

 

 

 

 

奥が本殿、手前がその拝殿。


本殿の鰹木は、伊勢の内宮と同じ10本あります。
ちなみに豊受大神社の鰹木は、これも伊勢の外宮と同じ9本でした。

 

サチエは健気にご紹介のポーズ(笑)

 


皇大神社(こうだいじんじゃ)
神:天照大神(あまてらすおおみかみ)
摂社 (脇宮):天手力雄命(
たぢからおのみこと)社・栲機千々姫(たくはたちぢひめ)社
・・・社:計83社


Wikipedia/皇大神社_福知山市

玄松子の記憶/皇大神社

凡海郷/皇大神社~古神道の聖地~

丹後の地名/元伊勢内宮:皇大神社(こうだいじんじゃ)福知山市大江町内宮宮山

 

 

 

 

外宮にもあった龍燈の杉ですが、内宮にもありました。


こちらは樹齢2000年と推定されているそうですが、火災と台風で枯死する寸前となって樹勢回復施術が行われ、今はようやく半分くらい生きているそうです。

 

 

 

 

龍灯の杉
節分の深夜、龍神が燈火を献ずると言い伝えられている。
幹回り約七米、高さ約三十米、樹令二千年と推定される御神木。

 

 

 


本殿の拝殿前、後ろは天手力雄命社。

参拝を終えてから何かへ聞き耳を立てるサチエ。

 

 

 


本殿。
本格的な冬到来前の雪が軽く積もっています。

 

 

 


本殿横で、デッカイぞ~ポーズ(笑)

 

 

 

 

これも巨大な御神木です。

 

 

 

うっすらと、全身が苔むしています。

 

 

 

 

變若水(をちみづ)の榎。

 

変若水(おちみず、をちみづ)とは、飲めば若返るといわれた水。月の不死信仰に関わる霊薬の一つ。人間の形態説明の一部としても形容される。

Wikipedia/変若水

 

昔元伊勢内宮には、神霊の憑代として崇められた大榎があったという。これにかわり、昭和六十二年三月十五日榎祭りを行って四本の榎の御神木が復活した。御本殿左右の日影榎、水影榎はお伊勢さんよりヘリコプターでお還りになった。広前には、大直日榎(大本教献木)、変若水榎(世界救世教献木)が植えられた。

元伊勢内宮皇大神社パンフレット

 

何だか皇大神社は、新興宗教に絶大な人気があるようですね。
特に古神道の聖地とされる所以は、

古代より皇大神社一帯は聖地とされていましたが、明治以後、聖地としての色合いは一層鮮明になりました。事の発端は大本開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊勢と崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行った事に遡ります。

凡海郷/皇大神社~古神道の聖地~

とのこと。

 

Wikipedia/古神道

 

 

 

 

末社を巡るため、境内の奥へと進みます。
御若叡(みわかえ)の森、君が代碑とさざれ石。

 

 

 

 


さざれ石の由来

「君が代」の歌に唱われた「さざれ石」は、石灰岩質であり、成長する奇岩で大小の石を凝縮して巨岩をつくってゆく。
そのめでたさを托した名歌が少なくない。岐阜県揖斐の山中より産する。「君が代」の歌は、もと惟喬親王にささげた「わが君は」の歌を元歌として出来たと云う。
苔庭、さざれ石に因み、天皇御在位六十年を記念し、御若叡の森を飾ることにした。

 

 

 


本殿と摂社をぐるりとコの字に取り囲む末社群、向かって左手。

 

 

 


末社群、こちらは後方から右手側。

 

 

 


天候は、青空も見えながら曇りというか、何だかよく分からない空模様です。

 

 

 


天皇神道の岩長姫命社。

 

 

 

 

奉斎 岩長姫命社 由緒

 

天地根源(テンチコンゲン)元津(モトツ)御祖大神(ミオヤノオオカミ)、天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)、司命神(シメイジン)岩長姫命(イワナガヒメノミコト)は、昭和四十四年十月八日、神奈川県は藤沢の地、伊勢山御座所に命代(ミコトシロ)渡邊兼子をもって降臨、〝言わず語らず根を出して、不二の峰より天降り、禊ぎ祓えと清めなん、天知る地知る根をはりて、時期致来の女神花〟と神示。


今日の地球存亡の重大時期に、元津御祖大神が救世主として、岩長姫命を地上浄化、世直し、世造りの司命神として世にお送り給えたのであります。

 

〝天照大神、神意を奉戴し、萬世栄光神魂をもって、人類の生命に輝く心の鏡の神殿の永遠なることを知り、宇宙に結ぶ大自然の法則に照し、生命の言霊(ことだま)をみがき、人類に生命の愛の法憲をもって、崇高なる天性の尊厳に生きよ、八紘一宇の祭政の基柱となせ、血脈の道、皇統連綿たる全人類の生命祭政一致は、天皇を知ろしめすことなり〟と神示。

 

〝神の御声で我が魂をよびおこせ、萬ず真人、萬人祭司〟と示されました。

 

昭和四十八年四月一日、岩長姫命社、天龍八岐龍神社(天龍下りて御魂代おさめ祀りて世は平和、と神示)を当神宮元伊勢に、建立、鎮座し、天皇神道が顕現したのであります。

 

この案内板によると、1969年(昭和44年)に神奈川県藤沢市の伊勢山で渡邊兼子さんに岩長姫命が神懸かり、1973年(昭和48年)に岩長姫命社と天龍八岐龍神社をこの地に建てて天皇神道が発足した、ということのようです。

 

この伊勢山は、かつて伊勢神宮が祀られていたとの伝承があるとのこと。
Wikipedia/伊勢山_(藤沢市)

 

どのような経緯で、1973年当時すでに神社本庁へ参加していた皇大神社の境内へ社殿を建てられることになったのか、ちょっと興味が湧きますね~。

 

ちなみに調べてみましたら、このような古書が見つかりました。

『天照皇大御神司命神 岩長姫命神示録』和装1冊・珍資料
〔渡辺兼子が拝受した岩長姫命の神示を収録、福知山の天皇神道元伊勢皇大神宮の基盤をなす神示集〕

著者名:神示拝受者著作権者/渡辺兼子、編纂者/小笠原清隆
出版社:天照皇大御神司命神岩長姫命伊勢山御座所(神奈川藤沢)
発行年:昭和46
細:和装1冊、B5判、原題箋、本文袋綴、1+口絵1+2+1+128頁
大分類:宗教
中分類:心霊
格:25,500円
販売店:古書杏城

 

おそらく、あの社務所には原本が保存されているのではないでしょうか…

 

 

 


境内を一巡して、本殿へ一揖。

 

天皇神道の天龍八岐龍神社へは行かずじまいでした。
そもそも存在を知らなかったのですが、知っていたとしても行ったかどうか、微妙ですけど(苦笑)

 

 

 


杜の上に広がる曖昧な雲行きを仰ぎ見ます。

 

次は、日うらが岳(日浦岳・日裏岳・日室山・岩戸山・城山…)の遙拝所を経て、天岩戸神社へと向かいます。

 

 


(つづく)

 
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日室嶽を遙拝し岩戸渓谷へと下る〜冬至丹後元伊勢行(7)

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多様な崇敬を顕す内宮境内を巡る〜冬至丹後元伊勢行(6)←(承前)




皇大神社から山道を下って日室嶽遙拝処へと向かいます。

実はこの元伊勢行ですが、寺社を巡る行程の下調べは最低限しておきましたけれど、訪問先の詳細をほとんど予習しないまま来てしまいましたので、日室嶽がどのような神体山なのか、ほとんど知らないままでした。

そのため、遙拝処がどこにあるのか、それが〝一願さんと呼ばれ親しまれているとか、現地で始めて分かりました(苦笑)




木陰の向こうから、秀麗な山が見えてきます。
失礼ながら、多分あれが神体山なんだろうなあ、くらいの曖昧な認識で進みます(苦笑)




石の三宝が置かれ絵馬の沢山下げられた石製の祭壇に、「日室嶽遙拜處」(※處は異字体)と刻まれています。
その下、地面上に据えられ上面の凹んだ四角い石には、「一願成就」とあります。

また、この日室嶽という名は、祭壇にそう刻まれていたのでそう書きましたれど、その他にも、日浦岳・日裏岳・日室山・岩戸山・城山、等々の様々な呼び名と表記があって定まりません。


そして、日本のピラミッドとしても、日室嶽は有名とのこと。
昭和六〇年代、週刊誌にて『日本一美しいピラミッド』と紹介されて以来、岩戸山は超古代史ファンを中心に注目を集めるようになり、地元大江町が発行している観光マップには、 ピラミッドと記載されています。
凡海郷/皇大神社~古神道の聖地~

しかしながら、この日室嶽は地図で見る限り、残念ながら円錐形ではありません。
地図上で一般的に城山(じょうさん)と表記されていますので、下記にてご確認ください。


Google Map/城山


↑このように城山(日室嶽)は、東西に
長くなっています。
等高線のある地図で見ると、↓こんな感じ。

国土地理院/地理院地図(電子国土Web)


頂上附近が東西に延びた尾根状態であることが分かります。




遙拝処から見る日室嶽は思いのほか近くに感じられ、木々の表情も細かに望むことができました。




この山は神体山ということで、もちろん禁足地とのことです。

また、山域の東側一帯は京都府歴史的自然環境保全地域に指定されています。
↓後ほど天岩戸神社へ向かう途中で見た案内看板。



岩戸山 京都府歴史的自然環境保全地域
指定地域は、元伊勢三社の一つ天岩戸神社の神域として古くから守られてきた府内でも数少ない原生的な森林です。
ウラジロガシ、アラカシ、あかがしなどの常緑カシ林が主体となっていますが、岩戸山頂上付近には、ブナーイヌブナ林も見られます。確認されただけでも380種もの植物が自生しており、なかには貴重な植物も含まれています。
また、岩戸渓谷には、天岩戸神社の本殿やいわれのある御座石、神楽岩などが点在し、両岸を覆う森林とともに神秘的な雰囲気をかもし出しています。
このすぐれた歴史的な自然環境をわたしたちの子孫に守り伝えていきましょう。
特別区域では、土地の形質の変更、土石の採取等の行為は許可なくできません。
野生動植物保護地区では貴重な植物の採取はできません。
昭和59年3月13日指定 京都府

この遙拝処と向こうに聳える日室嶽との間には、川の流れる岩戸渓谷が深く横たわります。




サチエによる記念撮影。
なぜかアングルが微妙に傾き、逆光ですが…




サチエも記念撮影。
この時は、普通だったんですけれど…




どうしてか、いきなりバンザ〜イのポーズ(泣)
UFOでも呼ぶつもりでしょうか?




日室嶽遙拝処から山道を下っていきます。




この道は、皇大神社への車道でもあるようでした。




冬至の太陽が木漏れ日となって届きます。
時刻は14:00ごろ。



皇大神社から下って来る坂道と、岩戸渓谷沿いに天岩戸神社を経て山向こうへと抜ける道が合流する地点に、龍燈明神の祠がありました。

けれども写真を撮っていなかったので、↓Google Mapでどうぞ。

Google Map


右上の石柵が、下って来た坂道、向こうに見えるのが
日室嶽となります。




岩戸山(いわとやま)
京都府歴史的自然環境保全地域
昭和59年3月13日指定(京都府加佐郡大江町)

天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は大江町の元伊勢三社〔皇大神社(内宮)・豊受大神社(外宮)・天岩戸神社〕の一つで、伊勢の皇大神宮の元宮として、古くからこの地方の象徴的存在として崇敬されてきました。天岩戸神社の祭神である櫛岩窓戸命(くしいわまどのみこと)・豊岩窓戸命(とよいわまどのみこと)は門を守る岩石の神であり、岩戸渓谷の幽玄の地を天岩戸に比定し、古事記の大神の門番神を配祀していると伝えられています。
京都府

ここに書かれた岩戸山とは、日室嶽そのものというよりは、天岩戸神社周辺から日室嶽東側の保全地域一帯を指しているようです。




天岩戸神社への降り口。

ここから下ると、鳥居や手水、無人の社務所や小さな祠があった筈なんですけれど、それらは何も撮影していませんでしたので、↓こちらをご参照くださいませ。

私の撮った薄暗くて分かりにくい写真より、ずっと鮮明でお上手です。orz
ブンブンライダーズ ストーリー/お薦め神社/天の岩戸神社




岩戸渓谷が見えてきました。




岩 戸 神 社 の 記

偉大な祖神である天照大御神は速須佐之男命の乱暴な行いに耐え忍んでおられたが、とうとう我慢しきれずに天の岩戸に閉じ籠りになられた。
それで、この世の中は真暗くなってしまい、悪い事ばかりが連続して起こり収拾がつかなくなってしまったので、八百万神々は天安河原に集まられ相談された。
そこで、天の岩戸の前で長鳴鳥を鳴かせ、真榊の木に勾玉(まがたま)を飾り御神鏡をかかげ、御幣を持ち神饌物を捧げて、賑やかに歌い踊り音楽し祝詞(のりと)を申し上げた。
この時、尊い天照大御神は外の様子を不思議に思われ天の岩戸を細めに開いて見られたので、御神鏡を差し出し申した。畏い天照大御神はますます変だと思われすこし天の岩戸から出られたところを お引出し申したので、世の中は明るくなり救われたのである。
さて、この由緒ある御神鏡が神宝と信じられ、救世平和神とされている。
・・昭和四十七年九月
天 岩 戸 大 神 宮




・・

天の岩戸神社は、往昔地神の元始神天照大神籠居ましし霊地にして、
真名井ヶ原・真名井ヶ池・楽の堂・産盥・産釜・神楽石・御座石・鶏鳴岩・鱒池・鮎返りの滝等の地名旧蹟あり。殊に産盥の霊水は平常満水することなく域は減水することなく且つ腐水することかってなく此の霊水は旱魃の際其の霊水の少許を水上に注ぐ時は如何なる旱魃時と雖も神雨不思議に降り来り庶民安堵の胸を撫するにより往昔より今に至るも尚其の慣例絶へざるなり。
・・昭和四十七年九月
天 岩 戸 大 神 宮




境内の案内にありましたので、天岩戸神社へと進む前に、先ずこちらへと廻りました。
産釜って???
予習が足らなかったばかりに、最初は何のことか分かりません。




遙拝所から渓谷を覗き見ると、次の案内板のようにいくつかの甌穴が確かに見えます。
ただ、どれが産釜で産盥なのか、その区別が全くつきませんでした(泣)




岩戸山(いわとやま)
京都府歴史的自然環境保全地域
昭和59年3月13日指定(京都府加佐郡大江町)


社殿背面にある巨石は、神が座して天降った所といわれ『御座石』と名付けられています。また、御座石から岩戸渓谷をへだてた下手には『神楽石(かぐらいし)』と呼ばれる石があります。さらに約50m下流の岩場には甌穴(おうけつ:河流の侵食作用によって川底の岩盤にあいた穴)があり、この甌穴は神が湯浴みしたところとして『産盥(うぶだらい)』と呼ばれています。これを汚すと変異を現すといい伝えられており、産盥の水は旱天にも涸れることなく、この水を水面に注げば慈雨を呼ぶとされています。
京都府




そうしていよいよ、岩戸渓谷の川縁へと降りて行きます。



(つづく)





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神が天降り坐す磐座の天岩戸神社〜冬至丹後元伊勢行(8)

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日室嶽を遙拝し岩戸渓谷へと下る〜冬至丹後元伊勢行(7)←(承前)

 

 

 

 

岩戸渓谷を流れる急流。

 

豊受大神社のほとりを流れる宮川が、その上流に鎮まる皇大神社の近くで五十鈴川と名を変えて、この川はさらにその支流となりますけれど、名前は何というのでしょう?
調べてみましたが、ちょっと分からないままです。

 

また、ネットでこの場所の写真を色々と見ましたが、これほど流れが激しい状況は珍しいように思えました。
中にはノンキに川の中へ入っている方々の様子もあったりしましたから、この日はこの日で見応えのあるお姿だったようです。

 

 

 

 

懸造(かけづくり)の本殿。

 

実はこの時、これが本殿というよりは、背後にあるご神体を拝するための拝殿的役割を果たしていることを知りませんでした(泣)


本当に、詳しいことを何も調べないまま行ってしまったので、ご祭神さえ分からないまま「山の神さま、水の神さま、コンニチワ〜」などとご挨拶していましたし。orz

 

祭神については、先に見た京都府の案内板に、

櫛岩窓戸命(くしいわまどのみこと)

豊岩窓戸命(とよいわまどのみこと)

とあった筈なのですが、神社の案内看板には何も記載がなかったため記憶に残らないままでした。

 


天岩戸神社(あめのいわとじんじゃ)
神:櫛御毛奴命(くしみけぬのみこと)
・・・・あるいは
・・・・櫛岩窓戸命(くしいわまどのみこと)・豊岩窓戸命(とよいわまどのみこと)

 

 

そして自分の探索が足らないため全く分からないのですが、このようにご祭神が二通りで伝えられているようなのは、どうしてなんでしょう。

 

あと、クシミケヌって、どこかで見たお名前だなあと思ったら、あの出雲の熊野大社で出雲国造が奉斎する伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(いざなぎのひまなごかぶろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)ですよね〜。

 

この丹後に出雲の神さまですから、さすが日本海繫がりです。

 


Wikipedia/天岩戸神社_福知山市

玄松子の記憶/天岩戸神社

 

なお『大江町誌』によると、

祭神は櫛岩窓戸命、豊岩窓戸命、大宮売命、八意思兼命という。

丹後の地名/元伊勢内宮:皇大神社/天岩戸神社(大江町仏性寺)

とのこと…

 

 

 

 

それでこの本殿ですが、何がご神体かというと、背後で川を堰き止めているような姿の巨岩だということです。

 

 

Wikipedia/天岩戸神社 概観/Saigen Jiro


この巨岩は御座石と呼ばれ、神が天降って座したということです。

しかし、この御座石の存在を知らなかった私たちは、本殿の裏手へは行きませんでしたから残念無念。


ただ、たとえ知っていたとしても、足下で急流の渦巻く滑りやすい岩の斜面を手掛かりもなく実際に行けたかどうか、分かりません。
少なくともサチエは、絶対に行こうとしなかったと思います(苦笑)

 

 

 

 

いよいよ、濡れて滑る岩の急斜面を鎖をたぐってよじ登り、本殿へと向かいます。

私が先に上がってサチエへ足場の指示を出しました。


それでも取っ掛かりですでに半泣きのサチエ。

もしこの川へ転げ落ちたらと思うと、私も気が気ではありません。

 

 

 

 

ようやく本殿前に辿り着くと、すがるような目でしばし茫然のサチエ。

狭い足場ですから、少しでもよろければそのまま転がり落ちてしまいます。

 

 

 


何とか呼吸を整えて参拝を終え、川の下流方面を望みます。
流れの先が岩々で隠れるその向こうが、産釜のある辺りのようです。

 

電線が垂れ下がっていますけれど、おそらくこれは、お祭りの際などに電灯を灯すためのものかと思われます。

 

 

 

 

今度は下り。

 

やはり登るより少しは楽なのか、カメラを向けると、緊張しつつも小さく微笑む余裕を見せたサチエ。
油断したら足滑らすよ〜と声を掛けます。

 

 

 


川縁に降りて、もう一度川の下流方面を望む。

 

 

 


サチエ激写の記念撮影。

 

 

 

 

足下の緩い流れへ手を浸したサチエが、謎のポーズ。
後で意味を聞くと、冷たいよ〜、ということだったそうです(笑)

 

 

 

 

本殿を振り返り、一揖して再訪を期します。

 

 

 


産釜の少し上流辺り。
川幅が広がり水深もあるようで、流れが穏やかになっています。

 

 

 


境内を出て、岩戸渓谷沿いの道をゆっくりと下って行きました。

 

何だかずっと目まぐるしい空模様ですが、西へ傾いていく冬至の太陽が、稜線の上から顔を覗かせていました。
ここでまだ15:00頃でしたけれど、この太陽が山へと沈めば、後はあっという間に夕暮れがやって来ます。

 

 

 

 

左手が皇大神社、右下に岩戸渓谷。
ようやくこの日に予定していた参拝を全て終え、サチエはカラ元気のポーズで力を振り絞ります。

 

 

 


みるみるうちに、太陽の光が弱々しくなって来ました。

 

 

 

 

大きな雲が低い位置に居座っています。
あの下一帯は、もしかしたら小雨くらい降っていたかも知れません。

 

 

 

 

道の造成で切り拓かれた崖へ、食らい付くように立ち並ぶ杜の木々。

 

 

 

 

大きく曲がるカーブの手前で振り向くと、私たちを見送るように日室嶽が聳えていました。
ここでも、再訪を期して一揖。

 

 

 

 

元伊勢観光センター駐車場に立つ酒呑童子と記念撮影。

 

列車の時刻に少し余裕がありましたので、行きがけにお蕎麦を頂いた元伊勢観光センターに寄って、地元名産の〝どぶろく〟2本と、漬け物をお土産に買いました。

一応、鬼の好物〝どぶろく〟を酒呑童子の手に提げてお供えの気分です。

 

 

 

 

酒呑童子とサチエのアップ。

 

 

 

 

近畿自然歩道
環境省/自然大好きクラブ/近畿自然歩道

○大江山伝説のみち

鬼の山コース

大江山連峰の山々を尾根沿いに縦走するコース。
〈距離〉14.4km 〈所要時間〉6時間00分 〈難易度〉3
〈区間〉辛皮駅~大江山スキー場~普甲峠~航空管制塔~鬼の岩屋~鍋塚~鳩ヶ峰~大江山(千丈ヶ嶽)~呑童子の里~二瀬川バス停
〈見どころ〉千丈ヶ嶽、鬼嶽稲荷神社、酒呑童子の里

 

元伊勢コース
二瀬川の渓流、現在の伊勢神宮の旧地と伝えられている元伊勢内宮皇大神社をめぐるコース。
〈距離〉4.9km 〈所要時間〉1時間40分 〈難易度〉2
〈区間〉二瀬川バス停~頼光の腰掛岩~鬼の足跡~新童子橋~ 瀬川渓流~鬼の里学童農園~天岩戸山神社~元伊勢内宮皇大神社~大江山口内宮駅
〈見どころ〉天岩戸山神社、二瀬川渓流、元伊勢内宮皇大神社

 

 

 


大江山口内宮駅に戻って来ました。

 

次は、この日の宿泊地となる天橋立は一の宮海岸へと向かいます。

 

 

 

(つづく)

 




 

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天橋立のカモメと戯れて一の宮へ〜冬至丹後元伊勢行(9)

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神が天降り坐す磐座の天岩戸神社〜冬至丹後元伊勢行(8)←(承前)

 

 


大江山口内宮駅から乗った列車は天橋立行きの快速でしたが、終点ひとつ前の宮津駅で宮豊線の豊岡行きへ乗り換えれば天橋立に先着するとのアナウンスがあり、そのようにしました。

 

すると、予定していた天橋立観光船のりば16:20発の最終便(冬期の土・日・祝)より一本早い16:00発に間に合いましたので、少し早くなって助かりました。

 

 

 


かもめ1号の船内。

 

丹後海陸交通/天橋立へ行こう!/天橋立観光船

 

宮津湾の奥を横切る天橋立を右手に見ながら、宮津湾から隔離された阿蘇海を進みます。

正面の左向こうに見えるのは、標高569mの鼓ケ岳(つづみがだけ)、別称成相山(なりあいさん)。
山腹に、西国三十三所第28番札所の成相寺(なりあいじ)が鎮座します。

 

その手前の海岸が一の宮海岸で、ここの一の宮とは、もちろん丹後国一宮の籠神社(このじんじゃ)となります。

 

 

 

 

せっかく船に乗ってじっと座っているのも何ですから、私は後方のデッキへと出ました。
サチエを誘うも、寒そうだからやめとく、とのこと。

 

これは来た方向の風景。
そのため天橋立が左に見えます。

 

すると、ほどなくしてサチエが現れました。
やはり座席に一人きりでは居にくかったのかと思いきや、何だか顔が薄笑いになっています。

 

ハテ?と腑に落ちない私に、隠し持っていた赤い小袋を差し出して、カモメのエサ、とのこと。
はあ?とよく見れば、それは何と「かっぱえびせん」の袋です。

 

 

 

 

「それ、カモメのエサって、エエんかいな?」
「うん、カモメのエサって書いて売ってた」
「!?」

 

 

 


先の船内写真をアップ。

確かに、天橋立観光船では、「かっぱえびせん」ミニサイズをカモメのエサとして売っているのでした〜。orz

 

まあ、後で調べると「かっぱえびせん」は油で揚げずに煎っているそうで、主原材料も小麦粉やデンプンと天然エビ、塩も海魚が主食のカモメなら問題ないかと思いましたけれど…

Calbee/かっぱえびせん

 

 

 

 

ということで、サチエが「かっぱえびせん」を少しずつ海へ向け播き始めると、カモメは先刻承知なのでしょうか、どんどんと集まってきました。

 

実はこの時、船の乗客は私たち二名と、もう一人の若い女性一名の合計三名しかいませんでした。
その女性も途中からデッキに出て一緒にカモメの写真を撮っていましたから、船室は船長さん以外、誰もいない状態となってしまいました(笑)

 

 

 

 

慣れたカモメたちは、もの凄い勢いで空中に浮いた「かっぱえびせん」を次々と捕獲していきます。

 

 

 


「かっぱえびせん」を入れたカモメのエサ箱には、トンビも食べに来るので気をつけるよう注意書きがありましたけれど、幸いトンビはやって来ませんでした。

 

 

 

 

キレイな形で滑空するカモメ。

 

 

 

 

アップ。

 

 

 


クチバシでしっかりと「かっぱえびせん」をキャッチしています。

 

 

 

 

次を狙うカモメたち。

 

 

 


夕刻の太陽が、うっすらと雲の中に見えています。

 

 

 

 

サチエの手の動きへ敏感に反応し、チャンスを逃しません。

 

 

 

 

翼と体を巧みにひねって「かっぱえびせん」へロックオン。

 

 

 

 

揃って様子を伺っています。

 

 

 


一瞬のスクランブル。

 

 

 

 

さらに様子見。

 

 

 


急降下してキャッチ。

 

 

 


宙に舞った「かっぱえびせん」に、カモメたちの目が一斉に集中。

 

 

 

 

さあ、次はまだかと催促中。

 

 

 


様子見が続きます。

 

 

 


もうすぐ日没。
しかしカモメたちの追撃は止みません。

 

 

 

 

アップ。

 

 

 

 

そろそろ待ちきれません。

 

 

 

 

皆がサチエの手をじっと見つめます。

 

 

 


早く投げろ〜、でしょうか。

 

 

 


来るぞ〜、なのか。

 

 

 

 

いよいよ、また緊張の一瞬。

 

 

 

 

激しいスクランブルのあと、海へ落ちた「かっぱえびせん」の一片をも逃しません。

航跡の荒波へも、カモメは果敢に突っ込んで行きます…

 

 

 

 

ということで、あっという間に一の宮桟橋へと着きました。

 

 

 


冬至の短い日は、早々に刻々と暮れていきます。

 

 

この後、宿泊先の坂元家へと急ぎチェックインして荷物を置くと、海の幸を堪能すべく近くのお食事処おぐらへ向かいました。

坂元家

食べログ/お食事処おぐら

 

また、坂元家は素泊まりでしたから、翌朝の朝食をスーパーにしがき府中店で調達しましたけれど、そのついでに翌日の天橋立を徒歩で渡る際にそなえ、「かっぱえびせん」レギュラーサイズも抜かりなく手に入れておいたことは、言うまでもありません(苦笑)

 

 


(つづく)




 

 

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真名井神社を参拝し朝陽に染まる〜冬至丹後元伊勢行(10)

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天橋立のカモメと戯れて一の宮へ〜冬至丹後元伊勢行(9)←(承前)

 

 

 

 

丹後国一宮である籠神社(このじんじゃ)の奥宮、真名井神社です。

 

実はこの写真、参拝の後に撮ったもの。
この日、気合いを入れて夜明け前の早い時刻にやって来たのですが、何しろ真っ暗で何枚かシャッターを切りましたけれど、黒い画面ばかりで何も写っていませんでした。

 

さらに、参道の石段より上は撮影禁止との看板があり、何と拝所の両脇には柵が建設中でもう境内奥へ行けなくなっていましたので、何も詳しい様子をお知らせできず残念です。

 


ちなみに、ここの社殿は本殿なのか拝殿なのか、どうなんでしょう?
境内奥には磐座が3つあり、それらがご神体のような気もしますけれど。

 

ただ、もうそれら磐座に近づけないことと、実際に境内を歩き回ってどのような感じなのか確かめる術はありませんでした。
 

そこで境内の詳しい様子は、↓こちらをご参照ください。

籠神社ホームページ/奥宮 真名井神社

玄松子の記憶/籠神社/奥宮

 

 

 


うっすらと空が白んできました。

 


真名井神社

 

//神:豊受大神(とようけのおおかみ)
(別名):天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・・・・・国常立尊(くにとこたちのみこと)
・・・・・御饌津神(みけつかみ)

 

・・殿:天照大神(あまてらすおおかみ)
・・・・・伊射奈岐大神(いざなぎおおかみ)
・・・・・伊射奈美大神(いざなみおおかみ)
・・・・・罔象女命(みづはのめのみこと)
・・・・・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
・・・・・神代五代神(かみよいつつよのかみ)

 

磐座主座:豊受大神
磐座西座:天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神
磐座奥座:盬土老翁
(しおつちのおじ)・宇迦之御魂・熊野大神・愛宕神

 

【別称】:豊受大神宮・比沼真名井(ひぬまない)・外宮元宮・元伊勢大元宮
【古称】:匏宮
(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)・与謝宮(よさのみや)・久志濱宮(くしはまのみや)

 

※以上、籠神社ホームページによる

 


ここ参道石段の麓には水神社があり、天の真名井の水も頂きましたが、やはり暗くて写真が撮れていません(泣)

 

Wikipedia/真名井神社_籠神社奥宮(境外摂社)

凡海郷/籠神社奥宮真名井神社

丹後の地名/真名井神社 吉佐宮・与謝宮・匏宮・久志浜宮・元伊勢大元宮(宮津市大垣)

 

また、波せき地蔵も祀られており、およそ1300年前の大地震でこの地まで大津波が押し寄せたとのことです。
丹後の地名/真名井神社/若狭湾の超巨大津波を伝える波せき地蔵

 

 

 


真名井神社へと登ってきた坂道を下って行くと、まだ出ていない太陽の光を受けて、空が赤く染まり始めています。

 

 

 


行きは真っ暗でよく見えていませんでしたけれど、石の鳥居横に石標があって、その裏側に「久志日沼前大神宮」とあります。
この時は何の意味か分かりませんでしたが、これも真名井神社の別名ということのようです。

 

 

 


振り返ると、凍結した道をおそるおそるユックリとサチエが歩いてきます。
ここは麓で勾配はゆるやかですが、上に行くほど勾配がきつくなりますから、そこを歩いて登り降りするのには、結構気を遣いました。

 

 

 

 

先ほどの石標、表面。
こちらには「外宮大元宮吉佐宮」とあります。

 

この「吉佐宮」とは、『倭姫命世記』において、崇神天皇39年から4年にわたり但波国で初代斎宮である豊鋤入姫命がアマテラスを奉斎したとされる宮の名前です。

 

このように真名井神社は、アマテラスの遷幸した但波(丹波)国の吉佐宮として、先に訪れた皇大神社と並び元伊勢に比定されているのですけれど、それと合わせさらに、トヨウケビメの出自である比治真奈井(『止由気宮儀式帳』)・与佐之小見比治之魚井原(『倭姫命世記』)にも豊受大神社と並んで元伊勢に比定されています。

Wikipedia/元伊勢

 


実のところ私は、元伊勢の伝承って、そもそも何なのかよく分かっていませんでした。

 

もちろん、三輪の宮殿に祀られていたアマテラスが放逐されるように行幸を余儀なくされ、巡り巡って伊勢に辿り着いたという伝説、そのアマテラスが自分の食事のため丹波国の比沼真奈井からトヨウケビメを伊勢へ呼び寄せるよう天皇へ命じたという伝説は、まあ、そうなんでしょうけれど、そのような伝説を生んだ意図というものが、よく分かりません。

 

特に、伊勢に鎮座したアマテラスが、それからおよそ480年も経ってからようやく「お腹が空いた〜」ということでトヨウケビメを呼び寄せたということは、神さまってそれだけ年月が経たないと腹減らないのかなあ、などと思ってしまいます(苦笑)

 

そこで、少しは元伊勢について調べてみようと思い、後で資料を探してみましたら、このような書籍が見つかりました。
伊勢の神宮―ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて』大阪府神社庁(和泉書院/1993年)

 

ご参考まで一部を引用しておきますが、少し長くなりますので、この後で朝陽の写真とともにご覧頂けるようしておきます。

 

 

 

 

何とか凍結した坂道を転ばずに歩き切って、しばし茫然のサチエ。

 

この朝、夜明け前のこの坂道は真っ暗で、並行して流れる真名井川の激しい水音だけが周囲の森に響き渡り、かなり恐ろしい状況でした。
そこを凍結で滑らないよう怖々上って行きましたから、寒さもあってかなり消耗してしまったのか、真名井神社の境内に辿り着き、さあ参拝だ〜と私が意気込んだタイミングで、サチエはぐったりと弱った様子でつぶやくように「お腹イタ〜ぃ…」とグロッキーに。

 

暗闇の中、どうしたものかと思いましたけれど、幸い境内に入るスグ手前に天橋立ユースホステルがありましたので、そこでトイレをお借りしひと休みできましたから、事なきを得ることができました〜(^_^;

 

 

 

 

宮津湾の向こうに横たわった栗田(くんだ)半島から、朝陽が昇ります。
冬至から少しずつ日が長くなる最初の朝を、若狭湾の最西端、ここ丹後半島で迎えました、

 

真名井神社の鳥居から籠神社の裏手へと続く道を、朝陽を遙拝しながらゆっくりと歩いて行きます。

 

 

 


 

伊勢の神宮―ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて』大阪府神社庁(和泉書院/1993年)

 

「伊勢の神宮」垣田時也(甲南女子大学教授)

 

 二(ハ)伊勢巡幸伝承

 

ところでこうした天照大神の遷座は結果としては伊勢であるが、笠縫から菟田筏幡(うださきはた)を経て近江国に入り、美濃国を廻って伊勢に到着するという迂遠(うえん)な巡幸路を辿(たど)っている。これも前述のとおり、日神から天照大神への新生復活のための必須条件で、貴種(きしゅ)が流謫(るたく)をとおして転生飛躍するという古代の物語の約束事でもあった。

 

 

 

 

そしてその大和の笠縫から菟田、近江、美濃を経て伊勢への経路は、天武天皇が天照大神の神威を背負って壬申(じんしん)の乱を駆け抜けられた国々であり、その妃(ひ)持統天皇の二度にわたる東国巡幸の国々でもあり、然も神宮の社殿造営と祭祀制度を整備されたのもこの両天皇であられたのだから、日神から天照大神へ転身にはこの国々の遍歴が最もふさわしかったのではあるまいか。

 

 

 

 

従ってこの巡幸経路が、巫女(ふじょ)の日神祭祀の伝承に加わり重って、倭姫命伊勢巡幸譚(やまとひめのみことのいせじゅんこうたん)となったとみることも出来よう。とくに持統女帝の諡号(しごう)が天照大神の神名に深くかかわる大倭根子天之廣野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)であることは、巡幸譚成立にこの女帝が大きく翳(かげ)を落としていることを見逃してはなるまい。

 

 

 

 

そしてこの倭姫命伊勢巡幸譚は『書紀』の記載から『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』や『倭姫命世記(やまとひめのみことのせいき)』らに持ちこまれ、神宮の展開に沿って性格を変え、より詳細に語られるのである。

 

 

 

 

まず延暦二十三年『弘仁式(こうにんしき)』作成の資料として神宮で記述し、時の政庁に提出されたのが『皇太神宮儀式帳」であるが、これは『書紀』の倭姫命の巡歴の国々に伊賀国が加わり、その経路は詳細をきわめており、その国々の各地で国造らの神田や神戸の奉納を伝えている。

 

 

 

 

従ってこれは神宮の神田や神戸の起源伝承であるが、同時に時代の変遷でようやく名目的になろうとしている、それらの神田や神戸を政庁に開陳し、その歯止めの効果を狙うという側面をもっていたのである。

 

 

 

 

次いで『倭姫命世記』である。これは『大神宮記』上下二巻の下巻の別名であるが、上巻が消失したため神道五部書の一つに数えられ、伊勢神道を語る主要書物として伝わってきた。この書物の成立は鎌倉時代の初期といわれているが、神宮の古伝承に『日本書紀』や『古語拾遺(こごしゅうい)』等々の数多い古代史の文献を巧みに勘案して記述されたものである。

 

 

 

 

内容は内宮・外宮の創立を始め、別宮や諸社の鎮座と祭祀の伝承のすべてを倭姫命の神慮と、それに協力した大若子命(おおわくごのみこと)の奉仕によるものとしているが、これは編者が外宮禰宜で、大若子命の後裔と名のる渡会(わたらい)神主であることと関連があろう。

 


 

 

従って時間の経過を無視してのこうした本書の性格は、明らかに史書としてよりも当時流行した社寺縁起物(えんぎもの)のそれで、当然に伊勢信仰宣布団として全国に散った神宮のそれも主として外宮の下級神職や巫女の宣布のためのテキストという一面を兼ねていた筈で、倭姫命巡幸の国々も『儀式帳』のそれに、昔から神宮にかかわりの深い丹波、紀伊、吉備の国を豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)の時代として挿入し、『儀式帳』成立の延暦年間以降に奉納されたと考えられる神領や神戸をもつ伊賀、近江、尾張の国に巡幸地が更に追加さている。

 


 

 

いずれにしても天照大神の伊勢遷座巡幸譚は、『書紀』のそれが、再生復活の儀礼的、理念的なもので、それ故に伊勢鎮座以降に始まった斎王群行(さいおうぐんこう)の制度も、これの強い反映ととるべきであり、『儀式帳』のそれは、神宮の神領や神戸の起源を伝え、その権利の回復を主張するという側面をもった時の中央官庁に提出した公文書であり、そして『倭姫命世記』は外宮の禰宜の手になる外宮祭祀を強く盛込んだ社寺縁起物の性格を多分に内包する神宮祭祀を中核とする神道書であるというような明らかな違いをもっている。

 

 

 

 

然しそれらの倭姫命の巡幸伝承の地が、伊勢信仰の展開に沿って伝承が土着化してその多くが神社の創建となり、倭姫命の巡幸が事実であるかのように現在に脈々と息づいているのである。ここに日本人の敬虔な信仰心と神宮に寄せる愛着心の並々ならぬものを感じるのである。

伊勢の神宮―ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて』大阪府神社庁(和泉書院/1993年)

 

 

 

そしてここから道なりに、籠神社へと向かいました。

 

 

 

(つづく)→ 海部家始祖の火明命を祀る籠神社〜冬至丹後元伊勢行(11)


 

 

 

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海部家始祖の火明命を祀る籠神社〜冬至丹後元伊勢行(11)

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真名井神社を参拝し朝陽に染まる〜冬至丹後元伊勢行(10)←(承前)

 

 

 


天橋立に向け南面した籠神社境内の東端、柴垣に沿った駐車場へと北から入って行きます。
朝日に照らされ、杜が朱く染まっていました。

 

 

 

 

東門。

 

この時、まだ青空が見えていますけれど、冬の日本海はいかに気候が不安定なのか、これからしばらく後、存分に味わうこととなります(苦笑)

 

 

 


籠神社の正面へと回りました。

 

石造りの一の鳥居前に掛かった宇治橋の上で、万歳ポーズのサチエ。
デッカイぞ〜、という気持ちをあらわしているようです。

 

 

 

 

サチエのアップ。
しかし、何だか顔が笑っていません。

 

時刻はまだ07:30頃ですが、すでに疲れきった様子…

 

 

 

 

今度は私が宇治橋に昇ってサチエを励ましますが、グッタリと薄笑いを浮かべるのが精一杯。
その顔を、朝陽が照らしていました。

 

 

 

 

二の鳥居、その向こうが神門で、さらに奥に拝殿、本殿と続きます。
一の鳥居から全てが一直線上です。

 


籠神社

 

//神:彦火明命(ひこほあかりのみこと)※籠神社海部(あまべ)家始祖
 
・・殿:豊受大神
(とようけのおおかみ)※彦火明命の奉斎神
・・・・・天照大神
(あまてらすおおかみ)
・・・・・海神(わたつみのかみ)※豊玉毘売(とよたまびめ)
・・・・・天水分神
(あめのみくまりのかみ)※真名井神社水戸神の御子神

 

【別称】籠宮大社(このみやたいしゃ)・元伊勢大神宮・伊勢根本丹後一宮・一の宮大神宮
【旧社格】延喜式内・名神大社・月次・新嘗・案上之官幣大社・山陰道一之大社

 

※以上、籠神社ホームページによる

 


籠神社ホームページ

籠神社ホームページ/籠神社について

籠神社ホームページ/籠神社海部家について


Wikipedia/籠神社

玄松子の記憶/籠神社

凡海郷/籠神社~山陰道一の大社~

Wikipedia/海部氏系図

 

 

 

 

境内の案内看板。

 

(この)神社(古称 吉佐宮(よさのみや))

 

御祭神彦火明命
相殿・・豊受大神天照大神
・・・・海神・・・天水分神

 

神代の昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りして来ましたが、その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました
その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりましたそれに依って當社は元伊勢と云われております
両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました


正直に申しまして、火明命ってどのような神さまなのか、この時ほとんど分かっていませんでした。


天火明命(あめのほあかりのみこと)を主祭神とする神社は、他に尾張国一宮の真清田神社が有名だと思いますが、そこへかつてお伺いした際にも、曖昧に「?」という感じで参拝させて頂いた覚えがあります。

 

記紀神話での活躍が記憶にないため、何となく天孫の誰か…程度の認識しかなく、その上、この元伊勢行では予習をほぼしていませんでしたので、籠神社の主祭神は安直に豊受大神だとばかり思い込んでいましたから、この案内板を見て少しショックでした〜。orz

 

お恥ずかしい限りです。

 

そこで遅まきながら、火明命について調べてみると、複雑です(泣)

なるべく分かりやすそうな解説を選ぶと、↓こんな感じ。

 

日本神話・神社まとめ/用語・神名など/アメノホアカリ

出自はハッキリしない 
アメノオシホミミ神の子、つまり系譜でいえばニニギと同じアマテラスの孫にあたり、「天孫」ということにもなります。ちなみにニニギの兄。子供にアメノカグヤマ神がいます。 
しかし、播磨国風土記によると「オオナムチの子」とされていたり、記紀の中でもニニギとコノハナサクヤヒメの子供で山幸彦と海幸彦の兄弟とされたり、ニギハヤヒ神と同一という説もあるなど、強烈なキャラクターでありながら、何処の誰かはよくわからない神様。 

 

ちょっと痛い神様 
ちょっと性格がきつく、すぐに切れる。播磨国風土記の中ではオオナムチ(オオクニヌシ・オオモノヌシ)の子供とされています。アメノホアカリのキレやすい性格にホトホト困り果てたオオナムチは、仕方なく騙して置き去りにしようとします。アメノホアカリに水汲みを命じ、そのすきに船で出発しました。水汲みを終えたアメノホアカリは当然、騙されたことに気づきます。ブチ切れて風と大津波を起こし、父オオナムチの船を沈めてしまいました。あー怖い。確実にDQN。

 

物語・由来
古事記に登場するのは「オシホミミの提案どおりにニニギが降る」のみ。 
●尾張氏、津守氏、海部氏などの先祖であり、先代旧事本紀ではニギハヤヒ(神武天皇の東征のときにナガスネヒコを裏切った高天原系の神)と同一視されている。ニギハヤヒは物部氏の先祖。

 

『播磨国風土記』や『先代旧事本紀』などにもその由来が遡るそうなので、今の自分にはちょっとハードルが高いですねえ…

 

Wikipedia/天火明命

 

 

 

 

二の鳥居。
一の鳥居は石製でしたが、こちらは木製です。

 

 

 

 

二の鳥居をくぐる前に手水舎へ。
私も何だか寝ぼけた様子で、サチエのことばかりカラかっていられませんね。

 

 

 

 

重要文化財の狛犬「阿」。

 

 

 


狛犬の説明看板。

 

重文狛犬(こまいぬ)(阿吽一対)伝 鎌倉時代作

 

伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が、天正年中不意に天橋立の松林に出現して、元伊勢詣りの参拝者や通行人を驚かした。偶々(たまたま)親の仇討ちにひそんでいた岩見重太郎が之れを聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音の方向に剛刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。以来社前に還座して専ら魔除(まよけ)の霊験が聞こえたと伝えられる。
他所と違い、胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の最大傑作と云われる。

 

 

 


狛犬「吽」。
確かに前足が切られ、継がれたようになっています。

 

 

 


神門。
この先は撮影禁止です。

 

ということで、↓上の写真をアップ。

 


この拝殿で本殿への参拝を終えると、境内摂社・末社を巡ります。

 

向かって右隣に、海部家の祖神二柱を恵美須として祀る摂社の恵美須神社がありますけれど、こちらも撮影禁止かと思ったため、写真がありません。

 

恵美須神社(えびすじんじゃ)※摂社
祭神:彦火火出見命
(ひこほほでみのみこと)・倭宿祢命(やまとすくねのみこと)

・・・※籠神社の古伝承では、彦火火出見命は彦火明命の別名とも云われています

 

 

 


そしてこちらは、本殿に向かって左隣。
写真の右から、

 

天照大神和魂社(あまてらすおおかみにぎみたましゃ)※摂社
祭神:天照大神の和魂
(にぎみたま)

 

春日大明神社(かすがだいみょうじんのやしろ)※末社
祭神:武甕槌命
(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)
・・・天児屋根命
(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめかみ)

 

猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)※末社
祭神:猿田彦神

 

真名井稲荷神社(まないいなりじんじゃ)※摂社
祭神:宇迦之御魂
(うかのみたま)・保食神(うけもちのかみ)・豊宇気毘売(とようけひめ)

 

 

 

 

そして、倭宿禰命の像。
大きな海亀に乗っています。


右手にお持ちの玉には、どのような由縁があるんでしょうか。

倭宿禰命は、海部家四代目の祖ということです。

 

 

 

 

/宿//

 

別名・珍(うづ)彦・椎根津彦・神知津彦
籠宮主祭神天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖

 

神武東遷の途次、明石海峡(速吸門(はやすいなど))に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰(やまとのすくね)の称号を賜る。
外に大倭国造、倭直(あたい)とも云う。
大倭(おおやまと・だいわ)の字音は、後の大和の(やまと)の国号に深い関係があると云われる。
亀に乗ったお姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族(あまぞく)の始原の一面を語り、又海氏(あまうじ)と天系(あまけい)との同一出自をも示唆するようである。

 

//
人生先導、事業成就、健康長寿、平和招来、海上守護

 

元伊勢籠神社・・・・・・・・・・
八十二代宮司海部光彦・・

 


海亀の鼻頭を撫でて一揖すると、そのまま裏参道から境内を出ました。

 

次はケーブルカーで傘松公園へ昇り、そこから登山バスで成相寺(なりあいじ)へと向かいますが、ともあれ休憩することにして喫茶店を探します。

 

時刻がまだ08:20ごろと早かったため、中々開いているお店が見つからない中、国道178号線沿いに化粧品店と兼業されているコーヒーハウスブレスを発見できたので入店。

 

ほっこりと家庭的な店内で、温かい淹れたてのコーヒーと店主との談笑でようやくホッとした一時を過ごすと、ケーブルカーの府中駅へ出立します。

 

 

 

(つづく)



 

 

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